幸いなるかな 180

戦の混沌。そこで鳴る全ての音は、シャーヒルにとって子守歌にも等しいものだった。
鋼のぶつかりあう音。肉の断ち切られる音。そしてそれらを打ち消す勇猛の雄叫び。絶叫。馬のいななき。
彼は幾度となくその渦中に立ち、そして他を圧してきた。
今も厚刃の大剣を片手に抜いた男は、顔に飛び散った返り血を気にもせず指揮を執っている。
「よし、前線を少しずつ後退させろ。ケレスメンティアを中央に誘い込め」
下がりながらそう傍の魔法士に伝令を命じた王は、しかし半分は狂騒に陥ってしまっている戦場を見て苦笑いをした。
神具を配した左翼と彼がいましがた先陣に立っていた右翼。その差は上空から見れば歴然であろう。
有能な指揮官同士による衝突が起きている右翼に対し、左翼は既に陣の形状を留めてはいない。
それは食らいついているケレスメンティア側も同じで、そこではまともな指揮官なら眉をひそめてしまうような消耗戦が繰り広げられていた。
混乱の原因となっている神具と娘を、シャーヒルは溜息混じりに思い起こす。
「イリデアめ。ダニエ・カーラに引きずられたか?」
ケレスメンティアを打ち崩すため、本人の強い希望もあって陣の中に組み込んだ王女だが、先程は両軍の衝突地点で神具を使うなどしており、まともに考えて動いているとは思えない。そこから生じた混乱が拡大する一方と見て取ったシャーヒルは、二度同じことをさせぬ為に臣下に右翼前線の指揮を任せて中央へと下がってきていた。彼はぴったりと付き従ってくる魔法士を振り返る。
「イリデアを動かす準備は出来ているな?」
「はい」
神具の力は惜しいが、御せない兵器はそれ相応の使い方をするしかない。
シャーヒルは頷いてまた戦場を見回すと、少しずつ動いていく前線に不敵な笑みを浮かべた。



こめかみを刺す針に似た気配。
細く研がれていながらあまりにも忌まわしいそれは、戦場の喧噪の中を縫って彼の元へと届いた。
アージェは何処か懐かしさを感じさせる気配に、遅れて視線を巡らす。―――― そして彼女に気づいた。
武器を振るう兵士たちの中で、ただ一人鎧もつけずに馬上にいる女。
黒に近い赤の魔法着に身を包んだ彼女は、黒いヴェールの下、静かに燃える炎の目で彼を見ていた。
美しく孤独なその姿に、アージェは再度女の名を呼ぶ。
「ダニエ・カーラ!」
女はそれには返事をしない。ただ真っ直ぐに右腕を上げ、軽く握った拳を彼に向けていた。
そこに見える銀の装飾には赤い光が灯っている。
「……っ!」
―――― この距離で撃たれては、今度こそ戦場が崩壊する。
アージェは手綱を引き、強引にダニエ・カーラに向かって混沌の中を突破しようとした。行く手を遮ろうとしたコダリス兵を一閃で馬上から斬り捨てる。
しかし両軍が入り乱れてぶつかり合う前線は、思い通りに動くことなどままならない。
アージェは周囲に押し流されてしまわぬよう手綱を操りながら、次々向かって来る敵兵を捌いた。そうして再び女に視線を戻した時、赤い光が先程よりずっとその輝きを増していることに気付く。
もう猶予はない。いつ撃たれてもおかしくない。その直感が戦慄となって彼の背を走った。
「くそ!」
アージェは咄嗟に黒い短剣を投擲しようと、左手で細い柄を握る。
しかし彼が短剣を抜き去ろうとしたその時、女の表情は苦しげに歪んだ。彼に向けられていた右手がヴェールの上からきつく頭を押さえる。
まるで急な頭痛にでも耐えているような姿。
それに似た様をアージェは見たことがあった。レアリアがクレメンシェトラを押しのけようとする時に現れた徴候。
青年は思わぬ好機に息を飲む。
「イリデアか!」
おそらく肉体の本来の持ち主である女が、ダニエ・カーラに反発しているのだ。
アージェはこの隙を逃がすまいと更に前進した。一方彼女の方にも、今までその異様な威に押されていたらしい護衛たちが制止をしようと集まる。たちまち人馬の波に埋もれて見えなくなる女を、青年は逃がすまいと目で追った。背後から誰かの声が飛ぶ。
「戻れ! 追い過ぎるな!」
いくら前線が入り乱れているとは言え、敵陣の中に踏み込み過ぎれば死は免れない。
しかしアージェはそれを承知した上で、なおも馬を前へ進めた。右脇から振り下ろされる剣を己の長剣で受ける。
「どけ! 死にたいのか!」
ここで神具を使われれば、他の人間もただでは済まない。
だが背後にいるイリデアを見ていない兵士たちは、そのようなことなど分からぬのだろう。むしろその恐怖に追い立てられるようにして武器を振るい血の臭いを濃くしていく。
アージェは剣を薙いで敵兵を振り落とすと、ただイリデアを探して前に出た。
そうして進路を遮る騎兵に向かおうとした時、だが相手の肩越しに赤い光が見える。
眩い紅。
人に死を意識させる光。
それはすぐに巨大なものとして膨れ上がった。声にならぬ悲鳴があちこちで上がる。
血よりも鮮やかな色。
その輝きにアージェが連想したものはけれど、ダニエ・カーラの悲しそうな目だ。
青年は竦むことなく短剣を抜く。
「やめろ! 撃つな!」
放たれる閃光。それは彼の視界をあっという間に埋め尽くした。
目の前にいた敵兵が紙細工のように蒸発する。






