盤上にて 171

触れることの出来る多くの女の記憶。
同じ顔をした彼女たちの足跡は、かつてはひどくレアリアを揺らしめた。
クレメンシェトラに少しずつ纏わりつき、次の女皇へと受け継がれてきた断片。
短い生を己のディアドと共に過ごした彼女たちの感情は、時折波頭のように飛沫を上げて痛みをもたらす。
レアリアはそのような記憶の欠片に、常に精神を焼かれながら育ったのだ。
まるで硝子の砂地を歩いていくような当然の苦痛。
だが、それももうすぐに終わる。欺瞞も虚構も崩れ去る。
彼女は自らの手で、ゆっくりと終わりの幕を引こうとしていた。




アージェが主人に就寝まで付き従う日は、寝室の手前にある小部屋で彼女を見送ることが通例になっている。
稀に人払いをして内密の話をすることもあるが、それは小部屋で短時間行うだけのものであり、用が終わるとアージェは控えの間にいる女官たちと入れ替わりに自分の部屋へ戻っていた。
その為、約束を入れられたこの日も小部屋で話をするのだと思っていた彼は、自分一人だけ寝室に招かれ怪訝な顔になる。
女官たちの意味ありげな視線を受けながら主人の部屋に入ったアージェは、僅かな明かりしかない広い部屋を見回した。
「模様替えでもするんですか」
「ど、どうしてそんなこと」
「力仕事でもするのかと思って」
基本的に彼女の寝室は、ディアドを除いて男の入室は禁じられている。
その為大抵の力仕事は女官たちが協力してやっているらしいのだが、彼女たちでは手に負えぬ作業でも出てきたのかもしれない。
そういう作業に駆り出されることはまったく苦ではない青年は、家具の少ない部屋を見回した。
彼を振り返ったレアリアはヴェールの隙間から見える頬を真っ赤に染める。
「ち、違うの」
「なら何を」
「あああ、あのね!」
「はい」
「あ、ああ、ああああ」
「…………」
レアリアの挙動不審は、最近こそ減ったものの未だに健在のようである。
アージェは彼女が騒いでいる間、お茶でも淹れようかと部屋の隅を振り返った。そこに備え付けられている水差しと加熱用の魔法具を取りに行こうとする。
しかしそっと歩き出しかけた時、彼はレアリアに服の裾を掴まれ足を止めた。さすがに無礼だったかと振り返る。
「いや、長くなるのかなと」
「な、長いかも」
「そうですか。じゃあお茶を」
「あ、あのね、朝までここに居て欲しいの……」
「分かりました。お茶淹れますね」
反射的に言いたいことを言い切って一歩を踏み出したアージェは、しかし遅れて消え入りそうな主君の言葉を理解し―――― そのまま絶句した。



