盤上にて 170

黒い手の平を床の上にかざす。
そうして意識を集中すると、部屋の床には薄い波が浮き立った。
灰色のヴェールを広げたかのような波。半透明のそれを、青年は己の異能を込めて少しずつ濃くしていく。
次第に深くなっていく闇。アージェは呼吸を整え、焦りを消した。次にその闇を操作しようとする。
常人にも見える程具現化させた澱。彼の意図に応えて、波の中から黒い糸が十数本伸びてきた。黒い左手が宙をかく。彼は息を殺して集中を深めた。
「……くそ」
舌打ちと共に気を緩めると、たちまちに波は消え失せる。アージェは大きく息を吐き出すと体をほぐした。
「どうも駄目だな。やり方が分からない」
傭兵時代にはあえて使うまいとしていた異能であったが、ディアドとなってからは彼はその操作を一人で訓練するようになっている。
特に以前母に体を貸した時に、彼女がやっていた広範囲における殲滅は、自在に操れれば状況的不利も覆せるだろうと思うのだが、なかなかそこまでの操作は実現出来ない。アージェは軽い頭痛を覚えて寝台まで下がった。こめかみを押さえて腰を下ろす。
「うーん、あれはルゴーも知らないって言うしな」
血縁上は父である男であれば異能の操作も知っているかもしれないと、アージェは先日ルゴーを訪ねたのだが、返ってきた答は「澱を広範囲に現出させての操作は分からない」というものだった。
こうなるともうお手上げとしか言いようがない。何しろこの異能は本来当主による一子相伝で、書物などには記されていないものなのだ。
エイディアがそれを操れていたのも兄が当主であったことと、彼女自身の抜きんでた技術の為であろう。
とは言え戦場に出る機会が迫っている現状、出来ない分からないでは済ましたくない。
アージェは寝台の下に手を差し入れると、そこから一振りの短剣を引き抜く。
神具であるという短剣は、そのまま振るうには小振りなものだ。いざという時の切り札に使うしかないだろう。 アージェはそれをもらった時のことを思い出した。
―――― 彼の前にレアリアのディアドであった男。
ルクレツィアは、その男から異能の使い方を聞けなどと言っていたが、アージェからするとやはりネイは頭を下げたくない相手である。今現在何処にいるのかも分からないことであるし、その選択肢はないも同然だった。
アージェは手詰まりを感じて溜息を吐き出す。しかしすぐに彼は体を起こすと、再度澱を操る為に意識を集中したのだった。



本来ならその日アージェは午後いっぱいは休日扱いになっていた。
その為、自室で異能を操作する訓練に何時間も費やしていたのだが、頭痛を堪えてその作業に集中していたところ女皇から急な呼び出しを受けたのだ。
確かに危急時に備えていつでも居場所を明確にしているディアドだが、何の前触れもなく呼びつけられることは珍しい。
その理由を薄々察しながらもそ知らぬ顔をして執務室に向かった青年は、嬉しそうな笑顔のクレメンシェトラに迎えられた。
他に誰もいない部屋で、女皇は彼の顔を見るなり席を立って駆け寄ってくる。アージェは背の低い女を真顔で見下ろした。
「どうなさいましたか、陛下」
「レアリアが目覚めたのだ!」
飛びつかんばかりに叫ぶクレメンシェトラは両手で彼の服を掴む。胸元が引っ張られ、騎士の服はいびつに歪んだ。
「そうですか」
「来るのが遅いぞ! また眠ってしまったではないか。次はすぐに起きると思うが……」
早口にまくしたてる女は、或る意味我が事ではるのだが、それ以上に喜びを隠し切れていない様子だった。
アージェはそのような女に、苦笑したいような悲しみたいような気分を抱く。
彼の服をいいように引っ張っていたクレメンシェトラは、我に返ると不思議そうな目になった。
「驚かないのか?」
「驚いています」
「なら喜んでいないのか?」
「喜んでますよ。表情に出ないだけで」
下手な演技をするよりもそう通した方がいいと思ったのだが、クレメンシェトラは呆れ顔になってしまった。
彼女は服から手を離すと、盛り上がってしまった部分をぽんぽんと叩く。
「本当に気の利かぬ男だな。たまには素直になればよかろうに」
「そう器用ではないもので。すみません」
「まぁ……お前が器用であっても気味が悪いか」
クレメンシェトラは気勢を殺がれたのか、苦笑して執務机に戻った。椅子に深く腰を下ろして、扉の前に立ったままのアージェを見やる。
「レアリアが次に起きたら不在だった間の伝達を済ます。
 それが終わったら私はしばらく眠らせてもらおう。少し無理をしてしまったからな」
永く負い続けた荷。最古の女皇はそれを完全に下ろすことまでは出来ぬとも、この時ほんの少しだけ荷が軽くなったかのような笑顔を見せた。他人の幸福の欠片を受けて、白皙の頬が温かみを増す。
クレメンシェトラは微笑んで目を閉じた。
「本当によかった……お前も、レアリアも」
「…………」
「レアリアのこと、よろしく頼むぞ」
女は机上に置かれた硝子ペンをそっと手に取った。
窓から差し込む柔らかな日差し。緩く波打つ白金の髪が更なる光を纏って輝く。
微温湯のような空気と全てをうやむやにする安寧が、束の間アージェの足首を浸した。
現状を受け入れ、許してくれる心地よさ。それに流されてしまえば、或いは穏やかな幸福を味わえるのかもしれない。
しかしアージェは、女の思いに安堵することなく頭を下げた。自らが欺く女に誓う。 
「この身にかえましても。確かに」
その言葉だけは、疑いようもない彼の真実だった。

