幸いなるかな 184

黒い槍を持つ女は、その細い穂先をレアリアに向けて構えた。
女皇の前に立つ騎士たちは光を反射せぬ黒に緊張を見せる。
それは兄に言われて本営までやってきたミルザもまた同様で、少女は我に返ると急いで右手の手袋を取り褐色の肌を露わにした。
レアリアはその手を横目で確認しつつ、剣を構える。静かな声で周囲の臣下たちに言った。
「危なくなったら逃げなさい。私は平気だから」
「この命にかえましても、お守り致します」
間髪いれず返ってきた答は前にいる騎士のものだったが、それは他の者たちも同様のようだった。
レアリアは胸に小さな痛みを感じつつも、だが真っ直ぐに顔を上げる。
「お相手しよう、ダニエ・カーラ。私は神代を継承し、清算する者」
「腸を撒き散らせてあげるわ。お前の血が欺瞞の庭によく染み渡るように」
ダニエ・カーラはくるりと槍を一回転させる。
そしてそれをもう一度構えると、レアリアに向かって何もない宙を蹴った。

詠唱なき攻撃。
黒い槍は、女皇の前に立ち塞がる人間などまるで存在してもいないかのように、レアリアに向かって真っ直ぐに突き出された。騎士たちの眼前に展開された防御結界を貫通する。
しかしそれは鋭くはあっても決して速いものではない。正面にいた騎士は己の剣で槍を跳ね上げた。
そのまま男はダニエ・カーラの腹を剣で薙ごうとする。けれど剣を握る腕に、その時何処からともなく黒い蛇が食らいついた。
蛇は一瞬で騎士の右腕を食いちぎり、空中でくるりと弧を描く。
「ぐ……っ、あ」
騎士は苦痛の声を飲み込もうと呻いた。宙に浮かんだダニエ・カーラは、艶笑を浮かべて男を見下ろす。
「可愛らしいわね」
「黙れ、魔女!」
鋭い少女の声。ダニエ・カーラの腕に無数の何かが突き刺さった。
魔法着の布地を抜け白い腕にびっしりと穴をあけたそれらは、小さな黒い針である。
針はすぐに元の澱となって霧散した。みるみるうちに鮮やかな血が溢れ始める。
女は異能者である少女を視線の先に捉えた。
「またお前? うるさい羽虫ね」
ダニエ・カーラは白い手を眼下のミルザに向ける。少女は剣を掲げてそれに対そうとした。
けれどその時レアリアが、ミルザの後ろで宝剣を振るう。
本来なら届くはずもない空結石の刃は、彼女の力を増幅し、不可視の刃を生み出した。
宙を薙ぐ刃は、ダニエ・カーラの体を右から左へ弾き飛ばす。
「……っ」
激しい砂煙。女は地に叩きつけられる寸前で何とか結界を張って激突を免れた。
術者の集中が乱れたせいか、宙をくねっていた蛇がふっと消える。すかさず追撃に向かおうとした騎士にレアリアはかぶりを振った。
「やめなさい。近づかないで」
開いた距離はそう遠いものではない。
ダニエ・カーラはぼろぼろと風化した左腕部分の服と、その下の肌を見やる。
若々しく滑らかなはずの女の腕は、しかし不可視の攻撃を食らった箇所から乾いて崩れかけていた。
まるで急激に老いてしまったかのような有様に、彼女は嫌悪の表情になる。
レアリアが棘のある声で宣告した。
「お前のせいでイリデアも気の毒なことね」
「クレメンシェトラ……」
クレメンシェトラが持っている力のうち、レアリアが使うことの出来るものはほんの一部である。
それは「疑似的に対象物の時を進める力」―――― 「推移」と呼ばれる能力で、使いようによっては自然治癒の速度を早めることも、また敵を直接風化させることも可能であった。
己の両脚で立ち上がったダニエ・カーラは、手に持っていた槍を一瞥すると無造作に放る。
武器を捨てるかのように見えた行動。だが直後レアリアの鋭い声が飛んだ。
「防ぎなさい!」
その命が何を意味するのか、瞬時に理解出来たものは僅かであったろう。
魔法士たちは半ば主命に押されて結界を強化する。騎士たちが剣を上げた。
彼らの視界の中で、槍は不意に湾曲すると黒い球体へと変じる。そしてみるみるうちに大きさを増した。
唸りを上げて回転しながら、黒球は彼らの方へと向かう。
二重の結界がそれを押し留めたのは一瞬。すぐに球はそれらを破り去った。
レアリアは剣を振るう。推移の力を使い球を減衰させようとした。
しかし黒球は不気味な軌道を描いて薙がれた力を避けると、真下にいた騎士を飲み込む。
悲鳴はなかった。ただ骨の砕ける嫌な音が聞こえる。
主人を失い背から腹までをえぐられた馬が、いななきもあげずに横転した。
理解を越える光景に、その場に居合わせた者たちはみな愕然とする。
けれど黒球はそこで止まらず、ぐんと速度を上げて直角に曲がると、騎士の背後にいた魔法士を食らった。
咄嗟に張ろうとした結界ごと体の前半分をこそぎとった黒球に、隣にいた女の魔法士が思わず口元を押さえる。
「ひ……っ」
「ダニエ・カーラ!」
レアリアは球を追って剣を振り下ろす。魔法を越える不可視の力。厚みのあるそれが黒球を両断した。
球は黒い霧となって消え去り、中からは肉片や血、鎧の欠片などがぼたぼたと地に落ちる。
常人であれば胃液を吐き出しそうな光景に、しかし人形のような女皇は微塵も怯まなかった。宝剣を横にするとそれを両手で支える。
赤紫色に燃える瞳が空結石の剣身を見据えた。理解出来ぬ言語での呪が続く。
全ての位階を動かすことの出来る力。それは平野に立ったままのダニエ・カーラを中心に、大きな白い光の輪となって現れた。
女は赤い唇の両端を吊り上げて笑う。
「これで私をまた捕らえようというの?」
「まさか。今度は残滓も残さず滅してやるわ」
「はっ! 思い上がるな、出来損ないが!」
けたたましい哄笑。ダニエ・カーラは地を蹴った。同時に白い輪が彼女を追って狭まる。
レアリアは視線だけでその姿を追った。光輪がその体を捕らえようとする直前、宙に飛び上がった女は右手を大きく振るう。
先程の神具の光に似た赤い閃光が、降りかかる鎌のように女皇へと迫った。
防ぎきれない攻撃。顔を顰めるレアリアの前に、ミルザが馬を立てて割り込む。
「陛下! お下がりください!」
剣を手放した少女は両手を上げて閃光を留めようとした。紡がれた黒糸が閃光の刃を束の間留める。
しかしそれは、本当に束の間のことでしかなかった。
全ての糸が圧力に耐え切れず千切れ去る。
振り子のように向かってくる刃。ミルザは己の馬の首が左右に両断されるのを見た。刃先が彼女の眼前に迫る。
女の笑い声が、遠く聞こえた。



