幸いなるかな 188

何処まで続くとも知れない森の中、遥か背後からはしばらく魔法の炸裂音が聞こえてきていた。
ネイは段差が激しい岩と草の間を進みながら、軽い女の体を抱きなおす。
森を出るべきかどうかの判断はつかない。だが出来るだけダニエ・カーラから離れた方がいいだろう。
男は少し前から聞こえなくなった戦闘音に、同じ血を継ぐ少女の結末を想起した。
彼が出奔した時とさほど変わらない年齢で、女皇の為に死すことになった従妹。その運命を憐れと言うことは出来ない。
そもそも彼には抱くような感傷もないのだ。ただ己に出来ることをするしかない。
今この状況に踏み出したことについて後悔を覚えないかといったら分からないが、これ以上悔いを重ねることはしたくなかった。
ネイは足を止めることなく先へ先へと進んでいく。
そうして岩で出来た段差を下り始めた彼は、その揺れのせいで女の首元から銀の鎖が零れ出たことに気付いた。
細い鎖の先からは小さな杖の形をした装飾が下がっており、青紫の珠が先端に嵌めこまれている。
歩きながらその珠を一瞥したネイは、ささやかな既視感を覚えて記憶の底を探った。
ややあって一つの答に辿りつく。
「そうか、皇杖か」
儀礼の場などにおいて女皇が持つ皇杖。それに、この首飾りは似ているのだ。
勿論大きさはまったく異なるが、気づいてしまえば形には共通点が多い。
ネイは一連の衝突のせいか皹が入ってしまっている青紫色の珠を見やった。
レアリアの瞳と同じ色。それだけは普通の水晶が嵌められた皇杖と大きく異なっている。
男は、今は閉ざされたままの女の瞳の代わりにその石を見つめた。昔の記憶が甦ってくる。


「行くの?」と彼女は聞いた。
「ああ」と答えたら頷いた。
向けた背を留めることはしなかった。
一度だけ振り返った時、彼女は澄んだ目で彼のことを見ていた。

彼らはその時から、孤独になった。
全ては遠い過去のことだ。


「……馬鹿馬鹿しい」
ほんの数秒、物思いの海に沈みかけていた男は、我に返ると吐き捨てる。大きな岩を避け、捻れた木を迂回した。
―――― 後悔はない。
傷はやがて塞がる。そして新たな肉と皮膚が後を贖うのだ。
彼女の選んだ新しいディアドが、彼よりもずっと彼女を大事にしているように。
ネイは、いつも自分を叱咤してばかりいた幼馴染の婚約者を思い出す。
「変わらないものなどないのだろう……私も、お前も」
だから思い出は皆、彼にとって必要のないものだ。ネイは足下に気をつけて自然の石段を下りる。
最後の跳躍が腕の中の女に幾許かの振動を伝え、首飾りが大きく揺れた。そうしてまた走り出す彼の耳に、小さな呻き声が聞こえる。
見下ろすと気を失っていた女が眉を寄せ、微かに身じろぎをしていた。うっすらと貝に似た瞼が上がる。
「気がついたか?」
彼女を呼ぶ為の名を、今のネイは選ぶことが出来ない。
面と向かってその名前を口にすることは出来ず、また最早彼女は主君ではなかった。
名を省いての問いかけに、女はかつてディアドであった男に目を向ける。
「ネイ……?」
「転移の暴走でワーズの森に飛ばされた。今は救援待ちだ」
「……そう」
彼女は得心の声を上げると体を起こした。ネイはその体を支えて立たせてやる。
女皇はまだその目にぼんやりとした膜を残していたが、よろめくことなく自らの足で草の上に下り立った。
鎖の先の杖が揺れ、珠に入った亀裂が大きくなる。しかし彼女はそれに気づいていないのか、感情の読めぬ目で男を見上げた。
「何故戻ってきたの?」
「またそれか」
少女から投げかけられたものと同じ問いに、ネイは顔を顰める。
だがやはり、唐突な帰還の理由を尋ねられるのは仕方ないだろう。
先程と同じ答を返そうと口を開きかけたネイに、しかし女は先んじて言った。
「帰りなさい」
「……は?」
「西の大陸にいたのでしょう? そこに戻りなさい。これ以上巻き込まれる前に、早く」
口早の忠告にはあるべき抑揚がなく、まるで人形のもののようである。
唖然とするネイに、女はそこで初めて表情を見せた。悲しんでいるような惜しんでいるような眼差し。白い手が男の頬に伸ばされる。
「まだ間に合う。お前が何処か遠い場所で暮らしていることが、私にとってせめてもの慰めになる。
 あの人の血がまだこの世に残っているのだと―――― 」
「お前」
「今のディアドはもう放してやれない。あれは、誰よりも女皇の騎士だから。
 だから、お前だけでも遠くで平穏を得なさい。今ならまだ間に合うのだから」
女の下げた首飾りから、亀裂の入った石が半分砕けて落ちた。それを目で追うネイの前で小柄な体がふわりと浮き上がる。
宙に浮く美しい女。森の闇を映す昏い瞳が彼を見下ろした。
「帰りなさい」
念を押す言葉、静かな命令を残して、女はその場から消え去る。
残された男は呆然と森の木々を見上げると、ややあって思い切り顔を顰めた。