そして、翌日クレメンシェトラは深い休眠についた。






レアリアが目覚めたという話は朗報ではあるが、それを朗報として受け取ったのは当のクレメンシェトラだけである。
他の人間は勿論女皇の交代劇があったことなどまったく知らず、ただ近くあるかもしれない出兵とそれに関連する準備に奔走する毎日を送っていた。
特に、アージェから「一番うるさい親父」と看做されている外務官のキシンは、同盟所属国やそれ以外の国々との関係調整に忙殺されており、日夜精力的に動き回っているようである。
クレメンシェトラが眠りについてから三日。たまたま文官に書類を手渡しに行ってキシンと出くわしてしまったアージェは、ちょうどよい標的が来たとばかりにちくちくとその労苦について聞かされる羽目になっていた。職務上話せないこともあるのだろうが、十を越える国名を挙げられての話に、アージェは途中から意識をよそへ飛ばして相槌を打つ。
重臣たちが主に使う小さな会議室にて、直立不動のままキシンの話を聞かされている青年は、一通りを聞き流すと逆に気になっていたことを問い返した。
「同盟側はもうケレスメンティアの援護は確定していると思っているんですか?」
「確信まではしていないだろう。だからこちらにしつこく擦り寄ってはきている。皇配を出そうかともな」
「ああ、ケラン国王ですか」
「いや、他の同盟国の方だ。さすがに盟主は出せまい。ケランの話は一度駄目になっているしな。誰かのせいで」
嫌味のこもった補足をアージェは平然と受け流した。
その堪えなさにキシンは諦めたのか、ディアドをねめつけていた視線を動かす。
彼は机の上に積まれていた釣り書きの束をアージェへと押し出した。
「しかしこの情勢だ。皇配を差し出して安定を買いたいのは何処も同じだろう。
 ついでにこれを陛下にお渡ししろ」
十近い釣り書きを、アージェは受け取って流し見る。
そこにある国々は同盟所属国の他にまったく今回の衝突に無関係の国もあったが、そのほとんどが小国であった。
コダリスは勿論、イクレムやセーロンがないことを確認してアージェは尋ねる。
「イクレムは今回の件についてどう構えているんですか」
「今のところは静観するようだ。コダリスが同盟と衝突している隙に挟撃してやろうくらいは考えているかもしれんが」
「ならケレスメンティアに対しては?」
「どういうことだ? イクレムからは別にこれといった要請は出ていないが」
おかしなことを聞くというような目で見られ、アージェは「そうですか」と話を打ち切った。釣り書きを手に取ると更に何かを言われる前に部屋を出て行こうとする。キシンはその背に念押しした。
「陛下には必ず皇配をお選び頂け。いいか、必ずだぞ」
「かしこまりました」
しれっとした返事をしながら、しかしレアリアが子を産まないつもりであることを知っているアージェは、途中で釣り書きを池にでも放り込んでやろうかと一瞬考えた。執務室に向かって廊下を戻りながら、だがすぐに別の考えに気を取られる。
イクレムは永く賢王が支配してきた国だ。その為、ケレスメンティアの人間にとってはイクレムが不穏な動きを取る可能性など考えてもいないのだろう。第一、ケレスメンティアに敵対しようとする国家などいない。それがこの大陸の常識であるのだ。
けれどその常識を踏まえながらも、アージェは以前引っかかったフィレウスの態度を思い出す。
彼が継承者としてイクレムに招かれたあの時、「神具を上納してケレスメンティアに媚びるのか」と揶揄したケグスに、アリスティドは確か反論の意思を見せたのだ。
『大体我々はケレスメンティアに―――― 』と言いかけた言葉。
それが何を意味するのか、今のアージェは薄々察している。
本当にイクレムがケレスメンティアを不可侵と思っているのなら、そもそも三年前のログロキアの件ももっと早く手を引いていたはずだ。
それをぎりぎりまで攻勢の手を止めなかったのは何故か。何故フィレウスは神具と継承者を欲しがったのか。
アージェはそこから導かれる結論を口の中で呟く。
「イクレムは、多分ケレスメンティアと敵対するつもりがある……」
誰の姿も見えない廊下。その呟きは彼にしか聞こえなかった。

