天高く謳う 193

毎日の執務を砦にいる女皇へと送っているのは、城に残る政務官のシンであった。
ケレスメンティアの宮廷内において、女皇不在時に各所から発生する懸案事項は一度主席政務官のフォルレのもとに集められる。
その上でフォルレは一通り目を通した後、実務に携わるシンへと執務を引き渡すのだが、彼は細かなものは自分の手元で処理しながら、主君の采配が必要な分だけを砦へと届けさせていた。
その日もいつも通りの執務を手配し送らせた彼は、ふっと息をつくと机の脇にいるエヴェンを見上げる。
「これで本当にいいのですかね」
「俺に聞くな。あれが確かに陛下の筆跡で書かれたものだとお前も認めただろ」
「しかし状況が不可解過ぎます。陛下の意図が分かりません。砦に報告をしてはいけないとは……」
「今の陛下ご自身が誰かに監視されてるのかもしれない」
「それは由々しき問題ですよ」
シンの淡々とした指摘に、エヴェンは「分かってるよ」とそっけなく返した。
「大体今、砦じゃディアドがいなくなってるらしい。何かが起こってるってのは確かだ」
「ディアドが不在? 彼がいないとしたらそれは陛下のご命令でしょう」
「とは思うが。何か引っかかる」
不審を示す男も、手がかりらしい手がかりは何も得られていないのだ。
いっそ自分が砦に行き女皇に真意を問い質したいくらいだが、書簡では彼女自身が厳しくそれを禁じていた。
仕方なくそこに書かれていた命令を遂行しているのだが、これがどういう意味を持つのか、あまりいい予感はしない。
シンは手元の書類に目を落とす。
「ともかく、陛下には一刻も早くお帰り願いたいものです。
 今は上手くいっていますが、いつ他の者に勘付かれてしまうか分からない。
 そうなった時、私たちだけではとても押さえることは出来ませんよ」
「だから俺に言うなと」
エヴェンは差し出された書類の一枚に目を通した。城都を始めとした国内の各所に転移陣を設置し、内密に少しずつ住民の移動をさせているとの報告。彼は読み終わるとそれをちぎって燭台の上に落とし始める。たちまち燃える火が書類の破片を黒い灰に変えていった。
シンは机に落ちた灰を手で払う。
「しかし私たちはそろそろ、心構えをしていた方がいい気もするのです」
「心構え? 何をだ?」
「決まっているでしょう。もし伝統や信仰と陛下の御意志が食い違うようなことになった場合、どちらを選ぶのかを、です」
「…………」
異例尽くめの女皇。その異例はそろそろ異様とも言えるところにまで来ている。
万が一レアリアが乱心するようなことになればどうするのか、聞きにくいことを問うシンにエヴェンは即答しなかった。
女皇の親衛隊の一人として、また幼い頃からレアリアを見続けてきた一人として、沈黙していた男はかぶりを振る。
「俺は、これでも信仰者だ」
「そうですか。私もです」
気まずいやりとりを最後に、エヴェンは部屋を出て行った。
後に残された男は机の上に残る灰に視線をやると、一際大きく紙片の形を残したものをペンで叩いたのである。






