幸いなるかな 190

ケレスメンティアの西部砦へと帰還していく軍は、来た時と同じく整然と転移門の中へ消えていった。
五千騎を残して戦場跡の検分と負傷者の救出、行方不明者の捜索を続けるという話に、アージェは自分もそちらに加わりたいと申し出る。
だがクレメンシェトラはディアドの要望を却下した。
敵兵を殺しすぎた異能者は、多くの怨嗟と畏怖をその背に負っている。
彼を敵地に残しておけばどのような報復を呼び込むか分からないのだ。
そう窘めて共に戻るよう命ずる女皇に、アージェは割り切れないものを抱きつつも結局は従った。
多くの消化できないものが生みだされた戦闘。その残り火はこれからも燻り続けていくのだろう。
今までの戦争がそうして禍根を残して次を生んだように、人を変え地を変え絶えることなく輪は継がれていくのだ。
だが、劫火の種となりかけていたシャーヒルは、確かに神の剣によってその命を絶たれた。



砦に開かれていた転移門がひとまず閉じられた時、日は既に暮れて辺りは暗くなっていた。
ひとまず血を落として着替えだけをしたアージェは、食事も取らずに主人のもとへと向かう。
「後で詳しい話をする」と言っていたクレメンシェトラは、南西方向を臨む砦の外周回廊に立って、広がる夜の森を眺めていた。
かがり火が白金の髪を赤く染めている。冷たい夜の風。アージェは薄着のままの女に顔を顰めると、自らの上着を羽織らせた。
クレメンシェトラは笑って上着の前をかき寄せると、人払いを命じる。
護衛についていた魔法士や騎士たちがいなくなると、彼女はアージェに向き直った。
「何から聞きたい?」
「何からでも。全てを」
「だがお前はレアリアのことが気にかかっているのだろう?」
女の指摘は半分は的を射ている。答えない騎士にクレメンシェトラは微苦笑した。彼に背を向け、黒い森を見つめる。
国境まで広がる木々は夜の中にあってまるで海のように沈黙していた。風に揺れるその先端がささやかな波を生む。
その先は昼にいた戦場跡に繋がっているのだ。アージェは馬上で剣を取っていた数時間前のことが、随分過去のことのように思えて軽い虚脱感を味わった。女は紫の目でディアドを見上げる。
「レアリアはお前に何を望んだ?」
「質問があなたの答ですか」
「いや……そうだな、すまない。まさかこのようなことになるとは思っていなかった」
女が見せる微笑は全て自嘲なのだろうか。アージェはそのようなことを考えながら、かぶりを振る。
「彼女は、俺に詳しいことを教えませんでした」
「そうか……。だがお前はそれでもあれに従ったのだろう? レアリアはお前を利用した」
「違う。俺の意思です」
素っ気無く言い捨てるとクレメンシェトラは小首を傾ぐ。
レアリアと同じ顔、同じ体を持つ女は、けれど存在の芯からして彼女とは異なっていた。
アージェはずっと抱いている落ち着かなさが増大していくのを感じつつ、話の続きを待つ。
彼女はしかしそれを分かっているだろうに、中々次の言葉を口にしなかった。赤い火に照らされた顔の左半分が淋しげに笑う。
言葉なき時。クレメンシェトラの横顔は、ひどく疲れているように見えた。紫の瞳が森の海を睥睨する。
「レアリアは、女皇としての役目を放棄しようとしていた」
「女皇としての役目?」
「ああ。それだけでなく国そのものの在り方をも歪めようとしたのだ。神の意思に背いてな」
背から吹き付ける風が、アージェの背をじわりと冷やしめる。
城都より北にある岩山から吹き下りてくる風は、いつでも鋭く冷たい。それは人に、その営みを越えた厳しさを思い出させるものだった。
乾ききっていない青年の髪先から小さな水滴が落ちる。
アージェは緊張を覚えつつクレメンシェトラを見つめた。胸中に先程から嫌な予感が立ち込めている。
「神の意思とは何ですか。女皇やケレスメンティアはどういう役目を与えられているんです」
「それはお前も知っているだろう。大陸の平定だ。今回のように大きな火種になりそうな人間を叩いたりな」
「ケランを呼びましたね」
「うん? ああ。コダリスもシャーヒルを失ったとは言え、まだまだ兵力が残っている。ちょうどよい相手だろう」
ケラン国王はシャーヒルと戦いたいのだと、レアリアに移動用の転移座標を伝えてあったらしい。
眠っていたはずのクレメンシェトラは、どうやってかレアリアの記憶に干渉したのだろう。撤退する自国と入れ違いにケランを戦場に呼び寄せたのだ。アージェの胸はちりちりとざわめく。
「だとしても、それをする必要はあったんですか?  ケランがコダリス内に入れば、なし崩しに他の両陣営国も動くことになるかもしれない」
「まぁ、遅かれ早かれそうなるだろうな。現にエフェミがコダリスの救援に向かったとの情報が入っている。
 ただ今はどちらも大体勢力が拮抗しているからな……。
 イクレムやセーロンが余計な手を入れてこないのなら、しばらく様子を見るしかないだろう」
「様子を見る? その拮抗を作り出したのはあなただ」
ユーレンから聞いた話が甦る。
過去幾度もの大戦において、戦闘を長引かせてきたケレスメンティア。
それをさせないと言ったのはレアリアだ。
ならば今のこの状況は、そしてクレメンシェトラは――――
青年の胃の中で苦々しく重いものが揺れ動く。アージェは女の背に向かって問うた。
「あなたは意図的に戦争を長引かせている。だから自軍を退かせケランを呼んだ。
 ……それは、一体何故ですか」
美しい女。代々よく似通っているという女皇の顔立ち。
その美貌を人形のようだと称されるのはレアリアの方だ。むしろアージェが知る限り、クレメンシェトラの方が表情に人間味があった。
だがこの時、彼はその印象がまったく逆であったことに気付いていた。
クレメンシェトラは赤紫の瞳を大きく瞠って振り返る。
「何故? 何故そのようなことを尋ねるのか分からない。
 これは神の定めしことだ。人間の生が有限である以上、人は闘争によってその意思を示さねばならない。
 そうして弛まずに戦い続けることが、この大陸にて生まれ死す人間たちの使命であろう?
 背くことは許されない。―――― その為に、私は人間を監視し続けている」