振り下ろされる斬撃は、人の頭を容易く割り砕く程の強烈なものだった。
アージェはそれを黒い長剣で受け流す。耳の横を掠めていく鋼の音に、一瞬他の何ものも聞こえなくなった。
しかし彼らの周囲はむしろ音に満ちており、騒然とした戦場の空気が血の臭いを伴って広がっている。
合流したコダリス軍とそれを追っていたケレスメンティア軍、両者の最前線で王と騎士は己の剣をかけて相対していた。
アージェの振るった剣は、シャーヒルの一閃によって大きく弾かれる。
続く攻撃。王はその外見からは想像もつかぬ速度で大剣を薙いできた。
すんでのところで剣を縦にしそれを受けたアージェは、手に走る痺れに眉を寄せる。
シャーヒルはそれを見逃さず次を振るってきた。受け流すことを許さぬ強撃を、青年は漆黒の刃で受ける。
アージェは崩れそうになる態勢を馬上で整えた。
「武器が壊れないか心配しなくていいってのはいいな」
「異能の剣とはその程度のものなのか?」
嬲るような言葉に、青年は感情を変えなかった。
苛烈な打ち合い。もう何合目になるか分からぬ攻撃の隙間を縫って、アージェは剣を振るう。
風を切る切っ先がシャーヒルの喉元を狙った。かろうじて身を仰け反らせ避けた男は、僅かに顔を強張らせる。
アージェはそれを嘲りもせず返した。
「いや、魔法結界も切り裂けるってのがある」
「……くだらん」
「そうだな」
間を置かず突いた剣。異能の剣をシャーヒルは大剣の平で叩いた。
そのまま外側へと強く払われた剣に、女皇の騎士は舌打ちする。
彼はいささか強引に黒い剣を引き戻すと、馬上で身を伏せた。頭を薙ごうとする大剣を避ける。
すばやく剣を引くシャーヒル。アージェは敵の王に冷ややかな視線を投げかけた。
「娘を駒にするにも抵抗がなかったか?」
痛烈な皮肉はそれなりの効果があったらしい。シャーヒルは不快げな顔になる。
「黙れ、小僧。女皇に仕える犬に何が分かる」
「俺は元々傭兵だった」
振り上げる黒い剣。シャーヒルはそれを受けようと大剣をかざした。
強者として数多の戦場を生み、勝ち続けてきた男。譲らぬ強靭さを持って立ち続ける王に、アージェは己の剣を振り下ろす。
二種の刃がぶつかりあう寸前、青年は頭の痛みに顔を顰めた。集中が乱れたのか剣の輪郭が揺らぐ。
シャーヒルは勝利を嗅ぎ取ってか笑みを浮かべた。
霧散しかける刃。
そしてアージェの剣は、王の大剣をすり抜け、その体を切り伏せた。



