幸いなるかな 185

「上手くいったようだな」
戦況について部下から報告を受けたシャーヒルは笑った。
神具を用いての先制攻撃。それ自体は上手くいったが、その後のダニエ・カーラの暴走は彼の意図したところではない。
しかし彼は、万が一そのような事態に陥った時はダニエ・カーラをケレスメンティア後方に転移させ、神具によってケレスメンティアを包囲網の中に追い立てるつもりであった。
自軍の中にいて巻き添えを多く出してしまうのなら、目の前に敵しかいない場所においてしまえばいい。
その策は自身の娘を単身敵前に送るということをも意味していたが、全体益を考えれば致し方ないところだろう。
イリデアもそれについては聞いて納得をしていたし、また「単身」にならぬよう予備策を打ってもあった。
ケレスメンティアからすれば、まったく予想外であろう勢力。セーロンを友軍として召喚するという策は、以前遺跡で衝突したこともあってシャーヒル自身成功する確率は低いと踏んでいたのだが、どうやら相手方は乗る気になったらしい。
あらかじめ教えてあった待機場所へとダニエ・カーラが開いた転移門によって、彼らは戦場に現れた。
今のコダリスは、ケレスメンティア軍を挟んで、北東と南西の二方向に展開している。
更に敵軍の背後にあたる南東にはセーロンが布陣し、ケレスメンティアは三方を包囲された形になっていた。
唯一布陣が為されていない場所にはワーズの森の入り口が広がっている。
先程妙な閃光が見えたが、特にこれといった情報は入ってきていない。大勢に影響はないだろう。
思惑通りと言っていい状況に、シャーヒルは血がこびりついた顎鬚を撫でた。
「さて、ケレスメンティアはどうでるか。突破を試みるかワーズの森に自ら踏み入るか。見物だな」
言いながらも王は鎧の上から腹を押さえる。
先程敵の騎士に深く刺された箇所は、魔法によって治癒を施されたものの未だ内部で鉄が疼いているような気がした。
ここ数年これ程までの手傷を負わされた記憶がない男は、味わったばかりの痛みを思いだし自嘲を浮かべる。
「牙の鈍った獣など……」
思わず呟いた言葉にシャーヒルは苦い顔になった。
そうして王は自身の剣を取り直すと、改めてケレスメンティアへの攻撃を全軍に命じたのである。



