幸いなるかな 181

頭の奥が焼けるように熱い。
それは自身の内に違う女が宿されてから度々イリデアが味わっている痛みで、まるで理由を失った激情そのものだった。
彼女自身が表にいる時でも遠慮なく現れる精神の火。
全てを焼き尽くそうとする炎は、イリデアの感情をもまた飲み込んで暴れ狂おうとする。
自分の感情が己のものではない激情に巻き込まれて動いてしまうということは、イリデアにとって或る意味肉体を乗っ取られるよりも恐ろしく思えた。自分がいつか精神まで自分ではなくなってしまうのではないかと不安を覚える。
だがそれでも、ダニエ・カーラの力は絶大だ。
使い様によっては一人で戦況を変えることが出来る程の力。
イリデアは、その力には充分満足していた。これさえあれば、気に入らないものも自在に捻じ伏せることが出来るだろう。
だからケレスメンティアが攻め込んでくるつもりだとの情報を得た時、イリデアは父に陣に入れて欲しいと頼んだのだ。
一人だけ高いところにでも立っているような女皇の治める国。その軍隊を自らの手で薙ぎ払ったのなら、さぞやよい気分を味わえるに違いない。そうして自らの力を示し恍惚を味わえば、その時は不安を覚えなくとも済む。自分がこの先どうなってしまうのかなどと考えなくて済むのだ。

発掘した神具を手にイリデアは戦場に立つ。
頭の奥を焼く激情は、これから剣を交える敵国の二人に向けられていた。女皇と、その騎士への強い妄執。
気が狂いそうだ。憎いという感情には収まらない。
それは彼女の誘いを拒絶した青年に向けられる度、一層強い波となってイリデアを襲った。
ダニエ・カーラの言う「カルド」は、「彼」とは別人である。
そうとは分かっているが、神代を知らないイリデアにとって男はあの青年でしかなかった。どうして自分よりも女皇を選ぶのかと、強い憤りが胸を焼く。
―――― 違う。引き摺られている。
二度会っただけの相手にそこまでの執着を抱くはずがない。何処までが自分の感情か分からない。
狂いそうだ。
大きくなる変質を恐れて抗えば、きっと自分は押しつぶされてしまう。
だから肯定するしかない。その満足感が後づけのものだったとしても。

そう思って彼女に自身の体を預けていたイリデアは、けれど自軍の兵士が神具に焼かれるのを見て、背に冷水を浴びせられたかのように我に返った。



「っああああああああ!」
女の絶叫と共に打ち出された閃光。
アージェはそれに対し左手に抜いた短剣を振るった。漆黒の刃を斜めに斬り上げる。
眼前に迫る赤光。何も考えずにしたその行動はしかし、結果彼の命を救うこととなった。
広がりかけた閃光は短剣の一閃によって二つに割られる。そのまま赤光はアージェの両脇を通り過ぎ、左右後方に着弾した。
石礫を含んだ爆風が青年の背に叩きつけられる。
遅れて押し寄せる白煙。その意味するところに思わず言葉を失ったアージェは、背後を確認しようとして、だが自分に向けられる強い視線に気付いた。
彼の前方には神具の光によって誰もいない空間が生まれている。その向こうには愕然と固まるコダリス兵たちと、一人の女がいた。
魔法着に身を包んだ女。神具を携えた彼女は、美しい顔を苦しげに歪ませて彼を見つめている。震える左手が腕甲の上から右手を押さえていた。
「お前……何故まだ生きているの?」
「イリデアか?」
神具を使ったことからしてダニエ・カーラが表に出ているのだとばかり思っていたが、彼女を押さえてイリデアが戻ってきたのかもしれない。アージェはそう判断すると、短剣の先で銀の腕甲を指した。
「それを捨てろ! ダニエ・カーラは敵味方を選ばない!」
イリデアはきっと自軍の兵を巻き込みたくはないのだ。だから一度は神具の発動が止まった。
それ以上をさせまいとするアージェに、イリデアは口元を引き攣らせる。
「何故生きているの……」
「早くしろ、イリデア!」
「お前さえいなくなれば、私は」
怨嗟の呟きは、ダニエ・カーラのものではなかった。
再び上げられる右手。女の黒い瞳が一瞬何も映さぬ虚ろとなる。
そしてゆっくりと睫毛を上下させ、「彼女」は艶やかに笑った。
「さようなら、カルド」

神具に灯る光。
アージェはそれを見て覚悟を決めた。
先に短剣で斬った時のことを思えば、もう一度同じことは出来ない。
あれをしては彼だけが助かり、背後のケレスメンティア軍はやはり深刻な打撃を受けてしまう。
ならば光が発動する前に今度こそ神具を壊すしかない。
それが単身敵の中に飛び込む自殺行為であっても、やらないわけにはいかなかった。
彼は手綱を取り直す。
「待て!」
背後からの声。覚えのあるそれは、近づいてくる馬蹄と共に聞こえた。
刹那虚を突かれたアージェに男の声は続ける。
「面を作れ! 糸ではなく布を! 『あれ』は全てを飲み込める!」
―――― 何のことを言っているのか。
アージェはすぐに理解した。同時に男が誰であるのか思い出す。
青年は前を見たまま素早く長剣を鞘に戻した。短剣を右手に持ち替える。
地にかざす左手。頭の中で、今はもういない母の声が響いた。
(糸を紡ぐのよ、さあ、それを織って)
縒って、織る。
そこまでを連続して意識する。
広がる澱の海全てを一枚の布として捉え、隅々まで己の支配下に置く。
研ぎ澄まし、広げた意識。現れる黒い波に馬が慄いて足を上げた。アージェは揺れる馬上で視線を上げ、女を見る。
彼女はただ笑っていた。
「ダニエ・カーラ!」
叫ぶ声と、放たれた閃光がすれ違う。
アージェは幕を引くように左手を払った。黒い波が一枚の布となって舞い上がる。
神が残した呪い。世界の淀みを操る異能。
紗幕のように宙に広がるそれは、突き刺さる赤光をまるで抱き取るかのように包み込んだ。
レアリアが光に対した時とは異なる一瞬の出来事。閃光は布の中から別の場所へ転移してしまったかのようにふっと消え失せる。
役目を果たした幕もまた、空気中に薄らいで消えた。
あまりの光景に戦場から時が失われる刹那。だがアージェは間をおかず左手を振る。
その動きに応えてダニエ・カーラの眼前、焼け焦げて黒い地面から円錐が突き上がった。
布を巻いて縒ったかのような円錐。歪な先端は、女の右掌を下から貫く。
銀細工の割れる小さな澄んだ音が、けれど確かに青年の耳に届いた。



