幸いなるかな 182

戦場において両軍が大きく動き出すより以前、アージェは乾いた空間を前に一人の女と対峙していた。
黒い円錐によって掌ごと神具を貫かれたダニエ・カーラは、血の流れる右手を押さえて苦痛の声を上げる。
「カルド……いつもそう。あなたはそうやって」
「最後になるかもしれないから言っとく、ダニエ・カーラ。
 俺はカルディアスじゃない。お前が知ってる時代はもう二千年近く昔のことだ」
「……私を殺すのはあなたよ」
「そうだな」
それには確かに変わりない。
アージェは短剣を鞘に戻すと、左手に黒い長剣を生み出した。久しぶりに手にする剣を女に向かって構える。
喧騒の中の静寂。先程から彼らの周囲では戦闘がやんでいた。
神具の発動とそれを破壊した澱の異様さに、兵たちは両軍とも固唾を飲んで成り行きを見守っている。
それは束の間の空隙なのだろうが、アージェはこの隙にダニエ・カーラとの決着をつけてしまうつもりだった。
彼は前を見たまま後ろにいる男に言う。
「さっきは助かった。ありがとう。あとそこにいると巻き込むかも」
「今更何処にも行けない」
長剣を手にしたネイは苦々しくもそう返した。
男の、鎧もつけていない単なる旅装束はどちらの軍でもないことが一目で分かる。
ただ彼の乗る馬にはコダリス軍の鎧が装備されているところを見ると、適当に奪ってきたのかもしれない。
アージェは前方のダニエ・カーラに注意を払ったまま、ようやくここで背後を確認した。
すぐ後ろにはネイがいる。更に後方には先程の神具による死体が多く転がっていたが、神兵たちはその隙間を前進して埋めつつあった。訓練場ですれ違ったこともある騎士が、彼らを鼓舞して指揮を執っている。
「進め! 敵の兵器は壊れた! 今が好機だ!」
その声はコダリス兵たちにも届いたのか、空白に立ち会った両軍は再び動き出す。
今も戦いを続けている他の場所と同様、泥濘のような戦闘がまたもやアージェの左右で始まりかけた。
しかし直後、場を凍らせる女の哄笑が響く。
「神具が壊れたから何? 私は何処にだって行ける。誰を殺すことだって自由なのよ」
血の流れる右手をダニエ・カーラは上げた。そこから神具の残骸が砕けて地に落ちる。
しかし彼女は銀の破片に目もくれなかった。右手の先に赤黒い靄が生まれる。
アージェはそれを見ながら背後のネイに問うた。
「ああいうのも吸い込めるのか?」
「澱を通じて負の海に放り出してるんだ。何だっていける。お前が制御を狂わせなければな」
「それはぞっとしない話だな」
人の身に過ぎた力。アージェは己の異能についてそう直感したが、選出者の残滓と相対するには必要なものである。
青年は眼前の空白に他の兵たちが入ってくる前にと、剣を持ったままの左手を地にかざした。
傷を塞いでいない女の手から紅い雫が球となって滴る。ダニエ・カーラは詠唱なしに右手を大きく振るった。
途端、赤黒い靄の中から無数の礫が打ち出される。
「……っ!」
アージェは左手を上げた。薄い防壁を作り、それで全ての礫を受け止めようとする。
しかし彼がそのように防御することなどお見通しだったのだろう。
散開したもののうち防壁の外側へと抜けた礫は、くっと反転して青年の背へと向かった。アージェはそれを見て咄嗟に馬の腹を蹴る。
薄い防壁は、まるで垂れ下がる幕のように何もない宙に漂っている。
それを彼は左手でかき分け、ダニエ・カーラのいる向こうへと抜けた。揺らめいて戻る薄幕が追ってきた礫を飲み込む。
アージェはけれど背後を確認しない。真っ直ぐにダニエ・カーラへと向かう。
剣を構え空白を詰めようとする青年。その前進を留める者はいなかった。むしろ彼が動いたことを切っ掛けに両軍の兵は互いに向け突撃を始める。
