幸いなるかな 174

エヴェンの屋敷には特に事前の連絡をして行った訳ではないのだが、アージェが着いた時、クラリベルは兄と同様休憩時間を与えられていた。
偶然を驚く青年に、裏口から出てきた少女は微笑んでかぶりを振る。
「エヴェンさんがそうしてくれたの。アージェが来るからって」
「……素早い」
おそらく休暇時間の予定を親衛隊に伝えた際に、エヴェンにまで話が行ったのだろう。
そこからクラリベルの休みを手配した男のそつのなさに、アージェは感心した。
クラリベルはそのような兄を不思議そうに見つめる。
「それで、急にどうしたの? アージェが突然来るなんて珍しい」
「陛下から休みを貰ったんだよ」
彼が主人についてそう触れると、クラリベルはそれまでの笑顔から軽い膨れ面になった。拗ねたような上目遣いでアージェを睨む。
「女皇陛下が?」
「そう、レアが。って何だよ、その顔。俺に休み出せるのはレアだけなんだよ」
「ふーん」
釈然としない表情は一段怒りへと近づいたようである。
会って早々行き詰まりに陥ってしまった二人は、それぞれに沈黙した。
アージェは状況を打開しようと提案する。
「ちょっとその辺でも歩くか」
「別にいいけど」
小間使いの服装のままのクラリベルとアージェは、屋敷の敷地を抜けると、美しく整った街路を歩きだした。
貴族の屋敷ばかりが集まる一画のせいか、人通りは多くない。涼やかな風が時折道の上を駆け抜けていく。
二人はしばし何も言わず、お互いの歩調をあわせて歩いた。
元の屋敷が遠く見えなくなった頃、クラリベルは前を見たまま口を開く。
「お兄ちゃん、何かあったの?」
「何で?」
「何となく。いつもと違うから」
鋭い指摘にアージェは苦笑した。
昔からクラリベルは、人の変化を見抜くことが上手かったのだ。
彼の前では甘ったれた妹でいながら、本当は兄が人知れず憂いていないかと、いつも気をかけていたのだろう。
特に母が死んでからその傾向は強くなった。或いは彼女は、自分が母の分までその役目を担うと意気込んでいたのかもしれない。
家族三人寄り添って温かく、そして少し物悲しかった記憶をアージェは思い出す。
青年は離れていた年月を噛み締めつつ前を向いた。
「ちょっと仕事で国を空けるから。会っておこうと思って」
「変なの。長いの?」
「早く終わるかもしれないけど分からない。長引くかも」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ」
即答するとクラリベルは眉を上げる。
嘘が下手だとよく言われるアージェだ。これが本当に嘘であったなら、彼女にはそれが伝わってしまったのかもしれない。
だがこの時彼は本当に「大丈夫だ」と思っていた。
コダリスを下して必ず戻ってくる。―――― 戦争においてこのような意気込みを抱くのは初めてだ。
アージェはしかし、今は自身の変化を皮肉とは思わなかった。
自分がケレスメンティアの人間だという意識は薄いが、レアリアの騎士だという自覚は十二分にある。
そして彼女が勝利を命じるのなら、負けるつもりは元よりなかった。
少女は隣を行く兄に、複雑な視線を向けた。
「お兄ちゃんは変わったよね」
「ん? お前も変わっただろ。いい加減子供じゃないんだし」
「そうだよね」
頷いたクラリベルの声は若干沈んでおり、そこには落胆が見て取れる。
けれど彼女の目は足下を見ていたわけではなかった。確かな芯を持って真っ直ぐに前を見据えている。
アージェはそれに気付いて軽く目を瞠った。
「クラリベル」
「なあに?」
「いや……何か困ったことあったら言えよ」
「別にないよ」
「俺が捕まらなかったら、仕方ないからエヴェンに頼め」
万が一のことを指示する言葉。クラリベルは怪訝そうな目を兄に向けた。石畳を踏む足がざりざりと音を立てる。
単なる小間使いである彼女からすると、エヴェンに直接頼みごとをするということは敷居が高いのかもしれない。
だがエヴェンには彼女のことを既に頼んである。ある点では信用がおけぬ男だが、彼はアージェとの約束を守ってくれるだろう。
クラリベルは何かを問いたそうにしていたが、それ以上は聞き返してこなかった。
二人はしばし城都の整然とした道を散策しながら、他愛もない話を交わす。
そうして彼らは一周して再びエヴェンの屋敷の裏に戻ると、そこで足を止めた。
使用人たちが使う鉄門。その向こうへと帰る少女は兄と別れの挨拶を交わした後、門扉に手をかけたまま振り返る。
「アージェ」
「うん?」
「嫌になったら、私たちいつでも帰れるんだよ」
クラリベルの瞳はその時、深く沈み行く黄昏のように見えた。
アージェが息を飲んで言葉を失う間、彼女は身を翻し扉の奥へ消える。
鈍い音を立てて門が閉じてしまうと、青年は嘆息して頭を掻いた。
「参ったな……」
おそらくは兄が戦場に出かけるであろうことを見抜いていた少女。
単純な戒めの言葉にアージェは溜息をついた。人の命を奪うことを生業とする自分の、業の深さに自嘲を覚える。
―――― だがそれでも、やらなければならないことはあるのだ。
それが局所的な役割でしかないとしても、彼一人退いて何が変わるわけでもない。
大陸でもっとも特殊な国の、統治者の傍らに立ってもなお出来ることが多くなるわけではなかった。
アージェは妹の消えた門を一度だけ振り返ると、その場を後にする。



