幸いなるかな 173

白い壁に囲まれた部屋には何もない。
よく磨かれた床。薄白いそこには天井が映りこみ、鏡面の如き輝きを放っている。
窓もない室内にはけれど魔法の白光が満ちており、広くない部屋を隅々まで照らし出していた。
家具のない部屋。だがそこには一つだけ台座が存在する。
部屋の中央に備え付けられた細い柱状の台座は、その上に不思議な形の腕甲を座させていた。
蛇に似て螺旋状になっている銀は、肘から手首までを絡み取るように作られたものだろう。
手の甲にあたる部分は五本に枝分かれした銀が複雑な紋様を描いており、中央には大きな半球状の空結石が据えられている。
更に指側に向かう先端は縒られて一つの角を形作っていた。鋭い角の先にも小さな空結石がつけられている。
一見防具としてはあまり効果があるように見えない作り。
それゆえ人によっては空結石などから、これを魔法具と断じただろう。
しかしそれは魔法具ではあり得ない。
―――― 誰よりもそのことを、ダニエ・カーラは知っていた。
一人部屋に入ったイリデアは満悦の表情で台座に歩み寄る。美しい腕甲を愛しげに見つめた。
「まさか神具が本当に存在するものとはね。あなたにはどうお礼を言えばいいのかしら」
陶然とした問いかけにダニエ・カーラは答えない。
イリデアはけれどそれを気にもせず腕甲に手を伸ばした。白い指先が触れる寸前、頭の奥で痛みが弾ける。
『触るな』
鋭い警告。彼女はびくりと指を震わせ止まった。イリデアは苛立ちに目を険しくさせる。
「何故? これを扱えるのは私だけでしょう?」
『お前ではないわ。私が、使えるのよ』
釘刺すような言葉にイリデアは歯噛みした。
だがそれは紛れもない事実であり、彼女は上げていた腕を下ろす。
選出者の知識によって探し出された神具。それを得られたのもやはり選出者であるダニエ・カーラがいたからこそだ。
当初から比べ新たに力を取り込んだせいか、大分落ち着いた思考をするようになった女に、イリデアはあえて軽い調子で謝る。
「それは悪かったわね。あなたの針を探すのはもういいの?」
『残っていたものは全て取り込んだわ』
情味のない声にイリデアは頷く。大陸の歴史全てにおいて比類なき魔法士の女。その残滓が自身の中にいるということに、背筋のぞくぞくするような興奮があった。彼女は神具を名残惜しげに見やる。
「楽しみだわ、これを使う日が。皆、恐怖して這いつくばればいいのよ」
女は高い笑声を上げて踵を返す。
閉ざされる扉。誰もいない部屋の中、神具だけが鈍い輝きを放っていた。




砦の回廊から見えるものは一面の森である。
黒と見まがうような深い緑の森。それは木々の厚みを持って国境までを等しく埋め尽くしていた。
城都より若干高い気温。髪を揺らす風にアージェは目を細める。
隣にはガイザスが立っていて、壁のような巨体で風を受け止めつつ、森の彼方を睨んでいた。
ケレスメンティアの南西。その遥か先にはコダリスが存在する。
実際にはそこまでの直線上には複数別の国が存在するのだが、何もコダリスへは地上を進軍して向かうわけではない。この砦から同盟所属国の陣地内に転移陣を敷く手筈は既に整っていた。
ガイザスは前を見たまま呟く。
「このようなことは初めてだ」
それはケレスメンティアが擁する兵力のうち、最低限の防備を除いた全てが出撃の為にここに移されたことを指しているのだろう。
女皇からの細かい命令書を届けに来たアージェは、密かに男の反応を窺った。
しかしガイザスは平素と変わらず、何事にも動じていないような無表情のままだ。
ディアドの青年は一歩下がると礼を取る。
「三日後の出軍時には陛下もいらっしゃいますので、それまでに何かありましたら城へご連絡ください」
「分かった。陛下のことはよろしく頼む」
全軍の指揮をするガイザスには、前例なき規模であるがゆえに相当な重圧がかかっているに違いない。
表面上はそれを感じさせない男に、アージェは感心しつつもその場を離れた。城へと繋がる転移陣に向かう。
階段を下り砦の内部に入ると、三日後には出陣が控えているせいか、そこかしこから慌しい空気が漂ってきていた。
若い神兵たちが緊張だけではなく高揚を面に出しているのを見て、彼らと同年代のアージェは何処か皮肉さを覚える。今までに見てきた戦場の光景が、彼の脳裏を過ぎった。
現在大陸にある多くの国の中でも、コダリスは抜きん出て一筋縄ではいかない相手だ。
そのやり口はしばしば巧緻かつ辛辣で、戦闘が起こる前から勝敗が決している場合も多い。
更にそれだけではなく、多くの戦場を勝ち抜いてきたコダリス兵は単純に強いのだ。
大陸屈指と強さを謳われてはいても実戦経験の乏しいケレスメンティアが、戦巧者を敵に回して何処まで優勢になれるのか。それは蓋を開けてみなければ分からぬことであろう。
アージェは騒々しい砦内を抜け、転移陣の間へと行き着く。
見張りの兵士たちは彼を見て一礼すると両開きの扉を開けた。
三面の壁にそって配された十数個の転移陣。紋様が彫り込まれた石の円盤のうち、城へと繋がる一つを彼は踏む。


