幸いなるかな 183

国内南部に築かれたその砦は、過去幾度となく戦いの舞台となった歴史あるものである。
時には虐げられた部族の叛乱の為、時には外敵からの防衛の為、攻防の要所となってきた城砦は、何度も修繕と改築を繰り返され、巨大かつ堂々とした姿を国境間近の平原に佇ませていた。
遠く三叉路になっている街道からは、高い防壁だけが窺える砦。
二重になっているその防壁の内側では今、出陣を待つ兵士たちが愛馬に跨り整然と居並んでいる。
全てが騎馬兵で構成された軍は、数こそそう多くはなかったが、機動力と練度においては大陸屈指と言って過言はないだろう。
約四千の騎馬兵を今回指揮する男は自らの馬の上で、よく言えば泰然とその時を待っていた。
隣の馬に控える女が声を潜めて問う。
「本当によろしいのですか、殿下」
「大丈夫だ。忘れ物はない」
「いえ、そうではなく……」
本当にこの出撃を進めていいのかと彼女は問いたかったのだが、相手の男には上手く伝わらなかったらしい。
緑の魔法着に身を包んだ女は更に声を潜めた。
「私たちがていよく囮にされるということはありませんか? どうにも信用が出来ないのですが」
「伏兵はいないと偵察から報告がきている。確かにあの男は信用ならんが、この件はフィレウスの指示でもある。問題ないだろう」
今この場にはいない人間の名を出され、女は押し黙った。納得したわけではないが、主人の言葉をそれ以上否定する程の材料もなかったのだ。
女は黙礼をすると男の後ろへ下がる。整列する騎馬兵の向こう、転移用にあけられた空間を見やった。
準備が終わったのか発動を始めるそこに、騎馬たちは整然と移動していく。
大陸を燃やす火。大戦の始まりとはいつもこのように呆気ないものなのだろうか。
女は茫洋とした不安に目を伏せると、自らも戦場に出る為、手綱を握りなおしたのだった。






シャーヒルの首を斬り払おうと振るった剣。それはしかし、男の首にかかる直前で不可視の力に弾かれた。
アージェは驚きつつもすぐに魔法結界が張られたことを看破する。普通の人間を相手にするのだからとわざわざ鋼の剣を抜き直したのが災いした。
眉を上げる青年に、王は牽制で反撃を行う。先程までとはうってかわって威力のない剣を、アージェは軽く弾いた。
左手で腹の傷を押さえるシャーヒルは、それでも笑みを崩していない。
その豪胆さに感心しつつ剣を左手に持ち換えたアージェは、王を庇って割り込んできたコダリスの騎士に剣を構え直した。
「陛下! 今のうちに!」
「逃げるのか? 尊大なのは口だけか」
アージェはあえて皮肉るようにシャーヒルを挑発したが、手負いの王はそれには乗ってこなかった。
応急処置を施そうとする魔法士を従わせて青年から距離を取りつつ、シャーヒルは苦い声で笑う。
「このようなところで年を実感したくはないものだな。女皇の騎士よ、なかなかいい腕を持っている」
「お前に誉められても嬉しくない」
そっけなく返したアージェは、打ち込まれる剣を左手の剣で弾いた。相手の態勢が戻る前にその喉を切り裂く。
声も上げず絶命した騎士が落馬するのを待たず、彼はシャーヒルを追って前進しようとした。しかし後方の自軍から指揮官らしき男の声が飛ぶ。
「深追いするな! ガイザス将軍が来られる! 合流して陣形を立て直すぞ!」
その指示は戦場自体に大きな転換が訪れることを意味している。
神具が壊れた今、無理にシャーヒルを追うこともないだろう。アージェは短い時間でそう判断すると前線から下がった。
同時にコダリス軍も、敵を牽制する様子を見せつつ少しずつ後退していく。青年はこの隙に主人のもとへと戻ろうと辺りを見回した。
死臭立ち込める戦場。死を背にして騒然とした空間は、生きている人間にまだ安息を与えはしない。
広いその場所において全体の戦況がどうなっているのか、アージェにはよく分からなかった。以前傭兵として参加した戦場でも、組み込まれた部隊ごと動き、ただ目前の敵を殺すことだけを意識していたと思い出す。
彼は後退していったコダリス軍が、戦場の外周、右手側に移動していくのを視認した。
既にシャーヒルは何処にいるのか分からない。アージェは馬首を返す。
しかしその時、ケレスメンティアの陣中に後方から動揺の波が走った。
人から人へと囁かれる内容。自らもそれを耳に挟んだアージェは、だがあまりに突拍子もない内容に眉を顰める。視線の通らない遥か後方を注視した。
「流言か?」
戦場において、敵の足並みを乱す為の情報撹乱はしばしば取られる手段だ。だからこれもその類のものなのかもしれない。
どのみち真偽は本営に戻れば分かるのだ。ダニエ・カーラのこともある。早くレアリアのもとに戻った方がいい―――― 。
そう思って人馬を掻き分けようとしたアージェは、ふと見覚えのある男が騎士たちを従え近づいてくるのに気付いた。
ケレスメンティア軍の総指揮官である男、ガイザスはアージェを見て馬を寄せると、抑え目の声で口早に問う。
「こちらはどうなっていた?」
「神具は破壊しました。ダニエ・カーラは転移で消えて、シャーヒルは逃がしてます」
分かる範囲のことだけを端的に説明すると、ガイザスは苦々しい顔になった。
ダニエ・カーラやシャーヒルを逃がしたことが問題なのだろうとアージェは思ったが、どうやら違うらしい。
男は厳しい表情で背後の騎士たちに頷いた。それぞれ部隊の指揮官なのだろう彼らは陣の中に慌しく散って行き、魔法士が伝令の魔法具を操作する。ざわつく神兵たちを見ながら男はアージェに零した。
「不味いことになった。セーロンが後方に布陣した」
「は? それ本当だったのか?」
ケレスメンティアを混乱させる為の流言ではなかったのか、と目で問う青年にガイザスは頷く。
男は苦い表情を瞬間で消すと、周囲に向けて声を張り上げた。
「武器を取れ! 負傷者は魔法士の治療を受けろ! これから北東のコダリス陣を突破する!」
雄雄しい命令に神兵たちは息を吹き返したかのように表情を変える。
だが、その裏にはコダリスを突破しなければならない理由があるのだろう。
アージェは飲み込みきれない状況を頭の中で反芻する。
「……セーロンが来たって何でだそりゃ。馬鹿だからか?」
青年は自分の言葉に一層呆れてかぶりを振ると、本営に戻るため手綱を操る。
しかしその時、彼が向かおうとする後方から激しい轟音が鳴り響き、神具のものとは異なる白光が空を焼いたのだった。



