幸いなるかな 175

微妙に趣きのことなる二つの神話。
その違いが何を意味しているのか、アージェは掴みかねて腕組みをした。対面にユーレンを見ながら今までに見聞きしたことを反芻する。
ちりちりとした違和感は、今までも度々感じてきていた。
或いはそれらが密やかに積み重なってきたからこそ、彼は神話の食い違いに訝しさを感じても、あまり強い驚きを抱いていないのかもしれない。
アージェはかつてクラリベルが言っていたことをなぞる。
「俺の育った村ではさ、正直ディテル神ってそんな慈悲深い神と思われてないんだよ。
 とにかくまず怖いって思われてた。だからケレスメンティアで聖典読まされた時、へーって思ったんだけどさ」
「確かにそういったディテル観を持つ地域もあります。
 あなたの言うように畏れが先に立つ信仰は、どちらかと言えば神に対し西大陸の記述に近い印象を持っているのかもしれません」
「うーん。ユーレンはどっちが本当に近いと思う?」
―――― どちらが本当か、とは聞いても仕方がないことだろう。
二つのうちの片方が真でもう片方が偽とは限らない。第一彼ら二人ではどうあっても正答は出せない問題なのだ。
それでも宗教学者としてディテル神を専門にしているという男は、難しい顔でしばし沈黙した後に口を開いた。
「正直言って、私は今までケレスメンティアを中心とする文化的に進んだ層のディテル観を主に取り扱ってきました。
 勿論異なる学派がいることは知っていましたし、その内容も把握してはいましたが、それらはあくまで少数派なのです。
 専門的な話においてですが、いわゆる正統学派の方が理に適っている部分ははるかに多い。
 こう言っては失礼ですが、ディテル神を畏れる傾向も辺境の小さな集落に多く見られるものです。
 おそらく学者や魔法士の不在から、彼らはそのような印象を抱くに至ったのでしょう。
 敬虔な信仰者がいなければ信条について伝える者はいない。おまけに人々は強大すぎる存在には恐れを抱くものですから」
「確かに。普通に暮らしてると信仰ってあんまり要らないしな」
アージェのいた村にもやはり積極的な信仰はなかったのだ。皆ディテル神を畏れてはいても、毎朝礼拝をする者などいない。
彼らは神を、怒らせてしまった時に初めてその力が現れるものと思っていた。
ましてや戦場を渡る根無し草にとっては、信仰など皮肉な意味しか持ち得ない。
この国に来るまで敬虔さとは程遠い場所ばかりにいたアージェは、大陸内にも見られる食い違いに納得を抱いた。
「つまりユーレンは、二つの神話の食い違いは、ディテル神の信奉者がいるかいないかの違いだって思ってるとか?」
「ええ。そう思っていました。今までは」
「今までは?」
引っかかる言い方にアージェは眉を上げた。一方ユーレンは、まるで気落ちしたかのように肩を落としてしまう。
「実のところ私は、今まで偽書と認定されたものの原典にほとんどあたって来なかったのです。
 ですからはなからそれらを計算には入れていませんでしたし、ディテル観の違いも今言ったような原因と思っていたのです。
 けれどあの遺跡で選出者の残滓に出会ってからどうにも気になって……。何故神は、神具を人間に与えたのでしょう」
「何でって。確か有名な言葉があっただろ。えーと」
「人々を束ね、守り、戦え」
「そうそれ」
ディテル神が神具を与えた選出者たちにかけたという言葉。
それを引き合いに出す青年に、学者の男は深刻な表情になった。声を潜めて聞き返してくる。
「神具を渡して戦えと言う―――― ですがそれは、一体誰と戦えということだったんでしょう。
 当時大陸はディテル神に統治されていた。選出者たちには、神具を使わなければいけない程の敵はいなかったはずなんです」
『つまり、お互い以外には』と。
声を出さずに男は目で、そう言った。