「始まったようです」
側近からの連絡に、ケラン国王マティウスは頷いた。
かつて戦場にあって勇者とも言われた彼は馬上に青い鎧姿を佇ませており、その静かな気迫は周囲の空気を完全に律している。
飾り気のない鞍と鞘。腰に佩かれた長剣は使い込まれたもので、彼が生まれながらの王ではなく、その剣を以って国一つ興したことを、見る者に確かな実感として思い起こさせた。
王は考え込むような視線を足下に注ぐ。彼が馬を立てている場所はケラン国内の東部国境であり、固い大地には地を這う蔓草がまばらに生えていた。土を割って根を伸ばす草は、馬蹄や兵たちの軍靴に踏み躙られても堪えることなく、現実をあるがままに受け止めているように見える。
マティウスは砂にまみれる蔓から視線を上げると、布陣する自国軍とその先の川を視界に入れた。
国境を南北に流れる川。浅く幅のある流れの向こうには、今はコダリス側についた隣国エフェミが広がっている。
そしてエフェミもまた、いつケランが攻め込んできてもいいように布陣を引いているのだろう。他にも複数の情報が斥候や他の同盟国によりマティウスのもとにもたらされていた。
それら情報のうちの一つ「コダリスとケレスメンティアが衝突した」との知らせに、彼はしばし考え込む。
コダリスを攻め落とすならば今が好機に他ならない。
おそらくそれは、敵味方問わず同じ情報を持っている者たちが抱く共通認識だろう。
だからこそエフェミを始めとするコダリス側の国々もまた、それをさせまいと同盟諸国を牽制しているのだが、マティウスはこのまま東に進軍してエフェミと交戦する他に一つの構想を持っていた。
それは、「現在戦場となっているコダリス東部に、ケレスメンティアの力を借りて直接転移する」というものである。

転移魔法において、転移先を指定する際に必須となる転移座標は、数字などではなく複数の魔法文字によって表される。
十文字から三十文字の組み合わせで一点を示す座標には規則性はなく、一歩動けば全ての文字が入れ替わる程だ。
その為、座標を知るには実際にその場所へ転移魔法の使える魔法士が行って取得をせねばならず、他には偽の情報である可能性も弁えた上で人から座標を聞くしかない。
結果として転移魔法を使える魔法士の割合が極僅かということもあり、転移座標とは一般に知られていない情報となっていた。勿論他国の転移座標など、把握していることの方が稀である。
しかしそれでも転移魔法について詳しくない者の中には、「誰か魔法士を敵国に潜入させ座標を取ってくれば、容易く軍隊を侵攻させられる」と考える者が少なくないのだが、その策は大きく二つの理由により実行が困難である。
一つには行軍用の規模の大きい転移門になると、その外周となる部分の正確な座標が複数必要とされる為、敵に見つからないよう取得することが単純に難しいということ。
もう一つは遠距離大規模の転移門は、宮廷魔法士を最低でも十人は必要とし、また充分な人数を投入してなお五分を越える維持が難しいということである。
特に後者の理由から、大人数を直接敵地に送り込むには時間がかかり、完了するまでには敵側の魔法探知に引っかかってしまう可能性が高い。その為、転移門での行軍は敵の探知が届かぬ安全な場所までで、そこからは通常行軍で敵地に入るということが侵攻側の常道となっていた。
現にケレスメンティアも、今回旧ログロキアに転移した後に通常行軍でコダリスに攻め入っている。
だがマティウスはケレスメンティアとの事前のやり取りにおいて、今自分たちが布陣している場所の座標をあらかじめレアリアに伝えてあった。
常道破りとも言える戦場への直接転移。他の国であれば戦闘中にそのような余裕などないと一顧だにしなかっただろう。
まるまる二国を飛び越える程の長距離転移など、それだけでかなりの負担だ。戦闘中にそのようなことをするくらいなら、事前に援軍を呼ぶ方が遥かに理に適っている。
しかし今回それをしては、睨みあっている同盟国側とコダリス側の均衡が崩れ、またたく間に大戦規模の戦闘が始まってしまうことは明らかだ。
レアリアがそのような事態を避ける為、わざわざ東側からコダリスを攻めたということもあり、マティウスは事前の合流については早い段階で諦めていた。代わりに伝えた座標をケレスメンティアが使うのかどうか、彼はそこに僅かながら期待を持つ。
「これが復讐の為だと言ったら、お前は怒るか?」
誰の耳にも届かぬ述懐は、今は亡き友人に向けたものだ。
共にどん底から這い上がり、ようやく国を作れたこれからという時に死んだ友。
友人の罪をマティウスはある青年から聞いたが、まるで現実味のないそれは知に優れていた友の印象と結びつかぬまま、ひっそり彼の心の内に仕舞われている。
むしろコダリスが謀略によってケランを絡め取ろうとしなければ、友人もあのようなことにならなかったのかもしれない。―――― そのような疑念をマティウスは八つ当たりと感じてはいたが、シャーヒルへの不信と敵意は一度芽生えてしまえば大きくなる一方だった。かつては十数人いた仲間や友人全てを喪った男は、自嘲気味に己が手を見下ろす。
「……結局俺は、王の器ではないのだ。自分のこの手でシャーヒルを殺したいと思っているのだからな」
女皇はそのような彼の心を見抜いているのかもしれない。送った座標に対し、彼女からは何の返答も得られなかった。
期待するな、と暗黙に言われているような状況。だがマティウスは諦めきれずに背後の何もない空間を見やる。
「軍全部などとは言わない。一部隊でいいのだ。いや、俺さえそこに行けたなら……」
度し難い未練に溢れた呟き。マティウスは己を苦々しく笑うと、乾いて濁りそうになる目を閉ざした。