幸いなるかな 191

覗き込んだクレメンシェトラの顔は虚ろだった。まるで感情を剥ぎ取られてしまったかのような貌。
アージェはそのことに深淵と相対するような気分の悪さを覚えたが、表面上は平静を保って呼びかける。
「クレメンシェトラ。どうかしたのか」
彼を見る双眸。そこに意思の光が戻ってきたのは唐突だった。
女皇は何度か瞬きすると、形のよい眉を寄せる。
「何だ? どうかしたのか」
「いやだから俺が聞いてるんだって」
思わず呆れて返しながら、しかしアージェは一つの推測を抱いていた。ゆっくりと注意して、もう一度聞きなおす。
「カルディアスのことは知っているよな?」
「何だ一体。知っているに決まっているだろう」
「じゃあ何でそいつが選出者から外されたのか知ってるか?」
先程と同じ問いを口にすると、クレメンシェトラは訝しげな顔になった。
「カルドは少し変わっていたからな。礼儀や従順さが足りないと看做されたのだろう」
「それを言うならダニエ・カーラだって充分問題だろ。じゃあ何でカルディアスは呪いを受けたんだ?
 この異能、これは神からの呪いなんだろう?」
手袋を取った左手をアージェが見せると、女皇は大きく目を見開く。
その表情に、彼はまたクレメンシェトラが「止まって」しまうのではないかと息を飲んだ。
しかし彼女は呆然とした表情のまま、ややあって小さくかぶりを振る。
「いや……カルドは、カルディアスは……神に……」
もどかしげな言葉は、夢の中の霧を手探りする様によく似ていた。
小さな手でこめかみを押さえ記憶を手繰ろうとする女。その姿を見たアージェは半ば確信する。我知らず溜息をついた。
「クレメンシェトラ。お前はひょっとして記憶の操作を受けてるんじゃないか?」
「……記憶の操作?」
「思い出せないはずがないだろ。カルディアスはお前の騎士だったんだ。他の誰でもないお前のディアドだ。
 そいつが何で選出者から外されて異能を得たのか。お前は知ってるはずだろ。
 思い出せないとしたら、そこには何か原因があるんだよ」


剥ぎ取られてしまった。
裏切り者の失敗作。
だから彼の言葉も意志も、失われてしまった。
もう思い出せない。取り戻すことは出来ない。
―――― 残されたものはただ感情だけだ。


クレメンシェトラは色の移ろう瞳で目の前の青年を凝視する。
厳しい表情で彼女を見やるその姿は、僅かながらまったく別の男の姿と重なって見えた。
最古の騎士であった男。彼のことをディアドと、そう呼んだのはクレメンシェトラだ。
その意味するところはけれど本当は「騎士」ではなかった。神によって意味を抜き取られてしまった単語。彼は――
「……分からない」
震える唇でようやく口に出来たのはそれだけだ。
クレメンシェトラは白い両手で顔を覆う。
何も見えない。何も思い出せない。
だが彼女はその時自身の奥に、一つの扉があることを初めて感じ取った。