足枷は外したものの、鉄格子の掛け金は針金では開けられそうになかった。
アージェはここから先どう脱出するか、思考を巡らす。
「少なくとも決め手を得られるまでクレメンシェトラには会わない方がいいな」
迂闊に彼女の前に出れば前回の二の舞になってしまう。牢から出て一時身を隠すことが最善だろう。
彼はふと、左手に嵌められたままの指輪を見た。
―――― ディアドの証たる指輪。これを嵌めたままでは女皇に居場所が感知されてしまう。
だがこれを何処かに置いていって後に回収出来るのか、アージェには自信がなかった。そもそもこれ自体が何処まで貴重なものかもよく分からない。
「レアが戻ればまた作れるのか……? まずいかな」
考えてはみたが、今は牢を出ることが先決だ。
青年はあちこち痛み軋む体を確かめると、立ち上がって鉄格子に歩み寄る。
そしてかなり離れた場所にいるのだろう看守を呼んだ。
「おい、ちょっと来てくれ」
石牢に反響する声。聞こえているのだろうが、看守がやって来る気配はない。
ここの牢番をしている巨躯の男は、クレメンシェトラに命じられたこと以外はしないのだ。
アージェはそれを確認すると牢の中に戻った。外した鉄枷の傍に座り込み、目を閉じる。
焦る必要はない。
変わったことをすれば、相手を警戒させるだけだ。どのみち食事を与えに看守は必ずやって来る。
彼はそう割り切ると、上着を脱いでそれで左腕を固定し始めた。片手しか使えない為かなり時間はかかったが、何とか動くのに支障がない状態にする。そうしているうちに、食事の時間が来たのか重い足音が近づいてきた。
いつも何も言わない看守は、牢の前に膝をついてまず平盆を中に差し入れる。次に男はその上にパンやスープを乗せていった。
鉄格子に背を向けて座っているアージェは、ここ数日ですっかり把握してしまった手順に聞き耳を立てる。
最後に男が棒を使って盆を彼の方に押しやると、その瞬間アージェは振り返った。立ち上がり石床を蹴る。手を伸ばして鉄の棒を掴み取った。
「!?」
強く中へと引かれる棒。看守はその時、棒から手を放すべきであったろう。
だが決められたことの遂行だけを意識していた大男は、咄嗟にその判断が出来なかった。まごつく間に、格子の間から強烈に顔を蹴り上げられる。
「ぐあっ」
ようやく手を離し鼻を押さえる男に、しかしアージェは手加減しなかった。蹴り上げた足の踵を男の頭に叩き込む。
鈍い音がして男は牢の前に崩れ落ちた。青年は看守の襟首を掴む。
「さて、俺をここから出せ」
鼻血を流す男を睨んでの要求。だが男はにっと笑うと、格子の間から両腕を突っ込んできた。アージェの両脚を抱きこんで締め上げる。
「っ……!」
両膝に凄まじい圧力がかかる。男の太い腕はしっかりと彼の足を抱え込んでおり、容易く外れる様子はなかった。肉が軋み、骨の鳴る音がする。
―――― このままでは足の骨も折られてしまう。
男の腕をふりほどけないと悟ったアージェは、襟首を掴んでいた手を離した。
躊躇している時間はない。苦痛を飲み込むと、青年は男の左目を突く。
しかし相手は短い悲鳴を上げただけで、アージェの足をますます強く締め上げた。
青年はやむをえず眼球に押し込んでいた指を、更に奥へと突き入れる。柔らかい中にずぶずぶと爪が沈み込んでいく嫌な感触が伝わってきた。
男の左目を完全に潰したアージェは指を引き抜く。
「俺を出せ。俺は陛下を助けたい」
嘘偽りのない言葉。男の両腕が一瞬緩んだ。
しかしそれは本当に一瞬のことで、すぐにまた圧力が戻ってくる。血濡れた顔の看守はアージェを見上げて笑った。
狂信者にも思える笑い。隻眼となったその目には命がかけられている。青年は看守の覚悟を知って顔を顰めた。
骨の軋む音。アージェは一旦手を引くと、汚れた指を右目にも突き込む。
深く深く突いた指。その先に彼は真っ直ぐに伸ばした針金を持っていた。
眼球を、更にその奥を刺す針金。限界までそれを押し込むと男はびくんと体を震わせる。
アージェは息を止めて男の様子を注視した。足の痛みに奥歯を噛みしめる。
悲鳴は最期まで上がらなかった。
鉄格子に寄りかかるようにして倒れ伏した看守を、アージェは見下ろす。
彼は痛む膝を折ってしゃがみ込むと、死した男の体を引き寄せた。あちこちを探るが、どうやら鍵は持っていないようである。武器の類もそこにはなかった。
「……参った」
無駄な殺しをしてしまったとは思わないが、多少状況が動いただけで牢を出られないことには変わりない。遅かれ早かれクレメンシェトラがやって来て罰を受けることになるだろう。
アージェは男の遺体を可能な限りで仰向けに横たえると、瞼を閉じさせる。汚れた指を服で拭い、鉄格子に寄りかかって座りなおした。
幸い足の骨は折れてない。まだ最悪の事態とまでは言わないだろう。
彼は左手の紋章を忌々しげに睨むと、溜息を一つついて己の不運に思いを馳せた。



クレメンシェトラは二日に一回は彼のいる地下牢を訪れる。
そうして彼らは不毛な平行線を確認することが常であったが、アージェが看守を殺してから二日、女皇はちっともその姿を現さなかった。
石の牢獄にはまったく変化がない。男の死体はそのままで、冷たい床に横たわっているせいか腐臭はまだしてこないが、眼窩から流れ出した血は黒く乾いて異様さをかもし出していた。
アージェは熱っぽい己の額を押さえる。
「不味い。脱水になるな」
食事だけなら取らなくても数日は平気だが、水分を全く取っていないことは早々に体調に影響し始めていた。
石牢に座り込んだ青年は、眩暈がする頭を両手で支える。
何故クレメンシェトラが来ないのかは分からないが、このままでは死ぬ可能性も出てくるだろう。
アージェは黒い掌に浮かぶ赤い紋章を睨んだ。これが皮膚上のみのものか、それとももっと奥まで焼き付けられているかは分からない。
だが、確かめてみる価値はあるだろう。―――― この皮膚を剥がしてみても、異能は封じられたままなのかどうか。
「肉も黒かったら笑うな」
赤い紋章は、彼の皮膚の上で蠢いているようにも見える。
それは眩暈からくる錯覚なのかもしれなかったが、アージェは冷笑を浮かべると掌を口元に持っていった。おもむろに深く歯を立てる。
血の味は、嫌悪と充足を同時にもたらした。口内の渇きが潤され、だが気分の悪さも生まれる。
しかし彼はそこで止まらず己の手の皮を食い破ろうとした。顎に残された力を全て込める。

遠くで金属の割れる音がしたのはその時だった。
アージェは反射的に顔を上げ、外の様子を窺う。中途半端に傷ついた掌から血が流れ出していたが、それには構わず鉄の棒を手に取った。軽い足音が近づいてくる。
誰が入ってきたのかは分からぬが、その人物に看守の死体は見えているだろう。
アージェは息を殺して死角となる壁際に移動するとひんやりとした石に背を預けた。
大きくなる足音。おそらく女性か子供だろう。彼は相手が味方であることを祈った。
誰であるか確かめようとする青年の視界の手前で、しかし足音はぴたりとやむ。
数秒の間を置いて硬質な少女の声が聞こえた。
「兄? そこにいるのか?」
「……ミルザか」
懐かしい声にアージェは脱力してその場に座り込む。
深く息を吐き出しながら、彼は自分が助かったという以上の安堵を妹の声に覚えて苦笑した。