幸いなるかな 178

広大な深緑の森の中、まるで突き出した柱のように細く赤茶けた台地が、木々を遥か下に見下ろしながらひっそりと聳え立っている。
海原にうちこまれた巨大な杭のようなそれは、だが一つには留まらず森のあちこちに点在していた。
雑多な種類の植物が生い茂り、高低差の激しい大地を持つ土地。
コダリス北東部に広がる「ワーズの森」は、自然の状況がゆえに人の立ち入りが難しい一帯となっていた。
そのような場所の外周近く、森から飛び出した台地の一つに、金色の目の少女は立っている。
一歩踏み出せば転落死は間違いない場所で、彼女はしかし何の恐れも感じさせず、先の平野に見える軍勢を眺めていた。
森を背にして布陣しているその軍は、コダリスのものである。
彼らはここでケレスメンティアを迎え撃ち、状況によっては迷路の如きワーズの森の中に相手を引きこもうとしているのだろう。
両翼を前に出しすり鉢型の陣形をとっているコダリス軍を、少女は興味のなさそうな目で見下ろしていた。
彼女の後ろに立つネイが声をかける。
「止めないのか?」
「何で私が? 別大陸の人間のことなんて関係ないし」
「その割には今まで散々手を出していたみたいだが」
西大陸から連れてこられ、案内役として、そして彼女の手足として使われていた男は皮肉げな声をかけた。
ルクレツィアは両手を上げ肩を竦める。
「そう? 私が手を出したのなんて、楔と神具に少しだけでしょ。後はもうどうでもいいわよ」
「放置するのか? 神具が使われるぞ」
予想外の返答にネイはいささか顔色を変えた。
彼らの視界の先、布陣しているコダリス軍は約二万三千。
西部ではケランら同盟国との睨みあいも続いている為、それが今動かせる最大限の兵力だったのだろう。
だがケレスメンティアを正面から相手取るにはいささか不足であることは確かだ。
いくらコダリスの兵が戦巧者ばかりとはいえ、相手は名にし負う神の国である。
仮に勝てたとしても辛勝では、続く同盟との戦で叩きのめされてしまうだろう。
―――― しかしコダリスはそれを見越して切り札を持ってきていた。
ダニエ・カーラが選出者の知識を以って遺跡の一つから持ち出した神具。
初めて歴史の表舞台にあがるそれは、一度使われれば他の神具らと同様、戦場に凄絶な爪痕を残すに違いない。
そのような事態を見逃していいのかと問う男を、ルクレツィアは鼻で笑った。
「知らないわよ、そんなの。私はあんたたちのお守りじゃないんだから。
 だからあんたに神具を確認させに行かせたでしょ。それで見つかってる分は私が押さえてあげたじゃない。
 あんたが見逃した分が使われたって、私はそこまでは面倒見ないわよ」
突き放すような言葉は単なる冷淡というよりも、彼女が人ではないことを強く感じさせた。
人に自由を与えその意志を尊重したアイテア神。ルクレツィアの父の姿勢が、今は皮肉な形で表に出てしまっている。
言葉を失ったネイは、コダリスの布陣する先、やがてケレスメンティアが現れるであろう平野部を見やった。
大分離れたそこは、今は乾いた土地が広がっているだけである。
しかしシノンの弓と呼ばれた神具がそうであったように、ダニエ・カーラの持つものが遠距離型の武具であれば、コダリスは現在の位置から近づくことなくケレスメンティアを翻弄することが出来るだろう。
レアリアと今のディアドにそれが何処まで防げるのか、ネイは僅かに蒼ざめた。
ルクレツィアは前を見たまま笑う。
「何慌ててんの? 別にどうなったっていいでしょ? あんたが捨てた国なんだから」
「……神具が戦場で揮われることなどあってはならない」
「ふぅん?」
ようやく男を振り返った少女は、この危急時にあって事態を楽しんでいるようだった。金色の目がくるくると動く。
「なら、あんたが自力で何とかしなさいよ」
「私が? だが私にはもう異能が―― 」
「じゃあ諦めなさいよ」
冷たく言い放つルクレツィアの目は、けれど力を持って輝いていた。
挑戦的な金の眼に浮かぶものは期待だろうか嘲りだろうか。赤い口元が笑みを形作る。
「人間なんて弱くて仕方ないんだから、何もしないで何かが手に入るわけないでしょ?
