幸いなるかな 177

ケレスメンティアの西部砦は、中央部分に巨大な正方形の広場を持ち、それを取り囲むようにして一回り大きい建物部分が配置されている。
森の中に聳え立つ砦。その建物の更に外周には二重に石の防壁が築かれてはいるが、それが意味を持つ事態にはなったことがない。
この砦は二百年前に建てられてから一度も攻められたことがなく、ただ軍が駐留し、移動する為の中継点となっているのだ。
四方を建物に囲まれた広場。かなりの広さを持つそこでは今、夜明け前から魔法士たちが二十人がかりで出軍用の転移陣を描き出していた。
両手を広げた大人三十人分程の直径を持つ円陣は、アージェが今まで見てきた中では最大のものである。
彼は建物の三階にある部屋の窓から、その作業をじっと見下ろしていた。奥の椅子に座っているレアリアが微笑む。
「面白い?」
「はい。あれ線を魔法で引いてるんですね。誰かが描いてからそこに魔法をかけるのかと思っていました」
「そういうことも出来るけれど、面倒でしょう? 同じものを量産する時は紋様を職人に任せるみたい」
「魔法具などですか」
「ええ」
レアリアは右手側にある小さなテーブルからお茶のカップを取った。
優美な仕草でそれを飲む主人を、アージェは窓際から見やる。

あの日執務室を出たアージェが真っ先にしたことは、ユーレンに対し「すぐに居場所を変えろ」と連絡することだった。
レアリアが調べようと思えば、彼のこともその居場所もすぐに分かる。ただでさえ偽書指定を受けた本を持ち込んでいるのだ。用心するにこしたことはないだろう。
それに対しファリシアの家から戻って来た返事は「了解しました。また後で連絡します」というものである。
アージェは素早い対応に安堵しつつ、ユーレンに申し訳なさを抱いた。
何の用心もなくレアリアに全てを問うてしまった、自身の浅慮を反省する。

女皇からの肯定。
「闘争は神に許されている」ということが真実なら、ケレスメンティアで信じられている神話には間違いがあるということになる。
ならば選出者たちもユーレンの言う通り、お互い相争う為に神具を与えられたのだろうか。
真実を知りたい気もするが、クレメンシェトラが眠っている今、他に確かめられる相手もいない。
アージェはすぐには受け入れがたい仮説に、この三日間揺らぎ続けていた。
―――― 彼女を疑っているわけではない。
そう言ってしまえば嘘になるかもしれない。だがアージェは、自分がレアリアを疑っているとは思っていなかった。
ただ彼女はやはり、全てを教えてくれているわけではないのだろう。
何故隠し事をされるのか、彼はきちんと問い質したかったが、主従の持つ距離感がそれを邪魔した。
アージェは、いつもと変わらぬように見える主人を見つめる。
長い睫毛を伏せお茶を飲む彼女は、けれど少し淋しそうにも見えた。
ただそれ以上に女皇である彼女には一本芯の通った高貴さがあり、それは薄い壁となって触れられることを拒んでいるようである。
戦争を前にしても焦りや恐れを見せない主人に、アージェは不審未満の懸念を飲み込んだ。
穏やかな沈黙の時間。不意に部屋の扉が叩かれる。
「入りなさい」
レアリアの許可を受け現れた人間はミルザだった。彼女は女皇に一礼するとアージェに向き直る。
「兄、準備が終わったそうだ。まもなく各隊ごと移動を始める」
「お前、公的な場でも俺をそう呼ぶの?」
「兄こそお前などと言ってはならない」
お互い何とも言えない表情で黙ってしまった二人に、レアリアの噴き出す声が聞こえた。
渋面で主君に頭を下げる兄妹は、女皇の支度の為に入ってきた女官たちと入れ違いに隣の部屋へと出る。
アージェは、剣こそ佩いていないものの騎士の略装を身に纏っている妹を見て、怪訝な顔になった。
「お前は戦場出るのか?」
「当たり前だろう。これから着替えもせねば」
ケレスメンティアでは戦場に出る騎士は皆、金属鎧の上に聖職衣である外衣を纏って騎乗する。
その為ミルザもこれから鎧を着込むつもりなのだろうが、青年はそれを聞いて眉を顰めた。
「いや、ここで待ってれば?」
「何を言うか兄! 私が出なくてどうする。コダリスにはダニエ・カーラがいるではないか!」
「あー……」
他に面倒事がありすっかり忘れかけていたが、言われてみれば彼女の問題があったのだった。
魔法士や異能者以外には相手取ることも難しい女を、アージェは渋い顔で思い出す。
今回彼女は一体どのような動きを見せるのか―――― そこまで考え、アージェはぽんと手を叩いた。
「そうか、ダニエ・カーラがいる」
「何を今更言っているのだ……」
馬鹿を見るような目で見てくるミルザを無視して、彼は自分の考えに没頭する。
レアリアが黙し、クレメンシェトラが眠っているこの状況、神代の真実について知っている人間と言えば他にダニエ・カーラしかいない。
或いはルクレツィアであってもそれを知っているのかもしれないが、彼女は基本別大陸の存在である上、いつ会えるかも分からないのだ。
その点ダニエ・カーラはイリデアの体を使っているがゆえに居場所は明確である。
アージェは何とか彼女を捕まえ話を聞けないか思案し始めた。と、横からミルザに腕を抓られる。
「……何すんだよ」
「兄、また馬鹿なことを考えていないだろうな」
「馬鹿なことって何だよ」
「ダニエ・カーラに慈悲をかけようなどということだ。あれがガージリアで何をしたのか忘れたのか?」
「…………」
城内で無差別な殺戮を行ったダニエ・カーラ。
あの場に居合わせた者なら、彼女との話し合いははなから成立しないと考えるだろう。
そもそも尋常ではない力を持つ魔法士だ。余計なことを考えてはこちらに被害が出かねない。
アージェは、彼女がクレメンシェトラに並々ならぬ敵意を抱いていることを思い出し、浮かびかけた案を捨てた。
深い息をつく兄の横でミルザが腕組みする。
「まったく兄は仕方ないな。さて、私はそろそろ着替えるが、兄もきちんとしろよ」
「あ、俺、このまま行く」
「きちんとしろと言っているだろう!」
少女の怒鳴り声は予想していたことであったので、彼は両手で耳を塞いで対応した。声が通り過ぎると紺の外衣を着た己の胸を示す。
「ちゃんと下は鎖帷子着てる。あんまり厚いの着ると動きづらいんだよ」
「兄はいざという時、陛下の盾にならねばならないのだぞ!」
「平気。俺、人より頑丈だから」
言いながらアージェは左手を上げてみせる。手袋に隠れているその下の肌がどうなっているか、ミルザも思い出したのだろう。
彼女ははっとして口を噤むと、しかし恐る恐る問うてきた。
「兄のそれは、実のところ何処までなのだ?」
「今は大体左上半身全部。あ、背中は見たことないから分からないな。どうなってるんだ?」
「陛下にお聞きすればよかろう」
当然のように言ってくる妹の頬をアージェは無言で抓り上げる。
ミルザは「にゃにをしゅる!」などと騒いだが、彼は完全にそれを無視して頷いた。
「ってことで、染まってる部分は硬度を操れるからな。どういう仕組みか分からないけど」
「……剣の現出と同じ仕組みだろう。澱を実体化させて肌の上に薄い鎧を張っているのではないか?」
「なるほど。全身そうだったら楽かも」
「兄の色では異様なだけだ。夜陰に紛れたら見つからなくなるぞ」
「それ、裸でいろってことか。お前は馬鹿か」
アージェは一つに纏め上げられているミルザの髪を引っ張ろうとしたが、少女はそれを大きく後退して避けた。
にやりと笑いかけた彼女は、しかし部屋の時計に気付いて飛び上がる。
「兄と遊んでいると遅れてしまうわ!」
「さっさと着替えて来い」
「当然だ!」
軽い足音を立てミルザは早足で扉に向かった。その背をアージェは目で追う。
「ミルザ」
「何だ、兄?」
「ダニエ・カーラを一人で相手しようとするなよ。俺を呼べ」
短気なところがある異母妹に刺した釘。
目を丸くした少女は、だがすぐに照れくさそうに笑った。年相応に見えるあどけない表情。兄と同じ色の瞳が細められる。
「兄は私になど構っていないで、陛下をお守りすればいいのだ!」
快活に笑いながら部屋を出て行く少女は、忠告を聞く気があるのかないのか分からない。
アージェは「まったく」とぼやきながらも微苦笑すると、近くにあった椅子に腰を下ろした。