目を閉じる。
激しくなる頭痛にアージェは顔を顰めた。空のはずの腹の底から何かがせり上がってくる。
それが何という感情に由来するのか、言葉にすることは出来ない。もっとも近いものはと言えば原初的な怒りであろう。
彼は震えそうになる手を握った。
「レアは、それを知ってたんだな」
「女皇であれば皆知っている。大戦の均衡を取ることは私たちの務めだ」
クレメンシェトラの声音には、嘲るところも驕るところもまったく聞き取れない。
ただそれを当然と思い疑わない盲信だけが表れていた。子供のような素直さ、神の人形の従順に青年は激しい嫌悪感を抱く。
いつの間にかやんでいる風。
アージェは意を決すると両眼を開けた。目の前の女皇と、その先に広がる世界を視界に入れる。
―――― 分かっていたことだ。
だが、あえて見ようとはしなかった。思えば彼自身も与えられた虚構を良しとしていたのだろう。
しかしそれはありうることではないのだ。澱が殺された人間の昏い情念と結びついているというなら、戦いにおいてもそれが生じないはずがない。
闘争を肯定する神の力が、それらを嗅ぎ取れぬよう抑圧でもしていない限り。
剥がれ落ちる欺瞞。アージェは研がれた意識で改めて大陸の真の姿を見る。
晴れた夜空。黒い森。
眼前に広がる景色は何処も、見渡す限り黒い靄に厚く覆われていた。



「結局はそういうことかよ……」
どれを何から言えばいいのか。
だが分かっていることと言えば、目の前の女に彼は従うことが出来ないということだった。
アージェは裾から腰までに黒い靄をまとわりつかせた女皇を睨む。彼女は不思議そうに首を傾げた。
「クレメンシェトラ、お前はそれがおかしいと思わないのか?」
「おかしい? 何がおかしい? 私も人間も、みな神によって生かされているだけだ。
 この大陸は神の庭で、そこに住む私たちがその意に従って生きるのは当然のことだろう。何を不思議に思う?」
「全部だ。お前の言っていることはおかしい」
間髪置かず言い返すとクレメンシェトラは怪訝そうな顔で押し黙る。
まったく違う生き物と話している絶望。底のないうろに叫び続けるような気持ちの悪さが青年を襲った。
アージェは左手で宙を漂う靄を払う。
「神代からずっとそうだったのか? 選出者たちはそれを知っていた?」
「何を急に。当然だろう。皆それに従った。そもそも国が作られたのも代理統治とそれに伴う闘争の為だ」
「阿呆か……誰も何も言わなかったのかよ」
遥か昔のこと、まだ神がいた頃に直接その意を得て、受け入れた者たち。
アージェは神に従い、お互い争う為の神具を賜ったという彼らに唾棄したい衝動を覚えた。更に吐き捨てようとして、一枚の壁画を思い出す。
レアリアと二人で入った遺跡にて見た壁画。ディテル神に従う選出者たちの画の中に、確か一人だけ人の輪から外れていた男がいたのだ。
それが誰であるのか、考えられる答は一つだ。
名前を消された選出者。呪われた男。自らの祖である人間の名を、アージェは口にする。
「カルディアスは神に反したのか」
―――― だから呪われたのか、と。
青年が忌々しくも続けかけた時、しかしクレメンシェトラは瞠目した。赤紫の瞳が限界まで見開かれる。震える声が逆に問うた。
「カルド、が?」
「何だよ。お前なら知ってるんだろ? 何故カルディアスが選出者から外されたのか」
知っているはずだ。他に知る者もいない。
クレメンシェトラは神代から生きている唯一の存在なのだから。
だがそうであるはずの女は、不意にそこで固まってしまうと、いつかのようにそれきり何も言わなくなった。
白皙の貌から表情が消え、壊れた人形の如き静寂が面に湛えられる。
糸が切られたかのような急激な変化。アージェは眉を寄せて女を覗き込んだ。
「クレメンシェトラ?」
女は己の名に反応したのか彼に視線を向ける。
しかし瞳の奥にあるものはただの虚ろであり、それを見たアージェは瞬間ぞっと這い上がる戦慄を抑えられなかったのだ。