 犠牲を払いなさいよ。危険を覚悟しなさいよ。それが嫌なら潔く諦めて座ってろっての」
研がれた刃のように鋭く辛辣な言葉。
人ならざる瞳が鮮やかに瞬いた。ネイは思わず息を飲む。

血よりも愛よりも強く繋がれているはずだった絆。
それを断ち切り出て行ったのは彼だ。大人たちの引き摺る妄執と欺瞞に吐き気がした。
そうして国を去った、その決断が間違っていたとは今でも思わない。
―――― ただあの時「彼女」は、泣くわけでも責めるわけでもなく、ただ黙って彼の背を見送った。
ネイは静かに目を閉じる。

「……これっきりだ」
「何か言った?」
「何も」
剣を確認し顔を上げる男を、ルクレツィアはにやにや笑いで見上げた。
ネイは視線を逸らして歩き出そうとする。が、すぐに足を止め少女を振り返った。
「一つだけ頼みがある」
「何? 聞くだけ聞いてやるわよ」
「ここから下ろしてくれ」
転移魔法によってやって来た柱状の高台。そこには下りられるような道はなく、当然ながら飛び降りれば死ぬ高さだ。
ルクレツィアはすっかりそれを忘れていたのか、からからと笑い出した。
「あ、ごめーん。忘れてた」
「…………」
「じゃ、今まで頑張ってくれたご褒美に好きなところへ送ってあげる。
 敵陣の真っ只中でも裏切った国の陣中でも、元の西大陸でも何処でもいいわ。
 よく考えて好きなところを選びなさい。あんたがこの先、くだらない後悔とやらをしないところをね」






旧ログロキア領からコダリスへは東西に伸びる一本の街道が通っている。
空白地帯において今は人の通らぬ道となったそこを抜け、ケレスメンティア軍はコダリス国内へと入っていった。
陣中央部の本営にいる女皇に斥候部隊からの連絡がもたらされる。
「コダリス軍は街道沿いにはいないようです。ただこの先北西方向に広範囲の魔法結界が探知されているとのことで」
「ああ、ワーズの森がある方角ね」
アージェから報告を伝え聞いたレアリアは、変わった地形として知られている土地の名を口にした。
風に乱れる髪を彼女は手で払う。アージェはふわふわと舞うその髪を一つに纏めたくなったが、そのようなことをしている場合ではないだろう。二人は並んで馬を進めながら北西方向を見やる。
「ご存知ですか?」
「ええ。実際に見るのは初めてだけど。魔法力場が狂っていて座標が取りにくいとも聞くわ。
 ただでさえ高低差が激しい土地に木が茂っているらしいし……。
 向こうには土地勘があるのでしょうけど、こちらは踏み込みたくないわね」
「ガイザス将軍にそう伝えますか?」
「彼は分かっているから大丈夫」
全軍の指揮を執る男は、本営よりも前方に位置している。
必要とあれば魔法を使い即座の連絡は取れるが、女皇が彼に向ける信頼は篤いものであるようだった。
アージェは頷きつつ己の胸に手を触れる。
紺の外衣の下は、ミルザに言った通り胴部分だけ細い鎖で編んだ軽鎧を着ているのだが、服と鎧の下には革紐を使って一振りの短剣が隠されていた。
漆黒の刃を持つそれは神具の一種である。
彼はダニエ・カーラと戦闘になる可能性も考えてルクレツィアの短剣を持ってきているのだが、大軍同士がぶつかり合う戦争でそのようなものを使う状況が回ってくるのか、いまいち想像が出来なかった。
まもなくレアリアの元にガイザスから「進軍方向を北西に取る」との連絡が入ってくる。
彼女はそれに了承を出しつつ、「魔法士を前線において結界を張らせるように」と命を付け足した。
アージェは周囲から魔法士が何人か移動していくのを見やる。
「狙撃が来ますか?」
「狙撃というか……ダニエ・カーラが本気になればこちらは近づく前に半壊するわ。
