幸いなるかな 176

城へと戻る足取りは軽くはなかった。ただアージェは早足で街中を歩き続けていく。
気がつけば走り出しそうになる焦燥は先程聞いた話の為だろう。
彼は黒いローブを纏った信仰者たちの集団を道の脇に避けると、人通りの少ない路地に入り更に歩調を速める。
妙に早い動悸に、アージェは自分でも軽い苛立ちを覚えた。
―――― ケレスメンティアの真の目的は戦争の長期化ではないか。
あまりにも物騒なその仮説は、だが現実として「そうとも取れる」事実を備えていた。
突出した強国がいればその国を牽制し、泥沼の果てようやく決着がつきそうな時に劣勢側を助ける。
その公平は局所的に見れば慈悲深いものであろうが、結果として言えば戦いを長引かせてきたことは確かだ。
アージェはユーレンとかわした会話を思い出す。

「戦争を長引かせたって……意図的なものかどうか分からないし、本当にそうだったらとっくに誰かが弾劾したんじゃないか?」
「先入観というものは存外強固なものですよ。まさかケレスメンティアがそのようなことをしているとは誰も思わない。
 疑いを抱いた国があったとしても、当の国が滅んでしまえばそれも残らないでしょう。
 声高な弾劾などしたらそれこそ口封じをされかねないですよ」
「そうか? 人の口を封じるってのは結構難しいぞ」
傭兵をやっていた時に様々な諍いにも関わってきたアージェは、あえて問題を軽くしようと話題の矛先を逸らした。
そうして疑惑を否定して信じたいと思う。だが誰を信じたいのか、それが今は不思議と曖昧だった。
ユーレンは難しい表情で息をつく。
「確かに個々人の口止めは難しいかもしれませんが……。
 例えば勝敗が決しかけた時に介入したとしても、ログロキアの件のように相手側が即座に手を引いた事例もあるのです。
 元々ケレスメンティアが出兵すること自体そう多くはない。
 他の無関係な多くの戦争に紛れて見えなくなってしまうというのが実情でしょう」
「ならやっぱり気のせいなんじゃないか?」
終盤に介入し戦争を長引かせるということがケレスメンティアの目的であるなら、イクレムに滅ぼされかけていたログロキアをすんでのところで救った、あの一件についても裏の目的があったということになってしまう。
だがアージェは少なくともそのように思ってはいなかった。
たとえあれが「男一人の為に出兵した」と揶揄される愚かさであっても、戦いを泥沼化させるために為されたことでは決してない。
レアリアはそのようなことをしない―――― 彼は自らの主人に対し、そう確信していた。
ユーレンは彼の意思を感じ取ったのか、ますます表情を曇らせる。逡巡の目を手元に注ぎ、そこに置いた紙片を手に取った。
男はそれを裏返し、アージェの前に差し出す。
「この一枚は資料ですらない。だからどうか最後まで聞いて下さい。
 ケレスメンティアの出兵は、全てが国内外で確認され記録されています。ですが、それとは別に記録されないような事柄もあるのです」
細かい字がびっしりと書き込まれた紙片。
それもやはり年表のようで、ただ書かれているものはどれも過去の大戦についての記述であった。
数十年ごとに欠かさず起こっている大きな戦。そこには今までの出兵記録だけではなく、ケレスメンティアがどのような戦況でどちらの陣営に何をしたのかが記されている。ある大戦では劣勢であった数ヶ国に物資を援助し、飢餓に陥りかけた民を救ったとの記述を見て、アージェはユーレンの言いたいことを察した。
「軍の介入だけじゃないのか……」
「ええ。ある時は食料を、ある時は武器や薬品を、ケレスメンティアは負けそうな国へ送り、秘密裏に援助している。
 そうして力尽きかけた国は再び息を吹き返して戦場に上がるのです。これは全ての大戦で共通して起こったことだった。
 ―――― と、これを書いた人間はそう言いたいのでしょう」
「へ? 何だそれ」
回りくどい言い方にアージェは目を丸くした。見るとユーレンは苦笑して両手を上げている。