国外への移動は予定通り始まり、完了した。
コダリス国境のすぐ東、旧ログロキア領内に転移したケレスメンティア軍三万七千は、転移先の平野で行軍用に陣を組み直す。
最初の計画ではコダリスから見て西方の同盟国内に移動する予定であったのだが、それだとコダリスに行き着くまでにエフェミを通らなければならない。レアリアはコダリス以外の国との衝突を避ける為、土壇場で転移先を変えるよう指示していた。
ログロキアが滅びた後に生じてしまった空白地帯。草木のない乾いた土地に並ぶ軍勢は、壮観の一言につきる。
緩やかな坂の上、レアリアの傍らに馬を立てているアージェは、初めて見る規模の正規軍を感心の目で眺め渡した。
鎧の上に白と深緑の聖職衣を纏った神兵たちは、枯れた色の風景からは異質に浮き立っている。
神の剣とも喩えられるケレスメンティア軍。自分がその中にいることに違和感を覚えつつ、アージェは隣にいる女皇を見やった。
馬上の彼女は視線に気付くと微笑んで己の騎士に手を差し出す。その手に彼は、預かっていた皇杖を渡した。
水晶を先端に乗せた女皇の杖は、前に彼女から聞いたところ儀礼用の複製品であるらしい。
しかしそれは充分な神聖さを持って兵たちの注目を集めた。レアリアの声はよく晴れた青空の下朗々と響く。
「皆、よく聞きなさい。―――― 此度の戦、勢いづいた火種を刈り取るは、ケレスメンティアの務めです。
 あなたたち一人一人の剣には、今、多くの運命がかかっている。敗北は許されないと心しなさい。
 顔を上げ、恐れることなく進むのです。あなたたちの手で立ち込める混迷を切り払い、この世に真の鎮定をもたらす為に―― 」
女皇は長い皇杖を以って、剣を払うように眼前の宙を薙いだ。そうして水晶のついた杖の先でコダリスの方角を指す。
堂々と伸びた背筋。澄んだ空に映えるその姿は美しく、人を従わせるに相応しい威厳があった。
アージェたちは自分よりも遥かに小柄な女皇を、まるで仰ぎ見るかのような気分で注視する。
坂の下にいる兵士たちが次々頭を下げる様が視界の隅に見えた。
波打つ動きはいつしか、彼女の声が届かなかったであろう彼方にまで広がる。
信仰によって研がれた神の剣。レアリアは兵たちの姿を冷然と睥睨した。その両眼に昏い翳が走る。

後に「ディメント・レスンティア」と呼ばれることになる十数日間。
その最初の一日が今、彼らの目前に迫っていた。