唐突に天を焼いた白光は、本営のある方向から周囲に叩きつけるような風を残して消えた。
後には静寂が訪れる。あまりのことに一瞬愕然としたアージェは、しかしすぐに手綱を取り直した。
「レア!」
本営に残っていたはずの彼女。その彼女は無事でいるのかどうか。
セーロンが背後に布陣したということなら、後方もまた前線になり得るのだ。
彼は自軍の人馬を無理矢理掻き分けて主人の無事を確かめに行こうとする。
しかしそうして陣を逆流し出した時、聞き覚えのある声が背後からアージェを留めた。
「待て!」
焦りの混じる男の声。けれど青年は止まらない。
強引に前に進もうとする彼をついに魔法の輪が捕らえた。
煩わしげに左手を振るおうとするアージェを再度男の声が制止する。
「待つんだ! 戻れ!」
「レアのところに行くんだよ! 放せ!」
追ってきた相手を振り払おうとした手を、しかし男は掴み取った。
苛立たしさも顕に振り返ったアージェは、そこでようやく男がロディであることに気付く。
どの部隊に組み込まれていたのか、宮廷魔法士としては上位に位置する男は厳しい表情で青年を見やった。
「待つんだ。本営から連絡が入った。今行っても陛下はいらっしゃらない」
「レアがいない?」
それはどういうことなのか、大きな声で聞き返してしまったアージェは、そこでようやく周囲の視線に気付いた。声を落として聞きなおす。
「陛下はどうされたんだ」
「セーロンが布陣してから、どうやら陛下を離脱させようと転移門が開かれたらしい。
 が、そこに魔法の妨害が入った。それを防ごうとして両方から力が衝突したらしく構成が歪んだんだ」
「それ、さっきの爆発?」
「ああ。死傷者も出たが、転移構成が混ざっていたせいで行方不明者も出ている。
 座標指定が狂って何処かに飛ばされたんだろう。その中に」
「陛下がいらっしゃる、と」
頷くロディを見ながら、アージェは思ったより深刻な事態に息を飲んだ。
戦場で女皇が行方不明になる。―――― それは全体士気に関わるだけでなく、この先セーロンにどう対処するか即時的な判断が出来なくなるということを意味していた。
事態の不味さに少しだけ落ち着いた青年は、眉を顰めて周囲を見回す。
ガイザスの指示通り北東のコダリス陣を突破しようと動き出した自軍。アージェは左手でこめかみを押さえた。
「陛下はセーロンとの衝突を避けろって仰ったのか」
「そこまでは仰ってない。私も人伝に聞いただけだが『コダリスを優先しろ』ということだった。
 無論セーロンから攻撃が仕掛けられれば反撃はするだろう。だが」
「こちらからは喧嘩売りたくないってことか、面倒だな」
このような状況になって敵対を避けるも何もないと、アージェなら思うのだが、国同士の命運がかかる以上軽く踏み切れる問題ではないのだろう。特にセーロンは手強い大国の一つでイクレムとの関係も深い。先にコダリスを捻じ伏せることが出来れば、交戦せずにセーロンを退かせるということも場合によっては可能なのだ。青年は動いていく戦場に厳しい目を送った。
「陛下を探せるか?」
「敵軍の中にはいないようだ。敵の通信に魔法士が干渉したが、そういった情報は入ってきていない。
 ただ暴走があった時、陛下は宝剣をお持ちだったそうだ。今、それを頼りに追跡をかけている」
「追跡?」
「魔法でだ。近くであれば分かるし、お迎えにも行けるだろう。
 ただそれも今の状況を乗り切れたらの話になるが」
いくらレアリアの居場所が掴めても、それ以前にケレスメンティアが敗北しては元も子もなくなる。
アージェは結論に辿りつくと、自軍が動いていく先を振り返った。その先にはコダリスがいて、おそらくシャーヒルもそこにいるのだろう。一箇所を突破して包囲網から逃れようとするガイザスの指揮に、青年は小さく息をついた。
「分かった。そのまま追跡しててくれ。場所分かったらすぐ教えて」
「ああ」
「……あと」
それを聞いていいのかどうか、アージェは迷う。しかし戦場において迷っている時間などないだろう。
何かを後回しにして、それを再び手に取れる機会は二度と回ってこないかもしれないのだ。
「陛下が行方不明になったって、ミルザやネイがどうなったのかは分かる?」
「ネイ?」
思いもかけない名前にロディは目を瞠った。だがそれも一瞬のことで、男はすぐに気を取り直すとかぶりを振る。
「分からない。死亡者の中にはいない、と思う」
「そうか。ありがとう」
アージェは頷くと馬首を返した。自軍の流れと同方向に、先程までいた前線へと引き返す。
そうして巧みに馬を操って人馬の間を縫い、指揮を執るガイザスの背を捉えた彼は、その隣に馬を寄せた。包囲突破のため進んでいく自軍と、それを迎え撃とうとするコダリス軍を一直線上に見やる。
アージェは抑揚のない声で要請した。
「進軍速度を緩めてくれ」
「何だと?」
「突破するんだろ? 俺が先に行く」
―――― 戦闘にかけている時間が惜しい。
それが今の彼の正直なところで、このような事態を導いたシャーヒルに対してもまた強い苛立ちがあった。
一刻も早く場を平定させて、レアリアを確保したい。
その為にはコダリスと泥沼の争いをしている時間はないのだ。アージェはガイザスの脇を抜けて前線へと出る。
馬蹄が上げる砂煙の先、向かってくるコダリス軍が見えた。青年は更に前へ、自軍の最前線へと出る。
ガイザスが彼の要請を飲んでくれたのか、進軍速度を緩めるようとの声が後ろから飛んだ。
けれどアージェだけはそれには従わず、単騎抜け出して駆ける。
そして彼は、冷えた目で左手を敵軍へと向けた。
「先に神具を持ち出したのはそっちだ。―――― 身に染みろよ」
漆黒の手。異能の力が別位階に澱むものを呼び起こす。
枯れた地から黒い海が浮かび上がり、それはゆらりと立ち上がるとそのまま巨大な幕となった。
風を孕んで揺れるかに見える薄幕。青年の手によって引き起こされたそれは、向かってくるコダリス軍の前へと広げられる。
非現実的な光景に、先頭を走っていた騎馬兵が慌てて手綱を引いた。
幕にぶつかる直前で止まろうとする敵兵たちを、アージェは目を逸らすことなく見据える。
「俺は、手加減しない」
振り下ろされた左手。
次の瞬間薄幕は、百人近い敵兵の上に覆いかぶさり、その全員を飲み込んだ。



ログロキア城都における最後の戦闘で、自分が何をしたのか、アージェはよく覚えていない。
だが話は聞いた。澱の海を実体化しそれが数十人を生きたまま飲み込んだのだと。
また、彼の体を使った母が同様に広範囲での殲滅を行った際には、その行使を間近で見ていた。
その後にコデュから聞いたのだ。「女皇の騎士の異能とは、戦場でもっとも力を発揮する」と。
だからきっと可能なことなのだろうとは思っていた。

コダリス兵へと覆いかぶさった幕は、そのまま何に遮られることもなく地面の上に落ちた。
ふわりと風に乗って落ちたかのようなそれは、下にいたはずの彼らについて、何ひとつ残さなかったのだ。
悲鳴も死体も残らない。ただ飲まれてしまった。
そうして一瞬で兵たちを消し去った幕は、再び対象を求めて起き上がる。
呆然と一連の光景を見ていたコダリス兵たちは、それを見て恐慌に陥った。声にならない悲鳴をあげて後退し、陣に歪みが生まれる。
騒然となった空気は幕の正面にはいなかった左右の兵たちにも影響をもたらし、コダリス前線は奇妙にたわんだ。
アージェは冷静に全体を見通しながら幕を動かす。
負の領域へと繋がる境界面。それは逃げ出そうとしていた兵たちと、幕の脇をすり抜けアージェに向かおうとしていた数騎両方を食らった。
手を止めず淡々と敵陣を食い荒らしていく異能者を、ケレスメンティアの兵さえも慄きの目で見やる。
アージェは隣に来たガイザスを横目で見上げた。
「ちょっと待ってて。攻撃しかけるならその分避ける」
「ああ……」
緩まった馬足は、しかし今もなお敵陣へと向かっている。
ガイザスは、その先で止める者もなく兵たちを飲んでいる澱を、顔を険しくして眺めた。低い嘆息が洩れる。
「―― ディアドがここまでの力を持っているとは」
悔恨にも似た感想に、アージェは何も返さない。
彼はただ激しくなる頭痛を表情に出さず、左手を振るった。