女は彼を見てうっすらと微笑んだ。その場から動こうとしない彼女は、病んだ仕草で右掌の傷口を舐める。
赤く染まる唇。艶かしい口元が何かを呟いた。
それに気付いたアージェは本能的な警戒心に手綱を引く。辺りの地面から赤い光が上がった。
下を覗き込むとそこには赤く光る線が何か巨大な魔法陣を描き出している。
それはダニエ・カーラを中心として、かなりの空間を範囲に入れているようだった。
女の甘い声が囁く。
「ほら、死んで」
夕陽よりも昏い朱。
急激に強さを増していく光に、あちこちから慄きの声が上がる。
神具よりも広くを飲み込もうとする攻撃に、アージェは左手の剣を上げた。二人の視線が空中でぶつかり合う。
「もうやめろ!」
「いやよ。だいきらい!」
不吉に輝く光。いななく馬が前足を上げる。
アージェは焦る内心を抱え地面を睨むと、澱を操り赤光を抑えようとした。だが範囲が広すぎて止めることが出来そうにない。
このまま何が起こるのか。恐慌が場を支配しかけたその時、だが新たな男の声が彼の耳に届く。
「そこまでだ」
重々しい力に満ちた声。
広がっていた光が、不意に辺りから消える。
驚いたアージェが顔を上げると、前方にダニエ・カーラの姿はなく―――― 代わりにそこには堂々たる戦場の王者が馬を立て、彼を見据えていたのだった。



馬上にある男は、偉丈夫という言葉に相応しい体格に黒い鎧を纏っていた。
自然な威風を感じさせる風貌。そろそろ五十近いはずの肉体には、しかし少しも衰えは見られない。
厚刃の大剣を片手で苦もなく携えている男は、反対側の手で自身の顎鬚を探った。太い眉の下で力ある両眼が細められる。
「ほう? お前が女皇の騎士か?」
「シャーヒルか?」
アージェは半ば勘でそう問うたのだが、青年の物怖じしない態度に男は笑っただけだった。
そしてそれは肯定を意味するのだろう。
青年は眉を寄せシャーヒルの周囲を見回す。しかしダニエ・カーラの姿は何処にも見えなかった。
先程までの出来事がまるで幻ででもあったかのように、女も地に広がっていた魔法陣も消えている。
不審に思う彼に、背後からネイが補足した。
「転移門だ。あの男と一緒に現れた魔法士がダニエ・カーラを何処かに飛ばした」
「転移?」
「イリデアが迷惑をかけたな。―――― ああ、お前たちにとってはダニエ・カーラか。まったく性の悪い女だ」
シャーヒルは言いながら困った様子もなく笑う。
忌まわしさのない、ただ状況全てを飲み干して愉しむが如き態度。それは戦場において兵士たちに安心感を与えるのだろう。コダリス軍には先程までは見られなかった余裕のようなものが漂い始めていた。
アージェは周囲の状況がどうなっているのか気にしつつもシャーヒルに対峙する。
「イリデアを何処にやったんだ?」
「それはすぐに分かるだろう。だがお前たちは先のことよりもまず今を心配した方がよいのではないか?」
そう言って男が上げて見せた大剣は既に血濡れていた。アージェは背後の神兵たちが緊張をよぎらせたのを肌に感じる。
強い信仰を持つ者でも、覇者たる実物を目の前にすれば感じるものはあるのだろう。
だがかつてダルトンの傍にいた青年は、男の持つ力を感じてもそれに怯みはしなかった。黒い長剣を消すと慣れた仕草で元の剣を抜く。彼はネイに小声で頼んだ。
「悪い。後ろの方に陛下がいるからそっち行って守って」
「は? お前、私がこの国でどう思われていると……」
「俺はここから動けなさそうだ。頼む」
敵の王から半ば名指しされているディアドがここで退けば周囲の士気に関わる。
そうでなくとも相手が彼の反転を見逃すかと言ったら、それはないだろう。
