幸いなるかな 187

甲高い鳥の声。聞き慣れぬそれに、ミルザは聴覚を刺激され目を覚ました。
地に伏していた彼女は顔を上げると、辺りを見回す。
湿った土。緑の濃い草の葉は初めて見る形をしていた。
細い木々が鬱蒼と茂る森。少女はそこまでを確認して体を起こす。瞼についた泥を払った。
「ここは何処だ……?」
頭が妙に痛むせいか記憶も曖昧になっている。
彼女は血と泥に汚れた鎧を確認すると、用心しながらも立ち上がった。
転がるいくつかの大岩と、変わった草木が生い茂る見知らぬ場所。
ひょろりと高い木々の隙間から空を見上げた彼女は、ようやく心当たりに思い至った。
「ひょっとして、ワーズの森か?」
思い出せる記憶の中では、最後にいた戦場から程近い森。そこは確かに人の踏み入れぬ変わった地形を持っていると聞いていたのだ。
ミルザは空に聳え立つ巨石の柱から視線を外すと、改めて辺りを調べ始める。幸い帯びていたはずの長剣は、近くの岩陰に落ちていた。
それを取りに行った彼女は、しかし剣の向こうに同胞の死体を見つけて顔を顰める。
神兵であった男はここに飛ばされた際に頭を岩に打ち付けたらしく、ぱっくりと割れた後頭部からは赤黒い血と灰色のものが流れ出ていた。近くには馬の残骸も転がっている。ミルザは両手を胸に当て、死者への祈りを捧いだ。
そうしているうちに、曖昧だった記憶が鮮明になってくる。
「転移の暴走か。ダニエ・カーラが―― 」
コダリス王女の体を借りた女は、あの時こともあろうにセーロンを友軍として召喚したのだ。
ダニエ・カーラ一人であればあのまま相手も出来ただろうが、セーロンが加わってはその前に女皇を置いてはおけない。
ひとまず転移にて主君を離脱させようとする魔法士たちと、それを妨害するダニエ・カーラ。そしてレアリア自身の力が衝突し、彼らは歪んだ転移門に飲み込まれしまった。
ミルザはそこまでを思い出すと、苦い顔で木々の向こうを覗き込む。
転移門が広がった範囲からいって、おそらく女皇も何処かに飛ばされてしまったのだろう。
少女は騎士の死体を思い出しつつ、レアリアが無事で近くにいることを願った。あちこちが痛む体を引き摺って、大岩を迂回する。
その先は小さな崖になっており、複数の岩で出来た段差の下には暗い森が広がっていた。
「陛下、いずこにいらっしゃいますか!」
張り上げた声は森の中に吸い込まれ、何も返ってはこない。
けれどミルザには落胆している暇はなかった。動きの妨げになる鎧を外してしまうと、岩から岩へ下り始める。
上からは影になって見えなかったが、四つの岩を下りきってすぐ、影に女の魔法士の死体が転がっていた。
内臓が圧迫されたのか血を吐いて息絶えているケレスメンティアの魔法士に、ミルザは無念を覚えつつも安堵もする。
このように近距離に三人も飛ばされているのだとしたら、他の人間も近くにいる可能性が高い。
少女は辺りを警戒しつつ森の中を探索し始めた。大きすぎない声で辺りに問う。
「陛下、いらっしゃいますか?」
ざわめく森に、だが人の声はしない。
ミルザはそれでも諦めず主君を探し続けた。
ややあって木の幹に叩きつけられたらしい三人目の死体を見つけ、肩を落としていた彼女の耳に男の声が聞こえる。
「こっちだ」
聞き覚えのある声。低いそれに、ミルザは慌てて声のした方を振り返った。蔦の絡みつく大岩を見つけ、その裏を覗き込む。
そこには旅人の格好をした男が岩に背を預けて座っており、膝の上には小柄な女が抱き上げられていた。
目を閉じたまま動かないレアリアに、少女は一瞬顔色を失くす。
だが男はすぐに彼女の不安を払拭した。
「気絶しているだけだ。怪我もない。生きている」
「そ、そうか」