意識を集中すれば分かるものはある。
それは広い世界に一滴だけ落ちる水音のようなもので、一度気づいてしまえばその後も追うことが出来るものだった。
見過ごせない異質な一粒。そうして戦場に持ち込まれた神具を追っていたレアリアは、けれど最後の赤光が見えてまもなく神具の気配が消えたことに、ふっと安堵の微笑を漏らす。
「アージェ」
神具を持つ選出者のところに、彼を一人で送り出すことには不安もあった。
だが彼女の騎士は負った役目をしかと果たしたのだ。レアリアにとっていつでも彼はそうだった。諦観を意識しそうになる時に手を差し伸べてくれる相手。けれど彼本人はそれを特別なこととは思っていないのだろう。
だからこそレアリアは、このまま彼を傍に置き続けることに不安もまた覚える。自嘲が胸の奥を焼いた。
「陛下、ガイザス将軍から前進を停止するとの連絡が」
「―― ああ。神具が壊れたことを伝えなさい。好きに動けと」
自分一人の物思いに沈みかけていたレアリアは、魔法士からの伝令にそう答える。
コダリスにも策はあるのだろうが、神具が壊れたことでその目論見は大きく挫かれたと見ていいだろう。
彼女は首からかけた鎖を指で弄りながら先のことを考えた。この戦場だけでなく、自国を、そして他国をどう動かせばいいか思考を広げる。
―――― その時、後方に強烈な気配が生まれた。
血の色よりも黒く沈んで燃える火。
喩えるなら、かの存在はそのようなものだ。レアリアは金糸の髪を揺らして振り返る。
護衛を担う騎士と兵たちの更に後ろ、何もない平野にいつの間にか一人の女が浮かんでいた。
昏い赤の魔法着。亜麻色の長い髪は乱れて風になびいている。
若い女はレアリアとは異なり、本来生気ある華やかな美貌の持ち主であるのだろう。
しかしその両眼には今は怨嗟の炎が揺れていた。白い右手からは細い血の筋が流れていく。
女皇は手綱を引き女に向き直った。
「それで、どちらの名で呼べばいいの?」
涼やかに通る声に、女は俯いていた顔を上げた。黒い眼がレアリアを捉える。
「……クレメンシェトラ」
「その名で呼ばれるのは不愉快だわ。神代の残滓が今更何のつもり?」
冷えた目を投げかけながら、レアリアは左手で首飾りを探った。その下にかかる小さな石を手の中に握る。
切り札は、最後に切るべきものだ。そしてそれは彼女にとって「途中では切れない」という意味もまた持っていた。
選出者を目の前にしたレアリアは、この先のことと自分を含めた周囲の人間の命を天秤にかける。
ダニエ・カーラはひどく優しげな目で、何もかもが対照的な女皇を見た。
「お前が生きているということが、苦しいのよ」
「そう」
レアリアは右手を開く。
隣にいた騎士がそれに気付いて、彼女の鞍から宝剣を抜いた。空結石の剣を渡された女皇はその剣身に目を走らせる。
―――― 平定を委ねられたクレメンシェトラの力は、全ての神具を抑えられるよう設定されている。
しかし選出者の中でもそれが例外的に効き難いのがダニエ・カーラだ。彼女の力は純粋なる魔法である為、相性的な有利がない。
だが有利があったとしてもクレメンシェトラの力を汲み出し過ぎれば、眠る女を起こしてしまうだろう。
レアリアは首飾りから手を放すと両手で剣を構えた。自分が使える力の断片、「推移」だけを武器に女に相対する。
不穏な気配を感じ取った騎士や兵たちが、主君を庇うようその前に壁を作った。ダニエ・カーラはくすくすと笑う。
「人に隠れて人に守られて……あつかましいわね。反吐がでる」
「同感と言いたいところだけれど、お前と遊んでいる暇はないの。そろそろ元の澱に戻りなさい」
「私が殺さなかったら誰がお前を殺すの? ねえ、クレメンシェトラ、他にいないでしょう?
 失敗作の裏切り者。嘘つきの人形め! 最初から最後まで死ぬほど憎かった!」
絶叫を上げる女を、レアリアは平静な目で見つめる。
そうして己の感情に苦悶する女の右手から、すっと傷が消えた。
昏い視線。美しい手に収まるよう地面から黒い槍が生える。
アージェが操る剣に似た漆黒の槍を、宙に浮かぶ女は優美な仕草で手に取った。