 彼女はその存在自体が神具みたいなものだから」
「……まじで?」
自分の中にいた頃の彼女はやたら煩く迷惑ではあったが、そこまでではなかった。
そう思いながらアージェがつい素で聞き返すと、レアリアは苦笑する。
「本来の彼女はね。神具を与えられる代わりに庭園を見せられたのが彼女だから。
 ね、あなたは『彼女』から魔法士が生まれる仕組みについて聞いた?」
主人の言う『彼女』が、ダニエ・カーラであるのかクレメンシェトラなのか、アージェは一瞬判断に迷った。
楔についてルクレツィアから聞いたことをレアリアには秘しているということもあり、内心ぎょっとする。
しかし何とか表面上は動揺を出さずに彼は答えた。
「いえ、聞いていません」
「そう?」
レアリアは小首を傾げると、一段声を低くした。隣を行くアージェだけに聞こえるよう続ける。
「じゃあ世界が位階構造になっているっていうのは知ってる?」
「魔法士に聞いたことがあります」
「うん。この位階構造において、人間の肉体は人間階を越えて存在し続けることは出来ないの。
 でも魂それ自体は、可能的には全位階に触れられるわけ」
「はい」
「ただ魂っていうものは単なる力の塊だから、自分の意思で別位階に動いたりはしないの。
 普通は成形されてすぐ引き寄せられるようにして肉体に宿る。そして肉体が死ねば霧散するだけ。
 ―――― でもこの大陸では肉体に宿る前の魂が、一定の割合である場に引き寄せられるの」
「ある場、ですか」
アージェの頭の中に、一瞬行ったこともない場所の映像が過ぎる。
霧に侵食されつつある白い罅割れた空間。
あれは一体何処だったのだろう。彼は知らないはずの光景に一瞬そんな疑問を抱いた。
レアリアは前を見たまま目だけで彼に微笑みかける。
「庭園とも楽園とも言われているわ。もっともその存在を知っている者が今では極少数なのだけれど。
 神が複数位階を貫いて楔を打った場所で、そこを訪れた魂は魔力を得ることになる。
 魔法士はこうして生まれるの」
「庭園……ですか」
楔によって生まれる魔法士。
アージェは知っていた話に今聞いたことを加えて頭の中で整理した。コデュとサーラのことを思い出し、聞き返す。
「両親共に強力な魔法士だと、子供も魔法士になると聞きましたが」
「そうね。子供は両親の魂の情報を引き継ぐから。庭園に引き寄せられやすくなるし、親の魔力が上乗せされたりするわ。
 だから大体魔力も遺伝したような状態になるの。よっぽど強い魔法士が親じゃないと、上乗せされる分も少ないけれど」
「なるほど」
以前ルクレツィアに投げかけられた「魔法士はどうやって生まれるのか」という謎。
その答をようやくすっきりとした形で得られて、アージェは何処となく落ち着いた気分になった。
しかしすぐに納得している場合ではないと現状を思い出す。
「だとするとダニエ・カーラは……」
「うん。彼女本人は多分大陸で一番の魔法士だったと思う。
 生まれてからもう一度庭園を訪ねた人間だから、魔力と知識が尋常じゃない。
 でもダニエ・カーラ自身の魂も肉体も既に滅びているわ。今残っているものは、彼女が澱に焼きつかせた残滓だけ。
 それでも普通の魔法士よりはずっとずっと手強いのだけど……それはあなたの方がよく知っているでしょう?」
「はい」
ガージリアの宮廷で合間見えた時のことを思い出し彼が頷くと、女皇はほろ苦い微笑を見せた。
「あとは神具と違って、彼女の力は基本魔法だから魔法で防ぎやすいっていうのはあるわ。
 だからこちらも結界を張って逸らしてやれば、それ程被害は―― 」
レアリアがそう言って軍の先頭に視線を動かした時―――― だがそこには不意に、紅い巨大な閃光が走った。