幸いなるかな 189

王を失ったコダリス軍は混乱の只中に突き落とされながらも、何とか最低限の体裁を保って退いていった。
そのまま戦場を離れ、西にある自国の砦へと戻るつもりなのだろう。
それを許せば、コダリスは再び牙を剥いて戻って来ることになるのかもしれなかったが、ケレスメンティアは追撃をかけなかった。
彼らは女皇の命に従い、コダリスとは反対側に退いていく。
お互いを食らい合っていた蛇が、するするとほどけていくような光景。
その一方であるケレスメンティア後尾と牽制を繰り広げていたセーロンは、僅かに皇国を追う姿勢も見せたが、四千騎しかいない状態で単独ケレスメンティアと戦うことは出来ない。
結果として追撃を中断したセーロンと他二国の軍は距離をあけることになり、戦闘はひとまずの沈静化に向かうことになった。
クレメンシェトラは一通りの報告を受けると笑って命を下す。
「セーロンもこれ以上は何も出来ないでしょう。放っておいても構わないわ。
 私たちも軍を一部だけ駐留させて砦に戻ります。神の剣としての役目は充分に果たしたのだから」
「御意」
ガイザスは安全な場所まで軍を退かせてからの帰還を手配する。同時に主君の命を受けてケラン召喚についても魔法士たちに命じた。
女皇の為に馬が用意され彼女がそちらに移ると、アージェはクレメンシェトラの隣に並ぶ。
何を言うべきか、言っていいのか分からない空気。
青年はだが不興を買うことを承知で問うた。
「……ミルザとネイはどうなったかご存じですか」
「分からない。魔法で追跡をさせるわ。発見出来れば救助に行けるから」
伏せられた長い白金の睫毛。紫の瞳には強い悔恨が窺えた。
アージェは半ば予想していた答に沈黙する。同じ血を分けた少女が今頃どうしているのか、早く知りたいという思いがあった。
だが同時に、ミルザであれば容易く諦めてしまうことはないだろうとも思う。
彼女はきっと状況に屈することなく帰還してくるに違いない。そう自分に言い聞かせてアージェは馬を進めた。
砂混じりの風が吹く平原。ややあって彼は重い口を開く。
「レアリアは、どうしていますか」
休眠に導いたはずのクレメンシェトラが目覚めた―――― ということはもう一つの人格であるレアリアは今どうなっているのだろう。
彼女はクレメンシェトラを欺いていたのだ。
レアリアの裏切りは何処まで把握されているのか、分からないことだらけのアージェには、しかしそれを聞かないという選択肢はなかった。
流れる沈黙に、もしかして答えてはもらえないのだろうかと彼が懸念を抱きかけた時、女は胸元から細い鎖を引き出す。
彼も見たことがあるそれは、杖状の細工に青紫色の珠を嵌め込んだ首飾りだ。しかし今はその珠が半分、砕けてなくなっていた。
眉を寄せる青年にクレメンシェトラは嘆息する。
「レアリアの皇杖は壊れた。あれはもう出てこられない。
 ……元より、あれはダニエ・カーラと似た存在であったのだ」



儀礼時に女皇が携える皇杖は元々複製品であり、本物はそれぞれの女皇が生まれた際に一つずつ作られるのだと、レアリアに聞いたことがある。
だがその時は、本物の皇杖がどのようなものなのか見せてはもらわなかった。ただ「複製よりずっと小さい」と聞いただけなのだ。
だから最近レアリアが首から下げていたそれこそが真の皇杖であると、彼は思ってもみなかった。
アージェは「レアリアが出てこられない」とはどういうことか、皇杖の意味と、ダニエ・カーラとの類似について問い質そうとする。
しかし口を開いた彼を、クレメンシェトラは手で留めた。
「後で話そう」
「待て。レアは」
「きちんと話してやる。あれがどのような罪を犯そうとしたのか―― 」
クレメンシェトラは小さくかぶりを振る。
溜息をついて馬を進める彼女の背を、アージェは愕然として見やった。自らの声が不審も顕に呟く。
「レアの罪?」
白金の髪はたちまち人馬の向こうに見えなくなった。
砂を踏む馬蹄のざりざりとした音。緊張にさらされていた口の中が乾いて引き攣る。
戦闘後の高揚と気だるさを引き摺って退いていく軍の只中で、もっとも功績を挙げた一人であるアージェは、不可解な焦燥に一人取り残されてしまったかのような気分を味わっていた。最後にかけられた主人の言葉を思い出す。
『行って。そして戻ってきて』
神具は壊した。王も斃した。
だが彼は、何処へ戻ればいいというのだろう。
―――― 伸ばした手が届かない。
もう幾度目になるのか分からぬその絶望の予感を味わいながら、アージェは頭痛の波が大きくなるのを感じて、こめかみに手を当てた。