「ミルザ!」
怒声に似た叫び声はレアリアのものである。
刃を食らう直前であった女皇は、咄嗟に横から手綱を引いた神兵によって、閃光を逃れていた。
一方ミルザの乗っていた馬は、真っ二つにされそれぞれ左右に倒れこむ。高く上がった血飛沫がレアリアの足を濡らした。
その血を頭から被った少女は思わず大きく咳き込む。
「何だ……?」
自分がどうなったのか、ミルザは把握出来ずに顔を上げた。同様に頭から血を浴びている男と目があう。
彼女が命を落とす直前、馬上からその体を引き摺り下ろした男は苦々しい声で言った。
「もう少し後先を考えろ」
「誰だ?」
見覚えのない顔。命を助けてもらったにもかかわらず思わず顔を顰めてしまった彼女に、主君の声が聞こえる。
「まさか……ネイ?」
血に濡れた顔。しかしそうであっても分かる肌は、話に聞いていた褐色ではなかった。
唖然としてしまったミルザを男は乱暴に放り出す。
そうして立ち上がり剣を抜く男を横目に、少女はよろめきながらも自力で態勢を立て直した。瞼にかかった血を拭い主君の姿を探す。
レアリアは燃えるような怒りの目でダニエ・カーラを見据えていた。
先程まで宙にいたはずの女は女皇によって攻撃を受けたのだろう。彼らの正面、少し距離のあいた場所に左腕を押さえて立っていた。
その体のあちこちは罅割れて風化している。まるで玩具が壊れていくように、女の存在は少しずつ朽ちていた。
ダニエ・カーラはそれでも口元に笑いを浮かべている。
美しい顔立ちに貼り付けられた異様な形相。その様に女皇を守る人間たちは僅かながら慄いた。
女は崩れかけた人形の如きぎこちなさで両手を広げる。乾いた嘲笑がその喉の奥から漏れた。
「それで、これだけ? この程度の力で私が抑えられるとでも?」
嘲りの言葉と共に、女の体の罅割れた部分が修復されていく。
それらは時を進められている為、完全に元の滑らかさを取り戻すことは出来なかったが、少なくとも崩れや罅は塞がって生きている人の肌となった。
ダニエ・カーラは小首を傾げる。
「所詮お前には自分の力で人を殺すことなど出来ないのよ。誰かに頼りきりの甘ったれた人形。
 与えられるのを待っている卑しい奴隷女が、何をのうのうと生きながらえているの?」
「……面白いことを言う」
レアリアの白い指が、胸元から銀鎖を引き出す。
その先につけられた青紫の石。杖の核を、彼女は摘んだ。
「悪戯が過ぎるわ、ダニエ・カーラ。これ以上をするというのなら教えてあげる。
 神代から何も変わらぬお前に、クレメンシェトラに繋がれた女皇がどういう存在であるのかを」
「繋がれた?」
「『庭園』を知る人間が自分一人とでも? ―――― 私は生まれた時からずっとそこに居続けたのよ」
石を摘む指に力がこめられる。レアリアは苦々しく顔を歪めた。
ダニエ・カーラは不審げに眉を寄せる。
―――― 魔女の表情が変じたのは、その時だった。
「う……」
こめかみを押さえる手。僅かに震える指先は何かを堪えているかのようだった。様子のおかしさにレアリアは手を止める。
ダニエ・カーラは顔を顰めて呟いた。
「分かってる……うるさい……」
「イリデア?」
肉体の持ち主がダニエ・カーラに働きかけている。そのことを女皇はすぐに看破した。
レアリアは首飾りから手を放すと、改めて女を捕縛する為に力を成形しようとする。
しかしそれより早く、ダニエ・カーラは煩わしげな表情で何もない平原を振り返った。左手をそこへとかざす。
たちまち広がる巨大な魔法構成。それが何であるのか見て取った魔法士が顔色を変えた。
陣が魔力を得て動き始め、その中から次々に騎馬兵が走り出る。
転移門によって召喚された新手の軍勢。彼らの身につける装備がセーロンのものだと見て取ったレアリアは大きく瞠目した。
「まさかここに……」
「これでいいんでしょう?」
ダニエ・カーラの投げやりな声が響く。
魔法着を着た女はそうして陣を組もうとするセーロンを背に、改めてケレスメンティアの女皇へと向き直った。