次に訪れたファリシアの屋敷はあらかじめ伝令を出してあったせいか、ほとんど待つことなくユーレンのいる一室へと通された。
長机とそれを囲む椅子しかない殺風景な部屋。その机上には既に数冊の本と資料が積まれている。
アージェを見るなり立ち上がって迎えてくれたユーレンは、強張った笑顔で頭を下げた。
「すみません、お呼び立てして」
「いや。全然時間取れなくて遅くなった。ごめん」
「それでも間に合いましたから。よかったですよ」
「間に合った?」
おかしなことを言う、とアージェは思った。
何に間に合ったというのか。彼の出征前を意味しているのだとしても、ケレスメンティアの出軍日時は一般には知らされていない情報だ。
怪訝に思いつつ彼が椅子を引いて座ると、ユーレンは自分の席に立ったまま資料を広げ始めた。呆気に取られる青年の前に一冊の本を開いて差し出す。
「あなたはこの本を読んだことがありますか?」
「え?」
言われてアージェは開かれた頁を覗き込んだが、研究書らしきそれは見るからに難解で簡単には読み解けそうにない。
かろうじて「神」や「大陸」などの単語を見て取ったアージェは、大きく首を横に振った。
「いや、覚えがないけど」
「そうですか。これはカタリナさんが書かれた論文に参考資料として挙げられていたうちの一冊なのですが」
「カタリナが?」
久しぶりに他人から聞くその名。驚くアージェが過去の記憶を引き出すより先に、ユーレンは頷いた。
「ええ。彼女が属していた学派は私とは系統が異なるのですが、実はある特徴があるのです」
「特徴? 迷子が得意とか?」
「違います」
思い出せるカタリナの特徴から一番無難なものを選んだのだが、やはり違っていたようである。
両手を広げて「分からない」と示すアージェに、ユーレンは話を続けた。
「その学派は少し変わっていて、西の大陸から持ち込まれた書物を正式な資料として扱うのです。
 それらは真偽が定かではない上に、かつてケレスメンティアから偽書と定められたものも多々ある。
 実はこの本をケレスメンティアに持ち込んでいることも、公になったら不味いのですよ。
 下手をしたら本を取り上げられた上、国外追放になりかねない」
「は? そんなになるのか?」
「分かりません。ただ没収か国外退去、どちらかは間違いないでしょう。
 ―――― それくらいこの本の内容は、ケレスメンティアにとっては忌避されるものなのですよ」
ユーレンはそう前置きすると、別大陸の書物についてその内容を語り始めた。

