盤上にて 172

起きなければならない時間には、特に何の知らせがなくとも目が覚める。
それはいつの間にかアージェの身についていた習慣で、今のところ便利だと言って支障がないだろう。
彼は時計を確認すると長椅子から体を起こした。寝台で眠っている主人に近づき声をかける。
「陛下、起きて下さい」
「う……」
「レア」
部屋には既に日が差し始めている。朝方のせいか冷え込む空気に彼の喉は少し痛んだ。
アージェはもぞもぞと動く女の肩を叩く。
「起きろ、レア」
「……アージェ? あれ?」
起こされてすぐの彼女は、まだよく状況が把握出来ていないらしい。
しかし青年は伸ばされた手を掴んでレアリアを引き起こすと、淡々と指示を出した。
「いいか? 今から一人で浴室に行って湯船に浸かること」
「……うん? うん」
「そうしたら俺が女官呼んどくから、そこで待ってればいい」
肌寒さを考慮して、夜着だけのレアリアの肩に外衣を羽織らせた彼は、主人を寝台から立たせると敷布を剥がした。
真白いそれをくるくると腕に巻いて回収する青年を、レアリアは不思議そうな目で見上げる。
「それどうするの?」
「焼却処分」
「え」
「いいから風呂」
ぴしゃりと言われた上に肩を押されて、女皇は頭を振りながらもぺたぺたと足音を立て浴室へ向かった。
彼女の姿が扉の向こうに消えたのを確認したアージェは、普段は使われていない暖炉に歩み寄ると、そこに敷布を放り込み燭台から火を移す。
完全に燃やしてしまう必要はない。ただ大体が燃えていればいいのだ。
アージェは火掻き棒と油を使って焼却の程度を調整すると大きく息をついた。
「こんなもんか」
後は女官を呼んでレアリアを任せてしまえば終わりで、だが精神的疲労は拭えそうにない。
「ディアドってこういう仕事もするものなのか……?」
その問いに答を出せる者は今はいなかった。


最低限の工作は、最低限ではあったがきちんとその役目を果たしたらしい。
一旦自室に戻って身支度を整え、軽い朝食を取ってから女皇を迎えに行くと、周囲の女官たちは予想通り微妙な視線を彼に注いできた。
けれどそれらを最初から無視すると決めている青年は、平然とした態度で二時間前に別れたばかりの主人を待つ。
瑣末な事を除けばいつも通りであるはずの朝。
しかしそれは、定時より少し遅れてレアリアが現れた時、いつも通りではなくなった。
開けられた扉をくぐってきた彼女は、アージェを見るなりその場で硬直する。もともとうっすら上気していた頬が、瞬間で真っ赤になった。
「あ、あ、あ」
「おはようございます」
「あ、あう、ううう」
「…………」
幼児返りか、と言いたくなったが、彼も原因には心当たりがあった。
女官たちが上げるくすくすとした忍び笑いが背中に突き刺さる。これはもう後で絶対彼女たちの話の種になるのであろう。
しかし全てを無視すると決めているアージェは、そこで顔を顰めたりはしなかった。立ったまま動かない主人へと手を差し伸べる。
「陛下」
「……!」
日頃なら廊下に出るまでは彼女を支えるはずの手は、けれど差し出した瞬間レアリアを飛び退かせるという意味の分からない現象を引き起こした。
我に返った女は、自分が反射的にしてしまったことに気付くと両手で顔を覆う。表情は変わらないが、怒っていることが気配で分かるアージェに命じた。
「きょ、今日はいいわ……あ、あの、一日休んでいて」
「……陛下」
「ご、ごめんなさい」
彼女は謝ってきたが、命令を覆す気はなさそうである。気になって仕方ないのか服の上からも胸元を押さえるレアリアを見て、アージェは「いつも通り」を諦めた。心の中で「後で覚えてろ」と呟きつつ礼を取る。
「では他の騎士に連絡しておきます。何かありましたらいつでもお呼びください」
「あ、ありがとう……」
ひょんなことから手に入れた休日。寝なおすべきかどうか迷いながら、彼は主人の部屋を辞した。
―――― 廊下に出た瞬間、女たちのさざめくような笑い声が起こった件については聞こえなかったことにした。