大量の釣り書きを持って帰ると、レアリアは予想していた通り嫌な顔になった。ざっと国名だけを確認するとアージェにそれらを返す。
「残骸が残らないように処分しておいて」
「結構難しいですね。俺、魔法士じゃないですよ」
燭台の火で燃やすにしても量が多い。庭で焚き火でもしようかと思ったが、それを見咎められる可能性もあるだろう。
アージェは首を捻ると、あることを思いついた。手袋を嵌めたまま左手を振る。
途端執務机の傍には水溜り程の黒い海が浮かび上がってきた。彼はそこにぽんと釣り書きの束を落とす。
たちまち黒い糸がそれらに絡みつき、紙のひしゃげる音をさせながら飲み込んでいった。
隣でそれを見ていたレアリアは目をしばたたかせる。
「面白いことするのね」
「研究中です。中々エイディア程には出来ませんが」
「ああ、そうね。直系筋には色々伝えられていたみたいだから……」
千八百年以上も続いていたディアドの技が失われるということは、どのような意味を持っているのだろう。
ケレスメンティアの人間でさえその能力の全貌を知る者はほとんどいないのだ。
―――― 神より与えられた呪い。
王の残滓やルクレツィアからそう言われてきた力に、アージェは単純ならざる思いを持って向かい合う。
黒い水溜りが消えてしまうとレアリアは嘆息した。
「ネイに聞いたら分かるのかもしれないけれど……」
「…………」
「え、何、どうしたの、その顔」
「いえ。何処にいるかも分からない人間ですし、あてにはならないかと」
「そ、そうね。ベルラに見つかっても面倒だしね」
一瞬で据わった目を主人に慄かれ、アージェは身を屈めた。顰めた顔を見られないようにして、床に残った釣り書きの破片を拾う。
気まずさ未満の沈黙が落ちる中、レアリアは何かを考えているような目でぼんやりとその動作を追っていた。彼が体を起こすと、手を伸ばしてその服の裾を摘む。
「ア、アージェ、今日、暇?」
「今も一応働いてます」
「その、夜とか」
「時間帯にもよりますが、働いてるか寝てますね」
ここからは途中レアリアが会議に出る為、三時間程休憩時間は予定されているが、基本就寝まで彼女の傍につくことになっている。
その予定を把握していないはずもない主人に、アージェは訝しむ目を向けた。
「何? やることあるならやるけど」
「あ、うん……じゃあお願いします」
ぺこりと頭を下げたレアリアは、何の用事があるかは教えてくれなかったが、「夜はあけておいて」とだけ念を押してきた。
そのお願いに頷いたアージェは、手の中の破片を握りなおすと、後でそれを池の中へと放り込んだのである。