遥か遠くに見えた赤光。
すぐに消えたそれに、馬上のガイザスは顔を顰めた。
コダリスの左翼と衝突している部隊がどのような苦境に置かれているのか、ケレスメンティアが受けた初撃を思い出す。
―――― 向こうにダニエ・カーラがついているとは聞いていた。
だがその力がここまでのものとは、彼は考えていなかったのだ。所詮過去の残滓、ただの魔法士の影と怯まなかった自分に、今は舌打ちをしたい程である。
たった一人の女のせいで奇怪な様相を見せている戦場。此度の一戦は、ケレスメンティア史にかつてない苦戦として刻まれるのかもしれない。
けれどそれでも、神の国に敗北はないのだ。
大陸の平定を使命とするケレスメンティアに敗北はない。それは人の力の為だけではなく、神の意志によってもそうなっている。
でなければ何故今まで乱世の中、この国だけが無事でいられたのか。とても説明がつかないだろう。
神を信ずる彼らに出来ることはただ、その加護にふさわしい行動をすることだけだ。
ガイザスはコダリスの動きに注意しながら、それにあわせて柔軟に前線を動かしていく。
数多の戦場において相対する敵を屠ってきたというコダリス軍は、しかし今は老獪な動きで巧みにケレスメンティアの攻勢を受け流し、押し引きを繰り返していた。
閃光を乱発している左翼とは違い、積極的な攻撃を仕掛けてこない右翼。
ガイザスは敵軍の背後に、策略家でもあるコダリス王の影を見る。
シャーヒルは「野獣」と称される猛々しい印象とは反対に、冷静な計算も多くする男だ。
もしかして彼は最初からケレスメンティア軍の半数を押さえて時間稼ぎをし、その間にダニエ・カーラを使ってもう半分を屠るつもりではなかったのか。
ガイザスは別隊の状況を知りたいと思ったが、二度の閃光で魔法士が死んでしまったのか一向に情報は入ってこない。
彼は焦りそうになる気持ちを落ち着かせながら、少しずつ前線を押し上げていった。後退していく敵の歩兵を追う。
しかしすぐに、男は違和感に気付いた。
「これは……誘い込まれているのか?」
最初の時コダリスは確か両翼を前に出し、すり鉢型の陣形を取っていたようだった。
まともな開戦においてガイザスがそれを確認していたなら、彼は中央のすり鉢部分に誘い込もうとするコダリスの動きを警戒しただろう。
しかし衝突は強烈な魔法の遠距離攻撃という形で幕を開けた。
その後も両軍を巻き込んで炸裂する赤い閃光に、ガイザスは最初の陣形を「全軍を消耗戦に巻き込まない為の戦場の二分化」ではないかと疑い始めていたのだ。
けれど今コダリス軍は、左翼の混乱など気にもしていないかのように、中央部分に向かって後退を繰り返している。
シャーヒルは一体何を狙っているのか。ガイザスはとにかくも一旦前進を留めようと伝令を飛ばした。同時に彼らの後方に移動してきている本営にも連絡を入れる。
直後、女皇から返ってきた命令は「神具は壊れた。好きに動きなさい」というものだった。
ガイザスは赤い閃光の正体を知って驚愕すると共に、増えた選択肢に思考を巡らす。
―――― 中央方向へ前進しては、敵の思惑に乗るだけだろうか。
だがこのまま神具の余波に半壊している自軍を放置は出来ない。
指揮系統が混乱しているのか、神具に向かい合っていたケレスメンティア軍が動いたという連絡は入ってきていなかった。
ガイザスは遠く人馬の向こうで、まだ衝突を続けている両軍を確認する。
決断は一瞬。彼は叫んだ。
「右前方、北東方向へ進め! あちらと合流して立て直す!」
向こうの部隊と連絡が取れない以上、退いて合流は出来ない。それをしてあちらが取り残されてはコダリスのいい的になってしまう。
ガイザスは側面を突かれぬよう、敵軍を牽制しながら斜めに前進を開始した。
コダリスはそれに乗じることもなく、ただケレスメンティアから僅かに距離を取る。
そうして二手に分かれたケレスメンティア軍がようやく合流しかけた時、けれどコダリス軍は突然に動いた。騎馬兵を中心として戦場の外周を移動し始める。高い機動力でたちまちに陣形を変えたコダリスは、中央にいるケレスメンティアを挟み込むように外側に布陣しなおした。
「将軍! 左右に敵が!」
「分かっている!」
ガイザスは半ば予期していた挟撃に眉を上げつつ、だが自軍の立て直しを優先しようとした。その上で左右どちらかの突破を図ろうと考える。
しかしそうして合流を試みるケレスメンティア軍の後方、本営真裏にはその時、昏い目をした女が一人転移によって現れていた。