顔を覆ったまま黙り込んでしまったクレメンシェトラ。その姿にアージェは警戒を含む視線を投げかけていた。
記憶の操作が真実であれば、そこに活路があるのかもしれない。
だが淡い期待であることには変わりがない上、レアリアがどのような状態になっているかも定かではないのだ。
アージェは先程の問いは早すぎたかと危ぶむ。これからどう切り込んでいけばいいか、考えたその時、クレメンシェトラは両手を外し顔を上げた。
冷厳とした表情。刺すような威圧が小柄な女からゆっくりと立ち昇る。
「お前の言うことは分からない。それで諫言を弄したつもりか?」
「いやちゃんと考えてみろよ。どう考えてもおかしいだろ。わざわざ人間を争わせ続けるなんて、たちの悪い人形遊びだ」
そこかしこに充満する澱。
気を抜けば空気と共に吸い込んでしまいそうなそれらを、アージェは煩わしげに払った。
一方クレメンシェトラはそれが見えていないのか、皮肉げな表情で彼を睨む。
「レアリアに何かを吹き込まれたか?」
「違う。ってかレアをどうした? お前じゃ話にならない」
「レアリアを出すことはもう出来ない」
「何?」
不吉な宣告にアージェの纏う空気は一段階険しくなった。クレメンシェトラは唇の片端を上げる。
「皇杖はレアリアの魔力を封じる鍵だった。それが壊れた以上あれを表には出せん。
 あれはダニエ・カーラよりもずっと長い時間『庭園』で過ごして来たのだからな」
「庭園で?」
レアリアは魔法を使えない。アージェはそう思っていたし、それは確かに事実であった。
だがその話が本当であるなら、彼女はダニエ・カーラ以上の魔法士となれる可能性を持っていたのだ。
魔法士となる者たちが誕生以前に訪れるという場。長くそこにいたという彼女の話に、青年は少なからず驚く。
クレメンシェトラは肩で息をついた。
「皇杖が壊れたからこそ私も異変に気付くことが出来たのだがな。
 女皇は皆そうだ。庭園で過ごし魂を別位階に慣れさせる。でなければ私を擁し続けることが出来ぬからな。
 だがこうなった今、ダニエ・カーラ以上の魔法士を世に放つことは出来ない。それが女皇であり背信者であるなら尚更だ。
 あれは一生この体の底に繋いでおく。お前もそう承知しておくのだな」
「な……」
唐突な判決。アージェは驚きから冷めると女を睨んだ。
「出せよ」
「断る」
「出せ! レアリアに聞けよ! 自分がどれだけおかしなことをしてるのか、よく考えてみろ!」
「おかしいのはお前の方だ。何もせずただ生きて死ぬだけの一生で何を残せる?
 その精神は何の為のものだ。植物にでもなったつもりか?」
「カルディアスもそう言ってたのか、よく思い出してみろ!」
アージェは言いながら隠し持っていた短剣を抜く。
もしもの場合を想定して携えてきた神具。その切っ先を警告としてクレメンシェトラに突きつけようとしたアージェは、しかし次の瞬間、己の骨が砕ける音を聞いた。反射的に上がりかけた声を、何とか喉元で留める。
凄まじい激痛に襲われる左腕。指の間から短剣が滑り落ちた。
硬い音を立てて石畳を滑る剣を、女の手が拾い上げる。
不可視の力でディアドの腕を折ったクレメンシェトラは、薄い微笑みを湛え漆黒の刃を見つめた。
「この短剣……戻ってきていたのか」
「クレメンシェトラ……」
「おかしいと思ったのだ。レアリアを私から切り離し同格にまで押し上げるなど、人間に可能なことではない。
 ネイが戻ってきていることについてもそうだ。あれは西大陸に渡ったと聞いていたからな。
 ―――― 『彼女』が干渉してきているのか。まったく、アイテアの娘は気紛れで怖い」
クレメンシェトラはそう言うと短剣を懐にしまう。苦痛を堪え左手を押さえるアージェを微笑を浮かべて眺めた。
「悲鳴を上げなかったのは流石だな。だが改めて確認しておこう。
 レアリアは謀反者で、もうお前に返してやることは出来ない。
 お前もこれからは分を弁え役目を果たして生きるのだ。そうである限り、ある程度の自由は保障してやる」
「レアを返せ」
「右手も折ってやろうか?」
脅しの言葉とアージェが石畳を蹴ったのは同時だった。
彼は一瞬で女に肉薄するとその両足を払う。驚愕の顔で後ろに転倒する女の襟元を右手で掴んだ。細い体を引き寄せながら、彼女の喉元を締め上げる。
「レアを出せ。クレメンシェトラ」
「この手の実力行使は効果がないと学ばなかったのか?」
冷ややかな声。次の瞬間アージェは激しい頭痛に襲われた。
脳の中に直接楔を打ち込まれたかのような衝撃。腕の激痛さえ瞬間意識から消え失せる。
目の前が真っ白になり、息さえも出来なくなった。自分が立っているのかいないのかさえ分からなくなる。
緩んだ手の中から脱したクレメンシェトラは、憐れむような目で硬直した青年を見やった。
「本当はこういう真似はしたくないのだがな。お前が素直でないのが悪いのだぞ。
 肯定を返せばそれだけで楽になるというのに……」
女は優美な仕草で手を差し伸べると、ディアドの頬に触れた。美しい笑みを緑の双眸に向ける。
「レアリアの精神を返してやれぬ代わりに、この体はくれてやろう。
 もうそろそろ私は次の体に移らねばならぬ。子を産んだ後は眠ったままになるだろうが、それくらいの罰で済むことを感謝しろ」
「ふざ……けるな……」
痛みは既に彼の全身で鳴り響いていた。もはや何処が痛むのかも分からない現状。だがアージェは僅かな可能性にかけて自由になる意識を集中する。充満する澱を縄と成して、クレメンシェトラを捕らえようとした。黒い靄が女の体に絡みつく。
しかし女は手の一振りでそれを打ち消した。
不可視の衝撃。アージェの体はその場から弾き飛ばされ、背後の石壁に叩きつけられる。
「……っ、……ぐ」
「抗うな。余計な怪我をするだけだぞ」
体の何処も自由にならない。青年はそのまま石畳の上へと崩れ落ちた。
女の軽い足音が近づいてくる。伏している彼の視界に、白金の髪の一房が垂らされた。
身を屈めたクレメンシェトラは、その手で彼の顎を掴む。
「数日猶予をやる。その間によくよく考えておくのだな。お前には私に従うしか道はない。
 ―――― それが嫌だというなら、もう少し従順になるよう人格を破壊するまでだ」
彼を覗き込んでくる赤紫の双眸は何処までも虚ろだ。
アージェはその瞳に深淵の如き不理解を見て、そして意識を手放した。






暗く狭い牢獄の中は冷えた空気が充満していた。
頑丈な鉄格子越しに小さな蝋燭の明かりが忍び込んでくる。
湿った石床の上、腕の痛みで目を覚ました青年は、しばらく伏したままの姿勢で辺りを窺った。近くに人の気配が感じ取れないと分かるとようやく体を起こす。
「いてえ……やってくれたな」
腕の怪我は治癒を施されていないらしい。少し動かすだけで激痛が走る左手を、アージェは顔を歪めて見やった。
それだけではなく彼の左足首には鎖がつけられており、それは牢獄の角に繋がっている。
何処から見ても罪人の扱い。アージェは現状を把握すると歯軋りした。腕の痛みから意識を逸らしつつ、足首の枷を外そうと試みる。
しかし彼の左手は怪我のせいだけではなく、辺りに漂う澱を操作することがまったく出来なくなっていた。
訝しく思ったアージェは、左手の掌に赤い紋章が焼き付けられていることに気付く。
円の中に複雑な紋様が描かれたそれは、痣でも焼印でもないようだった。強いて言うならば魔法具の紋様に近い。
「何だこれ。クレメンシェトラの仕業か?」
よくは分からないが、どうやらこの紋章によって異能が封じられてしまっているらしい。
アージェは地下にあると思われる牢獄を見回した。苛立ちを含んで格子の外を睨む。
「阿呆か……ふざけるなよ」
狂気を遂行しているとも言えるクレメンシェトラ。
その女の手によって主人と自由を奪われてしまった青年は、けれど従順な人形になる気はまだ微塵もなかったのである。