自らの気を落ち着ける為にとりあえず淹れたお茶は妙に薄かった。
あの後すぐに「ちがうの! ちがうから!」と叫ばれながら背中を散々叩かれたアージェは、真っ赤になっているレアリアを眺める。
「で、何なんですか一体……」
「うう」
「ううじゃなくて」
お茶のカップを両手で持っているレアリアは、長椅子の真ん中で泣き出しそうな顔になっていた。
その表情を見て、テーブルを挟んで向かいに座っているアージェは多大な疲労感を味わう。
「何だよ。まず用件から言えよ」
「だ、だから私ね、皇配を選ぶつもりがないの」
「うん」
「でも空席のままだと皆が煩いし、変な揉め事起きたりするから……」
「大体分かった」
ディアドには皇配になる権利はなくとも、次代女皇の父親になることは可能だ。
つまりはレアリアはその位置にアージェを置いたと見せかけ、周囲を黙らせるつもりなのだろう。
後継者の不在が問題になっている現在、彼ら二人が積極的に喧伝しなくとも、こういった話は女官からすぐ他に伝わる。
アージェは昼間自分が処分した釣り書きを思い出し、薄いお茶を飲み干した。レアリアは不安げな視線で彼を見上げる。
「あの、だからアージェはただ今夜ここにいてくれればいいの。何もしなくていいし、勿論寝てていいから……」
「意図は分かったけどさ、レアは身の回りのこと全部女官にさせてるだろ? ちゃんと見られたら嘘だってばれるぞ」
「え、そ、そうなの?」
「多分な」
入浴からして女官に手伝わせているレアリアだ。傍仕えの女官たちの目を欺くにはそれなりの小細工をしなければならないだろう。
だが、彼女の表情からいってそのようなことが分かっているとは思えない。
アージェは何だか色々なことを投げ出したいようなささくれた気分になった。
ようやく顔の赤さが引いてきたレアリアは、真剣な目で問うてくる。
「じゃ、じゃあ、どうすればいい? 私、何かした方がいいの?」
「……俺の忠誠心を試してるんですか」
「そ、そんなことない! ちゃんと信用してる!」
「…………」
色々言いたいことを飲み込んで、青年は再度お茶を淹れる為に席を立った。レアリアに背を向け手元に集中しつつ、肺の中の息を全部吐き出してしまう。
そうして頭を冷やすと、アージェは彼女に指示を出した。
「最低限は俺が何とかしとくんで、着替えて寝ていいですよ」
「え、あ、アージェは?」
「適当に朝まで時間潰してます」
一晩くらいならば睡眠を取らずとも彼は平気である。
アージェは今度は注意してお茶を少し濃い目に淹れると、その場でレアリアを振り返った。
「眠ってしまうのが一番ですよ。余計な発言と行動は禁止」
「何それ……」
「気にしない」
暗い部屋の隅でお茶を啜る騎士から剣呑なものを感じ取ったのか、レアリアは躊躇いながらも立ち上がると着替えをする為に隣の部屋に消えた。
十分後、夜着の上に白い外衣という姿になって戻ってきた彼女は、怒られた子供のように素直に寝台に上がる。
アージェは代わりに彼女がいなくなったテーブルに戻ると長椅子の方に座った。自分も仮眠した方がいいだろうかと迷う。
時間を確認すればそろそろ日付も変わろうかという深夜だ。
淹れてしまったお茶を飲んで上着を脱いだ時、けれど寝台からはおずおずとレアリアが戻ってきた。青年は苦い顔を隠しもせずに主人を見やる。
「何だよ」
「ね、眠れない……」
「俺に言うなよ」
長椅子の隣にちょこんと座ってきたレアリアは、所在なげな面持ちを彼に向けた。
少し乱れた白金の髪。作り物めいた美貌が月光を受けて冴え冴えと白く映る。その中で物憂げに見える瞳だけが艶やかな色を帯びていた。
じっと見つめれば引きずられてしまいそうな眼差し。細い首から鎖骨まで落ちる影をアージェは目で追う。
彼は自分の意識に気付くと、改めて顔を顰めなおし話題を切り替えた。
「イクレムのことだけどさ」
「うん」
「フィレウスはケレスメンティアに喧嘩売る気があるよな? レアもそれ知ってるんだろ?」
昼間考えていたことをアージェが口にすると、レアリアは短い沈黙の後頷いた。
「多分そうだと思ってる。敵意って点ではコダリスもあると思うけど」
「トライン領ってイクレムから接触してきたのか? レアが接触させた?」
「私。正確には向こうから探りを入れて来てたから、それに便乗したの」
「なるほど」
そしてイクレムはその誘いに乗ってきた。レアリアはそこで相手の意図を確信したのかもしれない。
未だ起こりつつあることの具体的なところまでは把握していないアージェは、短い間に覚悟を決めると主人を見やる。
「クレメンシェトラも眠ったし、そろそろ聞いてもいいか? ―――― レアは何をしたいんだ?」
彼にとって唯一の忠誠の対象である女。その目的如何で彼女から離反するということはないが、それでも自分が何処に向かって進んでいくかは確認しておきたい。何しろ彼女が裏切ろうとしている最古の女皇は、彼女自身と命を同じくしているのだ。
この皮肉な状況にレアリアがどう決着をつけるつもりなのか、彼自身はまだ安堵出来る推測を持ち得ていなかった。
若干の肌寒さを感じる室内。レアリアの顔から刹那表情が消える。
彼女はしかしすぐに自嘲気味な微笑を見せた。
「私はね、大陸の現状を少し動かしてみたいの」
「現状?」
「うん。今は本当に小競り合いや興亡が酷いでしょう? 今に始まったことではないけれど」
レアリアの言葉は、この大陸に生きる者にとっては共通の認識であったが、アージェは「ケレスメンティアの女皇」がそれを口にしたということにいささかの驚きを抱いた。
大陸で唯一平穏が当然のものとされている国。この国の人間にとって諸外国のことは騒がしい外野でしかなく、神の意にそぐわぬ愚者たちの群れでしかない。その為いつも何処かしら彼らは国外のことを遠い世界のように捉えており、その興亡については高みから見物するような態度を取っている者も少なくないのだ。
しかしレアリアは、この国の統治者でありながら外の有様を少なからず憂いているようだった。彼女は膝の上で十指を組む。
「確かに大戦くらいになればケレスメンティアも介入はするけど、それもかなり後の方だし公平を意識してほんの少し手を出すだけ。
 結果として五十年前も戦争は長引いて酷い有様になったわ。
 ―――― でも、この国が最初から本気で加わっていれば、もっと早く事態は終結すると思わない?」
「それは……」
一種特異な位置にある国。大陸屈指の軍隊を持つというケレスメンティアが大戦の一角として参入するのなら、それは歴史上かつてないことと言えるだろう。或いはその話を聞いただけで慄き退いてしまう国も出るかもしれない。
大きな傷口を生む可能性がある代わりに、迅速な終息を得られる可能性もある選択肢。
すぐには何も言えぬアージェに、レアリアは笑った。
「ケレスメンティアが今まで不可侵状態でいられたというのも、決して全ての者がこの国を畏れていたからというだけではないの。
 長い年月の中には侵攻を企む国も多くいたわ。ただそういった国を先んじて叩いて気を削いできただけ。
 でもそれをもう一歩踏み込んでやってみたらどうかしら」
「……コダリスを叩く?」
「ええ。残念ながらあの国は火種を生む。放っておけばどんどん戦場は広がるわ。それに、目立っているあの国を叩きのめせばいい見せしめにもなる」
今まで十を越える国を屠ってきたコダリスが、その行いの為に深手を負うようなことになれば、今後似た野心を抱く者も慎重にならざるを得ないだろう。
アージェはそれが何処まで効果を持ち得るのか、考えながら別のことを確認する。
「ならイクレムとトラインを通じさせているのは、いざ劣勢になった時、民をトラインに逃がしてイクレムに守らせる為か」
「そう」
戦場に踏み込み敵を斬りつけるならば、斬りつけられた時のことも考えなければならない。
レアリアは、自国が敗北して本土に攻め込まれた場合のことも想定しているのだろう。いざという時には戦えない人間をトラインに移すつもりなのだ。
トラインは防衛の準備と共に多くの人間を受け入れる為の備蓄を進めていた。城都などから民を移動させた上でケレスメンティアからトラインを切り離し、別の強国であるイクレムの保護下に入れれば、コダリスもそこを攻めることは躊躇うはずだ。
アージェは小さく唸り声を上げる。
「思い切ったことするな。クレメンシェトラが聞いたら怒るぞ」
「だからこっそりやってるの。西部砦に移す軍を増やして―――― コダリスを正面から相手取る」
静かに微笑むレアリアは、けれどその時昏い野心を抱いているようにも見えた。
アージェは青紫の瞳に差す翳に、一抹の不安を覚える。



