幸いなるかな 186

黒い薄幕が兵たちを次々に飲み込んでいく。
まるで断片的な夜が意思を持って蠢いているかのような光景。
悪夢のようなそれに、上空に浮かぶルクレツィアはただ笑った。
「まったく、とんだ異能じゃない。二人分どころじゃないわね」
少女は振るわれる異能を目を細めて見下ろす。
混沌とした戦場。たった一人で敵軍を前に場を翻弄している青年は、上空から見ても明らかに異彩を放っていた。
自軍の先頭に立ち敵陣を食い荒らしている異能者は、彼女の目には広がる黒い靄の中心にいるように見える。
その脅威を食い止めようとコダリス軍から突撃を試みる者たちもいたが、ケレスメンティアはそれを許さない。混乱の中から躍り出るコダリス兵らには雨の如き矢が射かけられた。
次々と地に倒れ伏す兵たち。だがこの場ではそれら死体でさえ現実味を帯びているという点で、見る者にある種の安堵を抱かせる。
それ程までに戦場において青年の力は異様さを持って畏れられていた。
ルクレツィアは長い髪を手で払う。
「こういうのを運命の皮肉って言うのかしらね。
 強い力を与える為に野で育てて……そのせいで『普通』に育ったんだから。
 まさかそれが巡り巡って変革の契機になるだなんて、誰も思わなかったんでしょう」
少女は愛しむ目で地上を見やる。
温かな視線は異能の青年だけではなく、戦い死していく全ての兵たちに向けられており、更にはその愚かさを許容しているようでもあった。
彼女は金色の目を閉じて、空の中に佇む。
「変わらぬまま在り続けることに何の意味を見い出すのか―――― そろそろ答を出す時間でしょう? クレメンシェトラ。
 盲目である限り私たちは、いつだって不自由の中にいるのだから」



頭の奥が割れるように痛い。
コダリス軍の北東陣を半ば崩壊させつつあるアージェは、ついにその痛みに顔を歪めた。
近くにいた騎士が様子の変化に気づいて声をかける。
「大丈夫か?」
「平気だ」
「―― そのくらいにしておいた方がいい」
彼らの前にいるガイザスが振り向かぬまま言った。
アージェは眉を上げたが、既に形を成していないコダリスの前線を確認すると頷く。
「分かった。残りは掃討する?」
「ああ。突破しつつ叩く。その後に布陣し直してコダリスの別働を相手にするが、ついてこられるか?」
「大丈夫」
黒い薄膜を消した青年は深く息をついた。長く広範囲で力を操り続けてきた影響か、急に頭痛が増す。
しかし彼は苦痛の声を飲み込んだ。
「陛下の行方は?」
「追跡に手間取っているようだ。戦闘中とあって使われている魔法も持ち込まれている魔法具も多い。
 それらが邪魔になってしまっている」
「ならさっさと終わらせるしかないか」
アージェは鋼の剣を抜き、柄の感触を確かめる。
固く冷たい柄は頭痛を幾許か薄らげ、彼の意識に現実という枠を与えた。
突撃を担う騎士の一人として出ていこうとする彼を、ガイザスは難しげな目で見やる。
「いいのか」
「何が?」
「歴代のディアドの中でもここまでの力を持っていた者はほとんどいない。ましてやそれを戦場で行使した者など皆無だ。
 あれを見てお前に畏れだけではなく憎悪を抱いた敵も多いだろう」
だから下がっていた方がいいのではないかと暗に示すガイザスに、アージェはあっさりとかぶりを振った。
「別にいい。当然のことだろ」
大陸の長い歴史において、神具を持ち出した国々が忌み嫌われ滅びたように、彼自身が畏怖と憎悪を負うことは当然の結末だろう。
アージェはそれについてはとうに受け入れていた。薄幕が消えたことで何とか態勢を整えようとする敵陣を見やる。
「シャーヒルは?」
「おそらく後方にいるのだろう。死亡したという情報も撤退したという情報も入ってきていない」
「討ち取りたいな」
ぽつりと言い残すとアージェは馬を進めた。ガイザスの脇を抜け騎馬兵たちの中へと加わる。
そうして突撃していく騎兵たちと共にあっという間に見えなくなってしまった女皇の騎士を、男はいつもと変わらぬ険しい顔で見送った。誰にともなく零す。
「恐ろしいな」
「ディアドの力がですか?」
傍にいた魔法士が聞き返すと、ガイザスは太い眉を寄せた。
「いや、あれ程の力を持ったディアドが無信仰であるというのがな……。
 彼は言ってしまえば陛下個人に忠誠を誓っているだけだ。ディテル神ではなく―――― 」
「田舎育ちの青年ですからな。ですがそれは結局同じことでございましょう?」
神の代理人への忠誠と神への信仰。
両者は出所こそ異なれど、もたらされる結果は同じなのではないかと問う魔法士に、将軍はややあって頷いた。
しかしそうであっても男の目からは未だ憂慮が消えない。
神代から残る力によって二転三転する戦場。
その只中で一国の軍を預かる彼はだが、状況が打開されつつある今でも厳しい表情を崩さなかったのである。