朝一番で訪れた訓練場に人影はなかった。
礼拝の時間だ。そのような時間に稽古をしようなどという不信心者はこの国にはいないのであろう。
しかしそういうアージェも、すぐには何もする気になれず、剣を抱えたまま広い訓練場の隅に座り込んでいた。茫洋と景色を眺めながら、昨晩レアリアから聞いた話を思い出す。
衝突が大きくなる前に、ケレスメンティアが積極的に戦場に出てその中心を叩く。
それは確かに有効な選択肢の一つだ。どのような決着になるか具体的なところまでは予想出来ないが、同盟とコダリス側の衝突による泥沼化は避けられるだろう。
だがそれをして後のことはどうなるのか。
レアリアの立場は大丈夫なのか。元より異例尽くめの女皇であった彼女だ。今度こそ内部からの強い反発にあうかもしれない。
またケレスメンティアは参戦により、不可侵の神の国から単なる強国の一つに変質してしまうのではないか。そうなれば長い目で見れば今後大陸はより混乱の範囲を拡大していくだけとなる。
多くの不確定要素。それらは考えれば考える程アージェの眉を曇らせたが、もとよりレアリアにはもっと多くのことが見えているのだろう。
―――― だからこそ彼は、己の不安を捨て去ることが出来なかった。
険しい表情で訓練場の隅にある木々を睨んでいたアージェは、しかし背後に人の気配を感じて振り返る。
手に練習用の剣を持った男は、ディアドに向かって人の悪い笑顔を見せた。
「よう。暇そうだな」
「礼拝さぼったのか。そんなだからベルラに不心得者って言われるんだ」
「形式が信仰の本質じゃないさ」
軽く嘯くエヴェンはアージェの隣に座った。にやにや笑いで若い同僚を見やる。
「で、今日何で休みになったか聞いてもいいか?」
「聞くな」
おそらく既にその話を知っているのであろう男の脇腹を、アージェは思い切り肘で突いた。
エヴェンは物理的な反撃を予想していなかったのか、「ぐっ」と呻き声を上げて体を折る。
隙あらば自分をからかおうとしてくる男を無視して、青年は考えていたことを口にした。
「あのさ」
「うん?」
「いざって時、クラリベルのこと頼んでいいか?」
「どういうことだ?」
「そのまんまのこと。俺はディアドだから、何かあってもあいつのところに行けないかもしれない」
城都の民を避難させる構想もあるということは、そこで暮らす妹の身も安全でなくなる可能性はあるのだろう。
アージェはクラリベルを村に返すことも考えたが、辺境とは言え故郷の村が属しているのはイクレムの隣国だ。どう戦場が拡大するのか分からない以上、まったく武力の存在しない村に若い娘を置いておいて大丈夫なのか確信が持てない。
それよりはケレスメンティアで大貴族の家に雇われていた方がまだましな気もする。
不透明な未来を見据えつつの逡巡。アージェは妹の為に出来るだけの手を打っておきたかった。
一方主君の思惑を知らない男は、突然の要望に軽く眉を上げる。
「別にいいけど、どうしてだ? 確かにあの子は美人になりそうだけどな」
「手を出せとは微塵も言ってない」
「何かあったのか?」
刺した釘を無視しての反問にアージェは答を迷った。
何処まで伝えればいいのか、どう返すべきなのか。だが結局は苦笑して言葉を濁す。
「別に何もないけど。いつまでも俺があいつの世話焼けるわけじゃないだろ」
「ついに妹離れする気になったのか?」
「とっくに離れてるよ」
からりとした声。しかしその奥には郷愁に似た思いが潜んでいる。
エヴェンはしばらく探るような目で若い同僚を見ていたが、やがて腰を上げると「分かった。後悔するなよ」と冗談めかして笑ったのだった。



四ヶ月ぶりの城都は、あいかわらずの様相を呈していた。
坂の多い整然とした街並み。他国がどれ程荒れていようとも変わらぬ平穏を、ユーレンは横目で見つつ先を急ぐ。
腕の中に抱えている資料は、彼があちこちを回って何とか手に入れたものだ。
今はもうない国、ログロキアに所蔵されていた数点の資料。この大陸には絶対数が少ないそれらを男は大事に抱えなおす。
まさかこのようなところで見咎められることはないと思うが、それでもユーレンは自分がそれをケレスメンティアに持ち込んでいるという不安を消し去ることは出来なかった。資料全てを入れた包み紙をぎゅっと握る。
―――― これらを持ってきてどうしようという明確な目的があるわけではない。
ただ外で育ちディアドになった青年なら、或いはこれを知ることに意味があると考えるかもしれないだろう。そもそも彼がこの資料を探したのも、かつて青年に読み書きを教えたという女の論文を見返していて、気になる箇所に突き当たったからなのだ。
それは数年前ユーレン自身がケレスメンティアの歴史書を書いた時にも引っかかっていた問題について、ある一つの仮説を呼び起こし、それへの裏づけを可能とするものだった。
はたして真実はどうであるのか、それを知りたいと思う一方、けれど深淵を覗き込もうとしているような畏怖もユーレンはまた抱いている。
彼はこれをアージェに伝えることが正しいのか否か、迷いつつも坂を上った。また当分世話になるファリシアの屋敷へと向かう。
己の考え事に夢中になっていたユーレンが、角を曲がって現れた女とぶつかってしまったのはそれからすぐのことだ。
小さな悲鳴を上げて尻餅をついてしまった彼とは違い、女は転びはしなかったが持っていた本を石畳に落としてしまった。自分も本を落としたユーレンは、慌てて混ざってしまったそれらを選り分ける。
「す、すみません」
「こちらこそ。不注意でしたわ」
十冊近い本を二つに分けようとしていた男は、けれどそのうちの一冊を手にとって目を丸くした。
「あれ、これ……」
彼が持っていた本ではない厚い一冊は、けれど彼の本である。女はユーレンが見ている本の題名に気付くといささか慌ててその本を引き取った。
「本当にごめんなさい。失礼します」
女性にしては背の高い彼女は、一礼するとそそくさとその場を後にする。
ユーレンは呆然として女の後姿を見送った。ふと足元の石畳を見ると、一枚の紙片が落ちている。
「おや。落し物ですかね」
拾い上げて裏を返せば、そこには整った字でぎっしりと年表が書かれていた。
ケレスメンティアの細やかな歴史について綴ったもの。だが何とはなしにそれらに目を通したユーレンの顔からは、次第に血の気が引いていく。
「まさか……これは……本当のことなのか?」
彼自身が恐れていた仮説。それと同じ方向性を示す書き付けに男の手は震えた。背筋を冷たいものが滑り落ちる。
美しい街並み。平穏そのものの神の国。
けれどこの時、坂の只中で立ち尽くすユーレンの目には、その乱れない風景が途端いびつに揺らめき始めたように映っていたのである。