分かたれたその時から神のものであった大陸。
神は人の中から人を選び、絶大なる力を持つ武具を与えた。
そして命じたのだ。

その言葉には、はたしてどのような意味がこもっていたのだろう。



室内の温度は少しずつ下がっていくようである。
それは沈黙した分薄ら寒さとなって、二人の背を冷やしめていった。
アージェはかぶりを振ってその錯覚を振り落とすと、テーブルに両手をつく。
「いやさすがにそれは……どうなんだ? 辺境部族とか叛乱が起きたらそいつらと戦えってことじゃないのか?」
「ほとんどの人間はそう思っていますね。ただ、そういったことだけが目的であるなら、やはり神具は強力すぎるんですよ。
 むしろ統治されている状態で渡すなら、もっと守りや文化的なことに使える神具を渡す方が自然じゃないかと。
 あなただって先程言っていたでしょう。『闘争は神に許されたこと』だと」
「そうだけど。本当に戦争規模の話とまでは思ってない。
 だってもしそうだったらケレスメンティアは神の意思に背いてるってことだろ。
 クレメンシェトラはディテルから平定を委ねられたんだ。話が矛盾してる」
定められた結論。そこにアージェがたどり着き肩を竦めると、けれどユーレンはますます難しい顔になった。
重い溜息をつく彼に、青年は不穏なものを感じる。
ユーレンは開いた本を手元に引き取って閉じると、積んである資料を横目で見た。
「今回間に合ってよかったというのは、それに関してのことです」
「どれ? ケレスメンティアがどうかしたのか?」
「ええ」
ユーレンは資料の山に手を伸ばすと、その上に乗っていた紙片を手に取った。
裏に何が書いてあるのか、だが男はそれを捲ろうとはしない。躊躇うような光が両眼に見て取れた。
「これには私の穿った視線がかなりの割合入っていると、あらかじめ断っておきます。
 ただ西大陸で伝わる神話に多少なりとも真実が混ざっているのだとしたら、見えてくるものは異なってくる。
 私が以前ケレスメンティアの歴史について本を纏めたことはご存知ですよね」
「ああ。言ってたな確か」
「はい。その時も資料を揃えていて思ったのですが、ケレスメンティアは基本的に動きが遅いのですよ」
「動きが遅い? 何の?」
「正確に言うと動き出しが、でしょうか」
持っていた紙片を手元に置くと、代わりにユーレンは資料の中から一枚の年表を取り出す。
広げられるとやたらと長いそれは、千年を越えるケレスメンティア史において主に出兵記録を中心として記したものであるらしい。
アージェは、自分も知っている程の大戦から細々としたものまでをざっと眺めて顔を上げた。
「ひょっとして動き出しが遅いって出兵時期のことか」
「ええ。大戦などの場合は特に顕著ですが、そうでなくとも大抵ケレスメンティアが軍を出すのは激しい衝突が起きてからです。
 大量の被害を出しながら戦場が広範囲に広がってようやく、この国は重い腰を上げているのですよ」
「いや、それは仕方ないだろ。ケレスメンティアは常に公平を意識してる。
 最初からどっかの陣営に肩入れしたり積極的にどっかを叩いたりしたら、大義が失われるとかあるんじゃないか?」
「それは、ええ、そうなのですが……」
だからこそ今回のレアリアの行動は異端なのだ。
遅ければ遅いで、早ければ早いでそれぞれの障りがある出兵。それを外野がどうこう言うことは難しいだろう。
アージェは再び広げられた年表に目を落とした。それぞれの戦争の期間と簡単な戦況の変遷を眺める。
淡々と綴られた闘争の歴史。その記録を見つめる彼に、ユーレンの声がかかった。
「確かにケレスメンティアには変わらぬ姿勢というものが求められていることもまた真実でしょう。
 ですから私は、あくまで事実だけを申し上げます。
 実はこれらの出兵によって、ケレスメンティアの介入が行われた戦争はそのほとんどが長期化の一途を辿っている。
 介入があってそれで戦いが終わるわけではないのです。
 弱者を支え、強者を挫き、戦況は五分五分へと戻され、また戦いが続く……。
 ケレスメンティアの差し入れた手は、まるで燻りかけた火を煽り立てるが如く、戦況を燃え盛る混迷へと導いているのです。
 はたしてこれは一体、何を意味しているのでしょうか」
投げかけられた問い。
虚を突かれたアージェは口を開く。
その脳裏ではレアリアともクレメンシェトラともつかぬ女が、目を閉じて薄く微笑んだ。






白い石の椅子に座り目を閉じる。
何もない広い空間。あちこちが罅割れたそこでただ一人生きているのが彼女だった。
レアリアは世界のあちこちに横たわる女皇たちの残骸を見渡す。
―――― 神の意を継ぐ者は誰か。
それは今となっては皮肉な問いだろう。クレメンシェトラは裏切り者であった。
だからこそ彼女は人の女の体を渡り歩く羽目になったのだ。
離反者であるカルディアスの監視役を任されながら、いつしか彼に惹かれ変わってしまった女。
今は眠り続ける最古の女皇に対し、レアリアは単一ならざる思いを抱く。
しかしそれは共感ではあっても同情とはならなかった。
彼女は聞こえない声に向かって呟く。
「カルディアスはもういない。あなたはもっと早くそのことを受け入れるべきだったわ」
白い空間のそこかしこに見られる亀裂。その向こうからは灰色の霧が浸食を始めている。
レアリアは冷然と変化していく世界を見つめた。白金の睫毛が揺れ大きな瞳が翳りを帯びる。
何もない宙に伸ばされた手。けれど白い指先は確かに何かを掴んだ。彼女の手の中すらりとした皇杖が現れる。
「コダリスは力を持ちすぎている……その性質からしても突出が過ぎるわ。シャーヒルだけでも排除してしまわなければ。
 それに、ダニエ・カーラも」
クレメンシェトラと並んで神代より残るもう一人の女。
選出者たちの中でもっとも奔放だった魔法士を野放しにしておくことは、到底出来ない。
そうでなくともダニエ・カーラは誰に何を言うか分からないのだ。
成長しないただの残滓とは言え、彼女は色々と表に出しては不味いことも知っている。
レアリアはその為、今回の出兵でダニエ・カーラごとコダリス上層部を一掃しようと考えていた。
少しずつ歩んでいく道行き。孤独なそこにおいて、レアリアはだが俯くことなく背を伸ばしている。
彼女はかつては純白だった空間の中、皇杖を手に立ち上がった。
「もうすぐに終わる」
朗々とした宣言と共に小さな足が一歩を刻む。
それは決然とした意志が窺える、紛れもない女皇のものだった。