天高く謳う 192

男は「否」と言った。

神間には驚愕が満ちていた。
それぞれ神具を受け取った者たちが、愕然とした表情で最後の一人を見やる。
そこには彼の正気を疑う意図も充分にあっただろう。だが、カルディアスは己の発言を訂正しなかった。彼ははっきりともう一度同じことを口にする。
「闘争によってのみ人の意志が計れるわけではない。人の意志は、いつでも何処にでも存在する。
 私はそれらを尊いと思うからこそ、無闇に刈り取ることに荷担は出来ない」
「カルド!」
選出者の中から不安げな声が上がった。彼は苦笑し、青ざめたダニエ・カーラに向かって手を振る。
緊迫した空気。男はまっすぐに壇上の神を見上げた。顔を隠したディテルダは強い視線にも動きを見せない。神は傍らに控えていたクレメンシェトラを一瞥した。彼女は僅かに目を瞠ってカルディアスを見ており、神からの視線に気づかない。ディテルダは頷く。
「ならば汝はその意を見せてみよ。汝で叶わぬならその子を、足りなければ更にその子供を。
 我に異を唱えたことに意味があったと、汝の全力をもって示してみよ」
「分かった」
「汝にはそのための印を授ける。―――― 受け入れよ。これは、汝の尊ぶ人の情念だ」
途端、神間の床に黒い靄が溢れる。
騒然となる空気。選出者たちが顔を見合わせた。
だがカルディアスは動揺の欠片も見せずに、ディテルダに向かって手を伸ばす。
「受諾しよう」
最古の離反と契約。
そして男は呪われた。






夢は、覚める瞬間に多くを扉の向こうへ持ち去ってしまう。
寝台の上で目を覚ましたクレメンシェトラは、自分が直前まで何の夢を見ていたかほとんど思い出せなかった。ただ靄のような断片が残るばかりである。
「カルド……?」
彼の夢を見ていたような気がした。とても懐かしい夢。だがそれは懐かしいという感情以外を彼女にもたらさない。
クレメンシェトラはしばらく断片を反芻しぼんやりしていたが、我に返ると寝台から下りた。乱れた髪を後ろに流す。
今いる部屋は城の女皇の寝室ではない。砦の中にある彼女の為の部屋だ。
彼女はコダリスとの衝突の日からそのまま、この砦に滞在し続けていた。
それは一つには、ケレスメンティアも加わった戦闘から一週間、まだ衝突を続けているケランら同盟とコダリス側数国の情勢を監視する為であり、もう一つには首を縦に振らないディアドを投獄し続けている為である。
前者は過去の大戦でも度々為してきたことだ。ケレスメンティアはこうして戦況を把握し、どちらかが劣勢になりすぎればそちらを支える。そうして闘争は続けられ、人の意志は大陸を覆うのだ。
―――― どちらかと言えば問題は後者であろう。
いつも女皇の傍にいるはずのディアド。彼が砦の牢獄に入れられていると知る者は極少数だ。
他の者たちは女皇の騎士の不在を訝しく思いながらも、今が戦争中とあって何らかの任務についていると考えている。
それはしかし、砦に駐留している間だからこそ通用することだろう。城に戻りいつまでもアージェの姿が見えなければ、遅かれ早かれ事実を明らかにせねばならなくなる。またその結果彼を表に出すようなことになれば、余計なことを言い出しかねない。
あまり時間の猶予はないのだ。にもかかわらず一向に折れようとしないディアドに、クレメンシェトラは頭を痛めていた。
「まったく強情な……」
出来るなら、人格を破壊するような真似をしたくない。
レアリアは許すことの出来ない背信者だが、アージェは何も知らず彼女に忠誠を誓っていただけなのだ。
信仰を持たない彼にはケレスメンティアの役目を理解することは中々難しいだろうが、クレメンシェトラはそれを罪だとは思っていなかった。ただこれから先、従いさえすればそれでいい。
言うことをきかぬ騎士を多少痛めつけ投獄してから七日。
腕の怪我のこともあり、彼の体力も限界に近いだろう。そろそろ信念が揺るぎ始める頃合いかもしれない。
クレメンシェトラは午前中の執務を終えてから、彼の様子を見に行こうと決めた。
部屋に入ってきた女官たちが、主君の身支度を整えようと用意し始める。
女皇は沐浴する為に浴室へと向かいながら、だが不意に足を止めた。突然止まってしまった彼女を女官は怪訝そうに見やる。
「陛下? いかがなさいました?」
「いや……何でもない」
―――― 記憶の操作をされている、と青年は言った。
それは事実か否か。考えようとしてもある一定以上は思考が進まない。まるで見えない扉がそこにあるかのようだ。
クレメンシェトラはかぶりを振って考えることをやめる。
彼女は足下に絡みつく澱に気づくと、ふっと息を吐きそれを打ち消した。