「お前はルゴーの娘か?」
突然の不躾な質問にミルザは顔を顰める。
「それがどうした? お前こそ、あのネイだというのは本当か」
レアリアのディアドであった男が出奔した時、ミルザはまだほんの幼児だった。
従兄妹ながらまったく面識がない二人は、一瞬好意的とは言い難い視線をかわす。
しかしネイはすぐに視線を逸らしレアリアを見た。
「本当だ。別にお前についてどうこういうつもりでもない。ただ転移魔法が使えるかどうか確認しただけだ」
「……ああ」
確かにこの状況で魔法を使えなければ、味方からの救助を待つ他にない。
ミルザは周囲を見回したが、レアリアの宝剣も何処かに失われてしまっているようだった。小さな溜息が草の上に落ちる。
沈黙が満ちれば聞こえてくる鳥や虫の声。ケレスメンティアの城では聞くことのないそれらに、少女は不安を覚えた。何かを話していなければ焦燥に押しつぶされてしまう気がする。
彼女はレアリアの顔を見ながら口を開いた。
「何故、戻ってきた?」
逃げ出した祖国に何故今更戻ってきたのか。固い声にネイは無表情のままだった。
「連れてこられただけだ」
「誰に?」
「お前には関係がない」
ばっさりと拒絶する言葉は、けれど不思議と反感を覚えない。
それは男の声が幾許か沈んでいるように聞こえたからかもしれなかった。
ミルザは男がいなくなった後の空白を思い出す。
「お前が戻ってきていると聞いて、ベルラが怒っていた」
「そうか」
続く言葉を言おうか言うまいか迷って、少女は言わないことにした。
男の幼馴染であり婚約者でもあったベルラ。彼女はきっと今でも男の帰りを待っている。ディアドを早々に諦めてしまったレアリアよりもずっとずっと長く、空白を保ち続けているのだ。けれどその感情は、他人が口にしていいものではないだろう。
ミルザはネイの顔を見た。
「何故、私たちを助けた?」
髪に染み込んだ馬の血は異臭を放っている。少女はそれを鬱陶しく思いながらも、だがあの時ネイが助けてくれなければ血を噴き上げて倒れていたのは自分であると分かっていた。
男は視線を上げミルザを見る。そこに理解を望む意思はなかった。
「借りを返しただけだ」
「借り?」
その問いに男は視線だけで答える。気を失った女皇に注がれた目。ミルザは得心して頷いた。
「しかし、おかしなことになってしまったな」
「森を抜ける方角は分かる」
「分かるのか!?」
「上から見ていたからな。だが、抜けたとして戦況がどうなっているか分からない。下手をしたら自殺行為だ」
彼らが戦場にいた時、既に平原には三国が展開しまったく先が読めない状況だったのだ。
これでケレスメンティアが負けていたり、拮抗した状況でコダリスに先に見つかりでもしたら、いい捕虜になってしまう。
ミルザは身動きの取れない状況に唸り声を上げた。
「誰かが迎えに来るか、陛下がお目覚めになるまで待つしかないか」
「そうだろうな」
宝剣がなくなったとしても、レアリアには追跡の為の魔法具が持たされているはずだ。
ミルザはそれまでの間座って体力を温存しようと、草の上に手をつく。だがすぐに、彼女は腰を下ろすことなく立ち上がった。
森の中を通る風。そこに異変を覚えたのはネイも同様のようで、男はレアリアを抱き上げて立つ。
二人は木々の向こう、大岩が重なる小さな崖の上を注視した。
「来たか」
「そのようだな」
ミルザは腰の剣を確認した。頭痛は先程よりも治まってきているが、体のあちこちが痛い。
だが共に飛ばされた他の人間のことを思うだに、命があったことの方が幸運だろう。少女は剣を抜くと近づいてくる気配に向き直った。
「私が足止めをする。陛下を安全なところへ」
「死ぬぞ」