右肩から下腹まで走る深い裂傷。シャーヒルは血の溢れる己の体を信じられぬ目で見下ろした。
ゆっくりとその巨体が馬上で傾ぐ。手の中から大剣が滑り落ち、乾いた土に突き立った。濁った声が呟く。
「国が」
そこから先を聞くことは誰にも出来なかった。
王の体は一度大きく揺れると、重い音を立てて地に落ちる。見開かれた目に映る空をアージェは何の感慨もなく見下ろした。
「あんたは確かにいい王だったのかもしれない。けど、戦争を心から歓迎してるやつなんていなかったよ。
 ―――― 強い奴はいつだって、弱い人間の諦観を軽視する」
男の目はまたたかない。
アージェは左手の剣を消した。一瞬だけ靄に変え王の大剣をすり抜けさせた剣。だが、これ以上は必要ないものだろう。
彼は僅かな疲労を覚えつつ鋼の剣を抜きなおした。すらりと宙を走る刃の軌跡。それを見ていた神兵が叫ぶ。
「シャーヒルが斃れたぞ!」
「神よ!」
「野獣は死んだ! 進め!」
次々に上がる快哉と戦意を謳う声。俄然上がる士気にアージェは一息ついた。逆に混乱が広がっていくコダリス軍を見やる。
まず間違いなくここが戦の転換点だろう。
だが彼自身は戦士であって指揮官ではない。あとは他の騎士たちが上手くやるはずだ。青年は自軍の後方を思い返す。
「さてと、あとはセーロンの馬鹿か?」
「その必要はないわ」
突如耳元で聞こえた声。アージェはぎょっとして身を竦める。
女の声は彼のよく知る人間のものだ。シャーヒルと並んでこの戦争の要となる人物。主人の言葉にアージェは振り返ろうとした。
しかし鞍の後ろに腰掛けているらしい女は、それを白い手で留める。小さな足と広がる服の裾だけが視界の端に見えた。
「よくシャーヒルを討ち取ったわ。さすがね」
「陛下……」
「心配をかけてごめんなさい。もう平気だから」
女は彼の肩を叩くと、馬を返させるよう指示する。
ガイザスのところに戻るつもりなのだろう。アージェも元より主人を前線に置いておくつもりはなかった。
彼が馬首を返すと、その後ろを守るように神兵たちは前に出る。
自軍の中を逆行する間、四方から向けられる高揚の眼差しに、けれどディアド一人だけは明るい表情を見せなかった。
青年は無言のまま全軍を預かるガイザスの前へと戻る。男は驚いてその後ろに座る主君を見やった。
「陛下、よくぞお戻りになられました」
「ええ。お前もよくやったわ。コダリスの勢いは衰えている」
「シャーヒルを討ち取ったと聞きました」
騎士の功績を確認する言葉に女皇は微笑む。
「神具も壊れ、王も死んだ。目的の大半は果たしたと見ていいでしょう」
「は……」
「あとは、セーロンとの衝突は避けたいの。追撃はそろそろ切り上げて軍を南東に退かせなさい」
「それは……コダリスはまだ兵力が大分残っておりますが」
「ケランを召喚するわ。ひどく戦いたがっていたから。それより、セーロンを牽制して早く退きなさい」
鋭くなった主君の声に、ガイザスはさっと騎士の礼を取ると部下たちを呼び集める。
その光景を見ながら、アージェは背後の女の名を小声で呼んだ。
「クレメンシェトラだな?」
久しぶりに会う最古の女皇。
クレメンシェトラは騎士の背を見て、美しく微笑んだ。