「大体勝ったとさ」
ケレスメンティア城にある女皇の執務室は、今は主の不在により空となっている。
その代わり控えの間には居残りを命じられたエヴェンがいて、戦場からの連絡を受け取っていた。
書類を手に訪ねてきたベルラへそう告げた男は、行儀も悪く椅子に腰掛けたまま足を机に乗せている。
女はその足先に不愉快そうな視線を注いだ。
「大体とはどういうことです」
「そのままの意味だ。コダリスは兵の約半数を失って退いた。おまけに王も死んでる。
 どっちかっていうと後者の方が痛手なのかもな。こっちの被害は四千前後らしい」
「そうですか」
相槌を打つ女は何物にも興味がなさそうである。エヴェンはその表情を一瞥し、もう一つの情報を付け足した。
「あとネイが戦場に現れたらしい」
「ネイが?」
ベルラは青い目を瞠る。それはこの部屋に入ってきてから彼女が初めて見せた揺れで、微かな期待が感じられた。
しかし女はそれ以上表情を動かすことはしない。何処か突き放すように溜息をつく。
「それで? 敵としてですか、それとも今更味方として?」
「ミルザを助けたらしい。その後の消息は不明だ」
「なら逃げたんですね」
「さぁな。でもお前、そろそろそういうのはやめろよ。陛下がお困りになる」
「…………」
出奔したディアドに対する宮廷内の意見は様々だが、ベルラは真実を知っている人間たちの間ではもっともネイに辛辣だった。
甘えを許さず、周囲からの陰口にも負けず、ただひたすらネイに前を向かせようとしていた少女。
彼女は自分なりに婚約者であった少年の支えになろうとしていたのだろう。だがネイにとってそれは結局圧力の一つにしかならなかった。
当時は外野からすれ違う二人を見ていたエヴェンは、冷めた視線を女に送る。
「お前ももうガキじゃないだろ。陛下に知れるところでみっともない発言するな。
 ネイとお前はどう足掻いても性格的に合わない。いい加減それを認めろ。むきになるな」
「……随分と言ってくれますね」
「この後に及んでくだらないこと言ってるからだろ」
昔からの知己の厳しい言葉にベルラは沈黙した。女皇と同じ色の髪が微かに震える。
しかしエヴェンはその様子を無視して、さっさと話を切り替えた。
「で、その書類は何なんだ? 処理が必要なものか?」
事務的な確認は女の意識を現在へ引き戻す力を持っていた。
ベルラは俯きかけていた顔を上げると、きっぱりとした口調で答える。
「いえ、これが何であるのか、実はわたしもまだ存じていないのです」
「何であるのか? 何だそりゃ」
「そのままの意味です」
ベルラは抱えている書類の中から、一通の封書を取り出す。
まだ開けられていないそれは、鳥を模した蝋印が押されていた。
翼を広げて飛ぶ鳥の意匠はレアリアが子供の頃よく使っていたもので、そのことを二人ともが知っている。
おそらくは「女皇」としては公式に出来ない書簡。だが、彼女本人によるものであることを示しているのだろう。
エヴェンは何も書かれていない裏表を確認した。
「開けてもいいのか?」
「ええ。出征前に陛下が仰ったのです。『戦争の決着がついた時、私から連絡が入らなければ開けて中の通りにしなさい』と」
「連絡が入らなければ?」
それは実に奇妙な命令だ。まるで自分が死んだ時のことを想定しているようではないか。
エヴェンは前例のない大規模出兵を行った主君が一体何を考えているのか、一抹の懸念を抱いた。
確かに生きているにもかかわらず書簡について連絡を入れてこない女皇。彼女の真意は何処にあるのか。
ともかく書簡を開けてみなければそれは分からないだろう。ナイフを手に取る男に、ベルラは付け加える。
「わたしの推測なのですが、城で軟禁している学者が関係しているのではないかと」
「は? 軟禁!? 初耳だぞ」
「軟禁しているのです。出征の前日から」
「何でだ? そいつ何をやったんだ」
「よく分かりません。陛下のご命令でして。
 ただ他国の者でケレスメンティア研究を専門にしているらしく、何かその研究絡みで問題があったのではないでしょうか」
「問題?」
信仰か女皇周辺か、繊細な問題にでも抵触したのだろうか。だとしても城に軟禁などとは今まで聞いたこともない。
過去信仰問題で国外追放された者はいるが、処刑や幽閉は余程のことがなければ行われないことなのだ。
エヴェンは手に取ったナイフと封書を訝しげな目で見下ろした。銀の刃に己の顔が映る。
「陛下にご確認を取ってからの方がいいか?」
「それは絶対駄目だと、釘を刺されました」
「……意味分からん」
思わずエヴェンはぼやいたが、これ以上は中を確認してみなければ話も進まないだろう。
男は意を決すると封の中にナイフを差し込んだ。慎重に丁寧にそれを開封する。
中から取り出した一枚の書類。女皇自身の筆跡で書かれたそれを、二人は同時に覗き込んだ。その内容を目で追い、そして絶句する。
「……何だこれは」
ようやく一言だけを呟いた男。ベルラはただただ嘆息した。
そして彼らはお互いの顔を見合わせると、本当にこの命令を実行していいのか、動揺の視線を交わしたのである。