窓のない地下牢においては時間の経過が曖昧だ。
既に痛みにも慣れきって半ば体は麻痺している。アージェは冷たい石床に仰向けになって、暗い天井を見上げた。先程から重い眠りが定期的に彼の意識を引きずろうとしてくる。
投獄された最初の一日二日は熱に悩まされつつも脱出の手段を色々探ってみたが、どれも実現は出来なかった。食事は格子の間から差し入れられるだけであり、それを持ってくる看守は彼の話に耳を貸さない。ただ定期的にクレメンシェトラが翻意を促しにくるだけだ。
レアリアを罪人と認め、自分に従うよう要求してくる最古の女皇。彼女の要請を勿論アージェは拒否し続けている。不毛な根比べは彼の体力を日に日に削っていった。
「まったく……どうなってんだよ」
彼の不在は地上ではどのような扱いになっているのだろう。普通であれば不審に思われていそうだが、ケレスメンティアの人間全てが神徒であることを考えると、彼に味方はいないのかもしれない。アージェは忌々しさに石の天井を睨んだ。
―――― 現状をどう打開するか。
今は彼もレアリアも牢に繋がれている。彼は肉体を、レアリアは精神を。
クレメンシェトラは真実を知った今、自分からレアリアを解放することはないだろう。アージェは自分がここを脱して主人を救うことが最短だと思っていた。だが神具のない今、どうやってクレメンシェトラに対抗すればいいのか。
「そう長くは持たないはずなんだよな。クレメンシェトラは生身を動かすのに力を使う」
ならば再び休眠時期まで待てばいいのだろうか。しかしその日が来るより、彼女が実力行使に出る方が早い気がする。
アージェは早い段階から気づいていたが、出来れば取りたくない手段を思い浮かべた。
「赤子を殺すってちょっとな……レアの体に障りそうだし」
クレメンシェトラの要求を飲むと見せかけて、彼女をレアリアの体から排そうという手段。
しかし出産をさせてしまってはレアリアの体が弱ってしまう。アージェは傭兵時代、腹の中にいる胎児だけを殺せるという薬の存在も知ったが、出来るなら主人をそのような目にはあわせたくなかった。
深刻な疲労のせいか、ちっとも考えがまとまらない。アージェは目を閉じて思考を中断する。
「ま、次にクレメンシェトラが来た時にでも適当に」
投げやりな言葉は、しかしそうとしか言いようのないものだ。
青年はしんしんと響く痛みを床の冷たさで紛らわせて、束の間の眠りについた。