コダリスについてはダニエ・カーラの件もある。
ケグスがまだ同盟側に雇われているのか分からない現状、早々に介入出来るならアージェとしてもそれに越したことはなかった。
彼は長椅子の背に体を預けると、天井に向かって息を吐き出す。
「大体分かった。怒られそうだけど、ありだと思う」
「うん」
「俺は戦場に出ていいのか?」
「私も行くから。離れていたらおかしいでしょう?」
苦笑する気配。その言葉に驚いて彼はレアリアを見やる。
月が雲に隠れたのか、部屋の中が一段暗くなった。悲しげに微笑う女の貌がひどく遠く見える。
「阿呆か、危ないぞ」
「軍をそこまで出すのに、私が安全なところにいれば内部の反感を呼ぶわ」
「そりゃそうかもしれないけど……」
彼女の気を変えさせようと口を開きかけたアージェは、しかしログロキアの件でも彼女が戦場にいたことを思い出した。
薄い背に負われている義務と決断。その重みを悟って彼は奥歯を噛む。
「分かった。絶対守る」
「うん。頼りにしてる」
温かい言葉は、先の見えぬ暗闇の中で唯一手にする明かりのようだ。
懐かしい温度に、アージェはほんの一瞬だけ微笑を零した。主人に向かって頭を下げる。
「じゃあ今日はもう寝て下さい。ありがとうございました」
「うん……」
小さく頷いた彼女は頼りない体から力を抜いた。その顔に疲労と安堵が同時に浮かぶのを見て、青年は目を瞠る。
彼はけれどそれきり主人から目を逸らすと、じっと己の両手を注視した。
―――― 彼女を守って戦場に立ち、敵を下す。
突き詰めればそれだけのことだ。だがそれは単純ならざる意味をも持っている。
青年はしばし己の立ち位置と、これから始まる歴史の流れに思いを馳せた。出会った人間と別れて行った人間たちのことを想起する。



自分一人の物思いに耽っていた時間は、ほんの二、三分であっただろう。
ふとアージェは微かに聞こえてくる寝息に気付いて顔を上げた。隣に座ったままのレアリアを見やる。
「何でここで寝るんだよ……」
抱えていたことをアージェに打ち明けた彼女は、それで抱き続けていた緊張が解けたのかもしれない。安らかな表情で寝息を立てていた。
彼は苦々しさたっぷりの溜息をつくと、立ち上がり椅子から落ちそうな主人を抱き上げる。
そのまま広い寝台にレアリアを運んだアージェは、彼女の、二十歳には見えないか細い躰を見下ろした。手を伸ばして首元にかかる白金の髪を避ける。
「まったく……後で怒るなよ」
腕に残る柔らかな感触。甘い香りは、芯まで深く吸い込めば最後彼を捕らえてしまう。
アージェはだから息を止めて女の顔の横に手をつくと、そっと白い首筋に顔を埋めた。