「だから最後まで聞いて下さい。この紙片に書かれていることは『歴史上明らかになっていないこと』が多いのです。
 これらのことが全て事実で明るみに出ていたなら、あなたの言う通りもっと早くケレスメンティアの不審は指摘されていたでしょう。
 ですが実際のところ、大戦中に劣勢国が盛り返した件については『何処の国の援助か不明』ということになっています」
「じゃあ、これは妄想か何かなのか?」
「分かりません。当時の有力国の中にはそれが何処の国の仕業か掴んでいるところもあったでしょうが……。
 このように数百年に渡って記録し続けるということは難しいでしょう。
 ここには五百年前の大戦についても書かれていますが、その時代から残っている国などもうケレスメンティア以外にありませんから」
「ってことはやっぱり単なる仮定か。というかこれ、何処で手に入れたんだ?」
「問題はそこです」
男はがさがさと音を立て、資料の中から更に一枚の紙を取り出した。それをアージェに見せる前に説明する。
「実はその紙片、城都の街中で偶然ぶつかった女性が落としていったのです」
「え。城都って何処の国の」
「ここです」
「え」
ということはここに書かれている情報はケレスメンティア内部からの漏洩なのだろうか。
そう考えかけたアージェに、男はけれどかぶりを振った。
「確定という程ではないのですが、おそらく国外の人間だと思います。
 実はその女性、私の本を持っていたのですよ」
「ユーレンの本? ケレスメンティアの研究書ってやつか?」
「ええ。その本はお恥ずかしながら予算が足りずにあまり多くを作れませんで。
 買ってくださった方々も、ケレスメンティアの方はいらっしゃらないのです」
アージェの目の前に新しく置かれた紙は、どうやら購入者の名簿であるらしい。青年はそれを手に取り目を通した。
「ケレスメンティアについての本なのにケレスメンティアにないなんて変な感じだな」
「私の本など買わなくても公式記録が参照出来ますからね。その名簿に書かれているのも皆、上流階級の好事家などですよ」
ユーレンの言うとおり、そこに並んでいる人名はほとんどが家名持ちであった。
国名も併記されている中にはコダリスはなく、ただ目立つものとしてはイクレムがある。
アージェはその名を見て軽い驚きの声を上げた。
「これって王族か? でもイクレムの王族って」
「ああ、その方は火事で亡くなられたフィレウス王太子の弟君です。
 学問や芸術に造詣のある方で、知人づてに本を納めさせて頂きました」
「じゃあ本も火事で燃えちゃったか」
「焼け残ったものもあるとは聞いていますが、残っていたとしても今頃城の図書室でしょうね」
言われてアージェはイクレム離宮の焼け跡を思い出す。
確かにあの有様ではまだ中に本を残しているとは考えられない。青年は机に頬杖をつくと名簿の他の名前をさらった。
「つまり……この中の誰かに関係している人間が、ケレスメンティアに疑いを持って城都に潜入して来てるってことか?」
「その可能性はあります。私が見たのは若い綺麗な女性でしたが」
「面倒だな、この時期に……」
「むしろこの時期だからこそ、ではありませんか?」
話題を引き戻す男の声は、挑戦的というわけではなかったが、アージェの意識を逸らさぬ鋭さがあった。
二人の視線は広げられた紙の上でぶつかり合う。まだ若き女皇の騎士にユーレンは問うた。
「まもなく大陸には新たな大戦が起こるのだろうと皆が思っています。
 この状況にあってケレスメンティアがどう立ち回るのか、注目している者は一人ではないのでしょう。
 これまでの大戦のように強者の力を削ぎ、屈しかけた者を支えて立たせるのか。或いは傍観を保つのか。
 戦火が大きくなってからでは遅い。ですから私は大きな戦闘が始まる前にあなたに会ってお聞きしたかったのです。
 ―――― 現女皇陛下はこの状況において、今は何をお考えなのですか?」