誰が迫ってきているのか、彼らは二人とも察している。
その結論として出てくる動かせない未来に、ミルザはけれど笑った。
「だからどうした? この力を持つ者に己を惜しむ感情など不要だ」
褐色の右手。女皇の騎士を生み出し続ける家系。
少女は誇りを持ってそれを口にしながら、だがネイのことに気付いて僅かに眉を顰めた。
しかし男は気にした風もなく「そうか」と返す。
それ以上拘泥を続ける気はないのだろう。ネイはレアリアの体を抱きなおすと、岩が点在する木々の向こうへと足を向ける。
別れのつもりか最後に振り返って男は問うた。
「誰かに伝言などはあるか?」
最期の言葉を汲んでくれる気なのだろう。ミルザは瞬間不透明な目で男を見たが、苦笑を以ってかぶりを振る。
「誰にも、何もない。陛下がご無事であればそれが全てだ」
「分かった」
ネイの姿はすぐに木と岩の向こうに見えなくなった。
その足音が消えるのを待って、少女はふっと息を吐く。震える右手で改めて剣を握りなおした。
―――― 消えた男の代わりになろうと騎士の道を選んだ時、はたしてこのような最期を迎えることを自分は予想していただろうか。
皮肉に歪んだ結末。だが彼女はそれを皮肉とは思わなかった。むしろ不思議な満足感が胸の中に満ちている。
恐怖はある。だがそれは、彼女の全てを支配するわけではないのだ。ミルザは堂々と顔を上げて、女の訪れを待った。
まもなくして、ぼろぼろの魔法着を身に纏った女が、小さな崖を下りてくる。
あちこちが崩れかけた体。美しかった顔は、その半分が老いて皺だらけになっていた。
魔法の浮遊によって草の上を滑ってきたダニエ・カーラは、ミルザを見つけると苦々しい顔になる。
「またお前?」
「それはこちらの台詞だ」
女は剣を構える少女を鼻で笑った。近くにあった岩の上に腰掛ける。
ダニエ・カーラの右手は、力の衝突のせいか指が三本になっていた。
しかしなくなった指の根元からは血も何も出ていない。ただ干からびて黒く変色している。
もはや彼女も長くないのだろう。ミルザはそのことに少し安堵した。
ダニエ・カーラは、彼女の微笑みに苛立った表情を見せる。
「お前、目障りよ。あの人の傍にまとわりついて……」
「あの人とは誰だ? 陛下か? 兄か?」
子供じみた女の言葉に、ミルザは妙に可笑しくなった。笑い出したい気分を堪える。
「後者であるならば一言だけ言わせて貰おう。―――― 兄はお前など、だいっきらいだ!」
思い切り力を込めてのあてつけ。まるで幼児同士の喧嘩をしているようで、ただただ少女は笑った。
女はそれを聞いてみるみる顔を歪める。
「……殺してやる」
「私もそうしてやろう。いい加減お前の存在が腹立たしい」
深く息を吐き、そして吸う。
改めて剣を握りなおした時、色の違う両手はもう震えてはいなかった。
ミルザは緑の目で女を睨む。

一人で彼女の相手をするなと、兄は言った。
それは彼なりの優しさだったのかもしれない。
少しも優しくなかった異母兄。だが思い返せば、彼はミルザのことをよく気遣ってくれた。
むしろ素直であれなかったのは自分の方だ。兄の存在を嬉しいと、確かにいつからか思っていたはずなのに、それを言葉にしてみたことは一度もなかった。
ミルザは美しい顔でほろ苦く微笑む。
「兄……私はこれでも、優しくしたかったのだぞ。ちっとも上手く出来なかったけど……」
歯痒い後悔は、けれど今しても始まらないだろう。
少女は胸を張ると息を止めた。主君を、そして兄を脅かす相手に向けて、切っ先を構える。
「来い、妄執め」
笑みを見せる少女に、ダニエ・カーラは顔をどす黒くさせた。岩を蹴り右手を振り上げる。
次の瞬間、暗い森の中には赤い閃光が炸裂した。