執務室に戻りアージェが報告を済ますと、美しい主人は微笑した。
「そう。ご苦労様」
「将軍も今回の規模に疑問は抱いているようですが、現状命令通り動くようです」
「いざ戦場に出てしまえば細かいことは気にならなくなるわ。私たちにはそれが許されているのだから」
レアリアの言葉に首肯しながら、アージェは微かに違和感を覚えた。
―――― いつか何処かで、似た言い回しを聞いた気がする。
それがいつの話であったか、彼は思い出そうとしたが、すぐには引っかかるものがない。
悩んでいる間に話題は別のものへと変わった。
「アージェ、今日はこれからもうお休みでいいわ」
「へ? まだ気にしてるんですか?」
言いながらアージェが手袋を外した右手を伸ばすと、レアリアはぎょっとして椅子ごと後ずさりかけた。
顔に触れる直前で止められた指を、彼女は目を寄せて見やる。
「ち、違うから。もういいの!」
「じゃあその反応はなんなんですか」
「は、反射的に……でももう平気だから!」
「…………」
先日の偽装工作からしばらく、主人である女に露骨に避けられていたアージェだが、その影響は未だ少しばかり糸を引いているようである。
彼は据わってしまった目を細め、彼女の頬に触れた。レアリアはぎゅっと目を閉じる。
滑らかな肌。アージェは指先で白金の前髪を退け、額から耳の前までをなぞった。
ゆっくりと手を動かす度に、彼女は細い肩を震わせる。
恐れているような緊張しているような貌には、不思議な愛らしさがあった。彼は美しい主人をじっと見下ろす。
花弁のような唇に触れるとレアリアはますます体を強張らせた。
抗いがたい柔らかな感触。彼はしばらくその様子を見つめていたが、不意に親指で小さな唇を割る。
「っ、アージェ!」
「……ああ、すみません」
両手をばたつかせて男の手から逃れたレアリアは、先程まで無骨な指が触れていた口元を押さえた。
青紫の瞳にはうっすら涙が浮かんでおり、頬はいつのまにか真っ赤になっている。
「口の中は汚いでしょう……」
「つい嫌がらせに夢中になりました。すみません」
「嫌がらせ……」
微妙に落ち込んだらしい主人を置いて、アージェは一歩下がった。逸れてしまった話題を引き戻す。
「で、何故休みなんですか? 今は特に危ないでしょう」
コダリスは他国の情報を集めることにも長けている。
おそらくは間諜がそこかしこにいるのだろう。ケレスメンティアの城内にまでそういった者がいるとは思い難いが、出兵の準備をしていることくらいは伝わっているはずだ。
だからこそ現在ケレスメンティアの宮廷は、暗殺者の侵入を非常に警戒している。
それは勿論、イクレムの王子が離宮の火事で亡くなったことや、レアリア自身が暗殺者の手で重傷を負った件も関係しているが、彼らがもっとも恐れていることはダニエ・カーラによる直接の襲撃だった。
城には当然ながら無許可転移での侵入を防ぐ結界は張られているが、彼女くらいになればそれを突破することも可能であろう。
そうしてレアリアのもとに直接ダニエ・カーラが現れたならば、その魔手を防げる人間は極々限られているのだ。
結果としてアージェはここしばらく主人の傍から遠く離れることはしていない。
そのような状況にもかかわらず出陣を間際にして何故休暇を与えられるのか、アージェは女の真意を掴みかねて眉を寄せた。
レアリアは赤い頬を押さえたまま説明する。
「ディアドになってからあなたが戦場に出るのは初めてでしょう? 妹さんとかに会っておきたいかと思って……」
「ああ」
言われてみればクラリベルと近くに暮らしていて戦争に行くのは初めてである。
レアリアは明言しなかったが命の危険もあるのだ。会っておいた方がいいというのはもっともな配慮だろう。
だがそれでもアージェは主人の傍を離れることに抵抗を覚えて仕方なかった。
肯定を返さない騎士に女皇は苦笑する。
「大丈夫。結界は強化されてるし魔法士たちも騎士も厳戒態勢を引いてるわ。
 それに私も……何も出来ないわけじゃないから」
女の手が白い胸元を押さえる。レアリアは首からかけている鎖に指を絡めて微笑んだ。
主人の気遣いに、アージェはまだ気にかかるものを抱きつつ頷く。

一旦自室に帰った青年は、軽装に着替えるとファリシアの家に伝令を頼んだ。
実は二週間くらい前から、戻ってきたらしいユーレンに「会って話がしたい」と言われていたのだ。
しかし情勢が不安である為、なかなかレアリアの傍を離れられずその申し出に応えられないでいた。
今日が休みになったのならちょうどいい。彼にも会ってこようと、アージェはその旨をファリシアの家に伝える。
最後に、城に残る魔法士と親衛隊の人間に大体の予定を教えてしまうと、代わりに連絡用の魔法具を受け取り城を出た。
いい加減見慣れた坂道。街へと下りる道を、アージェは足早に下りていく。
眼下に広がる街並みが、いつか戦火に包まれる日が来るのか―――― それを想像出来ない自分に青年は不思議な落ち着かなさを覚えると、かぶりを振って妹のもとへと向かった。