男の問いに、アージェは何の答も返さなかった。



街中を抜けた青年は城への坂道を上り始める。元々早足だった歩調は既に駆け足になっていた。
アージェは道の先に見える白い城を、そしてその奥にいる女皇を目指して走っていく。
彼の仕えるただ一人の女。
友人であった彼女を支えたいと思ったからこそ、彼は騎士になったのだ。
そのような主人を疑うはずがない。何があっても彼女を守ると言った誓いが変わるわけではない。
そう思いながらも彼は、ユーレンの言ったことについてレアリアに確認するつもりでいた。
ケレスメンティアには二人の女皇がいる。遥か昔の大戦からそれが続いているとしたら、むしろクレメンシェトラの方が怪しいだろう。
公平を強く主張していた彼女は、その公平を意識するがゆえに戦いを長引かせてきたのかもしれない。
もしそうであるなら真実はレアリアに聞けば分かるはずだ。
走って城門へと到達した彼は、驚く神兵たちの間を抜けて執務室へと向かった。そこにいるであろう主人に会いに行く。

彼がいささか乱暴に扉を開けた時、レアリアは執務をしている最中だった。驚いた顔を上げ、彼を見る。
「どうしたの、アージェ」
「いえ。少しお伺いしたいことがありまして」
「なあに?」
平素とまったく変わらぬ様子の女に、アージェは若干緊張を緩めつつ後ろ手に扉を閉めた。話が話であるからして彼女の傍へと歩み寄る。そうして彼は低い声で切り出した。
「実は知人からこのような話を聞いたのですが―――― 」
西大陸の神話から始めて、大戦におけるケレスメンティアの立ち回りまでを話す間、レアリアは微塵も表情を変えなかった。
彼女は短くない話を聞き終わると、じっと己の騎士を見上げる。
「ねえ、アージェ。それを教えてくれたのって誰? 今何処にいるの?」
「…………」
青紫の瞳には、一瞬底がないように見えた。
美しい女がまるで人形に変じたかのような錯覚。自分を見つめる虚に、アージェは内心の動揺を隠して聞き返す。
「何故そのようなことをお聞きになるんですか」
「だってそんなこと言ったら周りから怒られて危ないわ。街にいるの? 城に招いた方がいいかしら」
「不要です」
妙に息苦しい。彼は服の喉元を緩めたくなったが、それをしてはレアリアにうろたえていることを見抜かれてしまうだろう。
ユーレンの居場所を知ってどうしたいというのか。アージェは真意の分からぬ主人を見つめつつ確認する。
「それよりこれは本当のことなのですか?」
「多分違うと思う。一番新しい大戦でも五十年前のことだし……私はまだ生まれてもいないから分からないけど。
 戦争の長期化もケレスメンティアが実戦慣れしていないからじゃないかしら。
 今度はそのようなことがないようにするつもり」
「……そうですか」
「ええ」
微妙にはぐらかされてしまった気がする。
アージェは主人の口振りなどからそう感じたが、レアリアが違うという以上、これ以上聞いて進展するとは思えない。
「今度は違う」という言葉を受け、彼は一歩下がった。
頭を下げる騎士にレアリアは優しい声をかける。
「どうしたの? 急にそんなこと言い出して。……ねえ、やっぱり私といるのは嫌になった?」
穏やかな笑顔を浮かべての問い。
憤りも悲しみも、そして疑いも見えない貌は、その時彼を捕らえたいようにも放したいようにも見えた。
アージェは目を閉じると首を横に振る。
「いいえ。それはありません」
「そう……」
空気中に溶けてなくなる声。
レアリアはそれ以上話をする気がないようだった。書類へと戻る彼女を見やって、アージェは一礼すると扉に向かう。
―――― かつて騎士になりたくないと思っていた頃。
主人の言葉に盲従して力を振るうことが嫌だと、人に言ったことがあった。
だが今の自分は果たしてそうなっていないと断言出来るのだろうか。扉の前まで来たアージェはレアリアを振り返る。
そして彼は、最後の問いを口にした。
「陛下、『闘争は神によって許されていること』なんですか?」
まさに今日、彼女自身の口から聞いた気もする断片。
その意味を確認しようとする青年に、レアリアはこの上もなく可憐に微笑んだ。紅い唇がゆっくりと動く。
「ええ、そうよ」
まるで毒液のような肯定。
それを聞いたアージェは嘆息を飲み込むと、黙って執務室を後にした。