ダニエ・カーラが何処に飛ばされたのか分からない以上、レアリアの身が心配であることは確かだ。ネイは青年の背を忌々しげに睨んでいたが、舌打ちと共に馬首を返す。
アージェはその気配を感じ取りながら、長剣をシャーヒルに向けて構えた。
「さて、陛下からお前だけは殺せと仰せつかっている」
「神の婢が。随分と生意気な口をきくものだ」
「黙れ野獣」
王の登場によって再び停滞しかけた戦場。しかしそれは嵐の前の静寂だとその場にいた誰もが分かっている。
シャーヒルはそれ以上間を持たすことなく、剣の切っ先をアージェへと向けた。笑いながら兵たちに命じる。
「行け」
王命に応える雄叫び。次々上がるそれはたちまちうねる波となってケレスメンティア軍に襲い掛かった。
神兵たちもまた女皇への侮蔑の言葉に憤り、猛然と敵兵を迎え撃つ。
二つの軍勢のぶつかる線。そのまさに真上にいるアージェは、振りかかってきた強烈な一撃を自身の剣で受けた。
大剣を軽々と扱うシャーヒルは、不敵な笑みを浮かべ若き騎士を見やる。
「女皇の騎士は血筋だけが条件と聞いたが、剣も扱えるのか?」
「自分で確かめろよ」
巨石が圧し掛かっているかのように重い力がかけられている剣を、アージェは吐きだす息と共に払った。
鈍い鋼の音。シャーヒルは風を唸らせ大剣を振るう。二合目を青年は刃を滑らせて受け流した。それでも逸らしきれぬ力が腕に伝わってくる。
稀に見る豪剣は、まともに受け続けていればいつかのように得物を壊してしまうだろう。
アージェは、分厚い刃を受けつつ苦心してその力を逃がしていった。剣同士のぶつかりあう音。シャーヒルの目に小さな快哉が浮かぶ。
「守るだけか、小僧」
「無駄は好きじゃない」
「ならさっさと投降したらどうだ?」
大剣が、青年の頭上目掛けて振り下ろされる。
五十近い人間とは思えぬ程の力と速度。それらが剣自体の重さと合わさり、明快な死となってアージェに降りかかった。
今まででもっとも強烈な一撃を、受け流せないと見て取った彼は両手で剣を握る。
次の瞬間戦場に、鋼のせめぎあう固い衝撃音が響いた。
そのまま押し込もうと剣を圧してくる力を、だがアージェは強く弾き返す。接触した鍔が耳障りな音を立てた。すかさず追撃で薙いだ剣を、シャーヒルは軽々と受ける。青年は生まれかけた隙を塞ぐよう剣を引いた。手綱を取りぶつかりかけた馬を下げる。

周囲では両軍が再びぶつかりあっている。突き出される長槍。馬の断末魔が薄い空に消えた。
血臭は既に嗅覚を麻痺させ何も訴えてはこない。乾いた大地に死骸を積み重ねていくだけの営みが、そこでは続いていた。
アージェは焦燥に襲われそうな意識を閉じる。
―――― 勝ちたいのなら、今はシャーヒルのことだけを考えた方がいい。
余所に気を取られては遅れる。一閃を研ぎ、それを振るうしかない。
彼は、本能や記憶に宿る警戒を束の間意識から遠ざけた。固い柄を握りなおし敵王を注視する。
シャーヒルは、青年の雰囲気が変わったことに気付いたのか顎鬚を揺らして笑った。
「自棄になったか」
「いや」
詰まるところ全ては殺す為の動きだ。
最小限に最速で、刃を相手に届かせる為の洗練。
だからこそ余計なものは捨てる。糸を縒るように専心する。
そうしてシャーヒルを見た彼は無言のまま前へ出た。
肩口へと振り下ろされる大剣。先程より遅れて見えるそれを僅かな動きで外に流す。
まったく抵抗を感じず逸らされた攻撃に、シャーヒルは軽く目を瞠った。
けれどアージェはその間も止まらない。
最短の道筋で突き出された剣が、黒い胸甲の継ぎ目に入り込む。
力を込め深々と刺した刃。青年の握る剣身に赤い血が溢れ出した。
アージェはそれを一息で抜き去る。続けざまに血塗れた剣を男の首に向けて薙いだ。
シャーヒルの顔に苦々しい笑みが浮かぶ。