牢の中に人が入ってくる気配を感じたのはそれから二時間後のことだ。アージェは薄目を開けて様子を探る。
近づいてくる軽い足音。覚えのあるそれはクレメンシェトラのものだろう。事実数秒後、格子の向こうからは女の声がかけられた。
「気が変わったか?」
もう何度目になるか分からない問いかけ。
それに倦怠を覚えているのはどちらもだろう。アージェはすぐには答えず息を吐き出した。仰向けになったままクレメンシェトラを見上げる。
「いい加減痛くて頭が回らないんだけど」
「ならば是と言えばよかろう。すぐに怪我も治してやる」
「失った記憶は思い出したか?」
「…………」
この質問をすると、クレメンシェトラは必ず押し黙る。彼女もおかしさに気付き始めているのかもしれない。
ただそれでも女皇は己に課せられた使命から逸脱しようとはしなかった。アージェは揺さぶりが何処まで届いているのか、女の瞳を窺う。
紫の瞳は暗く沈んで彼を見ていた。そこには僅かな不安があるように見えるが、牢の中が薄暗いせいかもしれない。
クレメンシェトラはぽつりと返す。
「お前の言うことは分からない」
「思考停止するなよ。相手の思う壺だろ」
「相手とは誰だ」
「さあ? だがお前は分かるんじゃないか?」
それはディテル神自身ではないかと、暗に示す青年に、女皇は無表情を保った。
冷たい牢獄に落ちる沈黙。アージェはそれを「前と同じだ」と断じる。
このままでは少しも事態が進展しない。そろそろ出方を変えて様子を見てみる必要があるだろう。
彼は右手をついて体を起こした。
「ともかくいい加減出して欲しい。そろそろ体がやばい」
「なら私の言うことを聞くか?」
「出てから相談。譲歩する気はある」
「お前は嘘が下手だな」
あっさりとそう返されアージェは閉口する。
怪しまれない程度に妥協の意思を見せて好機を狙おうとしたのだが、クレメンシェトラにはお見通しであったらしい。
振り出しに戻ったかと諦める青年に、だが女皇は格子の前に屈むと、懐から小瓶を取り出した。 ゆったりとした袖を反対側の手で押さえながら、それを牢の中に差し入れて置く。
「しかし体が限界というのは事実であろうからな。飲めばいい。少しは楽になるであろう」
「俺が飲むと思うのか? 得体の知れない薬を?」
封がされた小瓶の中には薄赤い液体が湛えられている。冷ややかな眼差しにクレメンシェトラは笑った。
「譲歩する気はあるのだろう? それを見せてみろ」
「…………」
牢を出たいならそれなりの姿勢を見せろと要求する女に、アージェは顔を顰めた。足の鎖を鳴らして床の上を移動すると小瓶を手にする。
「安心しろ。毒ではない。正体が知れないくらいは我慢しろ」
「そうは言うけどな」
アージェはなめし皮で封印されていた小瓶の蓋を開け、匂いを確かめた。
甘く重い香りは花のものに幾分似ている。クレメンシェトラは青年の顰め面を見つめた。
しばらくして彼は、無言で瓶を床の上に置く。
「どうした? 飲まないのか?」
「正体が知れなかったら飲んでもよかったけどな。これ、媚薬だろ? お断りだ。そういうやり方は好きじゃない」
「……なるほど。これだから外の世界を知っている騎士には手を焼く」
「女皇陛下がこんな下賤なもの手に入れるなよ」
皮肉に皮肉でアージェが返すと、クレメンシェトラは立ち上がった。長い衣を引いて踵を返す。
「ならもう少しそこで頭を冷やすのだな」
かつかつと音を立てて去っていく彼女はそれなりに不機嫌なのかもしれない。
女皇の気配が地下牢から消えるとアージェは肩を竦めた。床に置いた小瓶に手を伸ばす。
「まったく世間知らずだよな」
なめし皮の封印。それを裏返したアージェは、縫いとめられている針金を外し始めた。
街の裏路地などで売られている魔法薬には、よくこうして針金つきの皮で封印がされているのだ。しかしクレメンシェトラはそれを知らなかったのだろう。右手だけで器用にその針金を外した青年は一つ溜息をつくと、今度は足の鉄輪を外すべく、針金の先を整え始める。
「どっかで魔法士捕まえて腕治してもらわないとな……」
まだ遅すぎるということはないはずだ。
アージェは時間をかけて鉄枷を外すと、一週間ぶりに自由になった足首を手でさすったのだった。