「敵が突撃してきます! 今のままでは支えられません!」
自身の目にも見える戦場は混乱の淵にあった。
次々入ってくる報告。おおよそ予定通りであると踏んでいた時が、もはや遥か昔のことであるかのようだ。
覆されてしまった戦況にシャーヒルは苦々しげな自嘲を見せる。
見積もりが甘かった―― そう片付けるにはいささか悪夢めいた現状であるだろう。だがそうとしか言いようがない。
シャーヒルは神具の力を実際目にし、それを使うことを選択した後でも、ケレスメンティアがここまでの報復を行ってくるとは想定してなかった。
勿論「神の皇国ケレスメンティアには神具が実在する」と言われていることは知っていたが、千八百年を越える歴史においてその神具が実際に持ち出された例はない。
なればこそ真実であるかも怪しい話と思っていたのだ。せいぜいこちらの神具を無効化、或いは破壊されることはあっても、神具による報復はまずないと考えていた。
にもかかわらず二手に分けた自軍のうち、シャーヒル自身のいる北東軍は一人の異能者によって既に半壊してしまっている。
王は古傷のように疼く腹を押さえて指示を出した。
「後退しろ、取り合うな。南東へ退け」
士気も落ちているコダリスに、ケレスメンティアの追撃をこの場で受けて立つだけの力はない。今は残る軍と合流することが先決だろう。
セーロンはケレスメンティアの後背を追ってきているという。シャーヒルはその二国をぶつけあわせて時間を稼ごうと考えた。戦場の外周を大きく迂回しての合流を指揮する。
異能の力に食い荒らされぼろぼろになった陣を立て直しながらの後退は、与えられた打撃からすると驚異的な整然さを保っていた。
長らく大陸において強者として君臨してきたシャーヒルの非凡さが、そこには現れていただろう。
しかし神の剣は引かれることはなかった。彼らは後退するコダリス軍に食らいつき、苛烈に敵兵を斬り払っていく。
その猛攻はこれまでの反撃という意味合いだけではなく、ケレスメンティアが追ってくるセーロンに向き直れないということもまた大きく影響していた。
シャーヒルは分の悪さを感じつつも後退を敗走にせぬ為に苦心する。
平原を大きく動いていく三ヶ国の軍。
王のもとに「まもなく別働と合流する」という報告がもたらされた。シャーヒルは厳しい表情を変えぬまでも頷く。
「合流したらそのままセーロンの裏に回れ。あれらを盾にする。その間に増援召喚の手配を取れ」
セーロンを使い時間稼ぎをするとしても、四千騎ではケレスメンティアを下す程の力にはならない。
ただ彼の国は「ケレスメンティアが攻撃を躊躇う」という点があるからこそ有用なのだ。
最終的にはケレスメンティアとセーロン、どちらにも勝利するつもりがあるシャーヒルは、その間に西部に残してきた自国軍を近くの砦にまで移動させるよう命じた。
ケランら同盟への威嚇の為残しておいた自軍をこちらに動員するということは、その分西側が手薄になってしまうことを意味していたが、少しの間であればエフェミが代わりを担うであろう。
シャーヒルはここまで追い込まれたことに忌々しさを覚えつつ、だが勝ちを諦めてはいなかった。
もう間もなく自軍の別働が見えてくる。彼は手綱を取りつつ、敵軍を確認しようと振り返った。
そしてそこで信じられぬものを見る。
「馬鹿な」
鮮血を上げて馬上から斬り伏せられた兵士。その向こうには見覚えのある青年がいた。
後退する敵を追って深く切り込んできたケレスメンティア軍の、先端にいる異能者は、顔を上げシャーヒルを見止める。
「ああ、見つけた」
「小僧……!」
「今度は横槍はなしだ」
青年はそう言うと左手に剣を生んだ。
柄から刃まで全てが漆黒の長剣。瞠目する王を前に、アージェは右手の剣を鞘に収める。
追う者と追われる者。同じ方向へと向かう彼らの間に、事態に気付いた王の護衛たちが割って入った。
青年は、並走する騎馬兵から振り下ろされた刃を黒い長剣で受ける。それを弾き返すと同時に相手の喉を切り裂いた。
馬上から崩れ落ちる相手を見もせずアージェは速度を増す。
王に付いていたコダリスの騎士たちが二騎、彼に向かって馬首を返した。
「させるか、化け物!」
「陛下、お行きください!」
同時に向かってくる複数の騎士。けれど異能者は怯むところを見せない。
アージェは馬の速度を緩めることなく彼らと交差した。相手の反応速度を越えた剣が、一人の騎士の両眼を薙いで残る騎士の剣を受ける。
色の違う刃が衝突したのも一瞬、すぐにコダリス騎士は血と呻きを上げて落馬した。
青年は先を行く敵国王に平坦な声を投げかける。
「また逃げるのか?」
嘲りのない問い。
それはシャーヒルの腹に、鉄の痛みをもたらした。かっと熱くなる傷痕に、男の中で何かが疼く。
これまで数多の戦場において自らの手で道を切り拓いてきた王は、刹那背を斬られる自分の幻影を思い描いた。
黒い幕に食らわれ消えていった兵たち。王は視界の先に向かってくる自軍の別働を確認する。
―――― そしてシャーヒルは、手綱を引き馬首を返した。
「調子に乗るなよ、小僧」
大剣を抜き青年を睨む王。野獣と恐れられた男の両眼は激しい威圧と怒りに満ちており、もはや笑ってはいなかった。