「あなたは大陸が元は一つであり、神々の手によって分割されたという話はご存知ですよね」
「ああ。神の槍が焼き切ったって言われてるあれだろ?」
「はい。西の大陸には神の槍の話は残っていないのですが、それは置いておいて」
ユーレンはそこで言葉を切ると、アージェに示した頁の一部分を示す。青年はその部分を凝視した。
「私たちの住むこの大陸では五人の神々の決裂について、その詳しい内容までは伝わっていないんです。
 ただ『増え続ける人間に対して意見が割れ、結果として大陸は分割された。
 ディテル神は人の中から王を選び代理統治をさせようと主張した』とだけ残っています」
「うん」
「でも西の大陸には五人の神全員の主張がおおまかにですが伝えられているんですよ。
 長兄は人間の完全な管理を。次兄は人の王による代理統治と闘争の奨励を。
 三兄は人間への不干渉と、増えすぎた場合の最終手段として滅殺を。四兄は人間への積極的な守護と繁栄の手助けを。
 そして末弟である西の大陸の主神アイテアは人間に自由を与えることを、それぞれ主張したとされているんです」
「へえ。面白いな」
相槌を打ちながら、だがアージェは聞いたばかりの内容に眉を寄せた。首を傾けて聞き返す。
「え。そのどれがディテルなんだ?」
「勿論次兄ですよ」
「だってそれは」
―――― 『王による代理統治と闘争の奨励』
その前半分は今までに散々聞いたことだ。だが残る半分は、それは

まるで戦争が神の意思に適う行いのようではないか。

「……何かおかしくないか?」
違和感を率直な言葉にすることが躊躇われて、アージェはそう口にした。ユーレンは真剣な表情で頷く。
「だからこそ偽書と言われているのですよ。これではこちらに伝わっているディテル神の話と大分意味が異なってくる。
 こちらでは神が代理統治をさせたにもかかわらず、人間はその愚かさによって戦争を始めたと言われているのですから」
「だよな」
ディテル信仰に詳しくなかったアージェも、確かにケレスメンティアに来てそう教わったのだ。彼はミルザが講師を務めた講義を思い出す。
だが彼はまた、自分の記憶の中で「それは違う」という声が上がってくるのに気付いていた。カタリナの声が鮮明に甦る。
「いや……やっぱり闘争は神によって『許されていること』なんだ。確かにカタリナはそう言ってた。
 だから同じ人死にでも澱が見えたり見えなかったりする……一方的な殺人は、神には許されていないから」
どうして傭兵であるケグスには澱がまとわりついて見えないのかという話になった時に、カタリナから呈された仮説。
あれはまさに、神が闘争を奨励していることを踏まえての考えだったのだ。
当時はそれが変わっていると気付かなかった青年は、断片的な情報を整理しようと思考を回転させた。その間にユーレンが補足する。
「そのような考え方は、ケレスメンティアからすれば異端です。
 現に西の大陸に残されてる神話では次兄神の名は、ディテルではなくディテルダとなっています。
 ケレスメンティアの七代目女皇コディアは、それを指して神の名と共にその御言葉も歪められたものだと否定したのです」
「神の名が違う?」
『―――― ああ、神の名って違えられてるんだっけね。忘れてた』
そう言ったのは確かルクレツィアだ。西の大陸から来た神の娘。
アージェは軽く混乱してこめかみを押さえた。
食い違う神の名と意思。二つの大陸で異なるそれらのどちらが真実であるのか。
彼はこの時、自分がまるで何もかもに欺かれているような気分を覚えた。