天高く謳う 194

ミルザは格子の端から兄の姿を覗きこむと「大変そうだな、兄」と軽い声をかけてきた。
麻の軽装を着ている少女を、アージェは半眼で見上げる。
「そっちは無事だったか」
「何とかな。それより兄、さっさと出て来い」
「出られないからここにいるんだろ。鍵探してきてくれ」
「そのようなものはなかったぞ」
「まじか……」
一度クレメンシェトラが鍵をちらつかせたことはあったが、もしその一つしかないのだとしたら状況はかなり不味い。
アージェは太い鉄格子を忌々しく見やった。
「これ、魔法かかってるよな? 普通の魔法士で破れるか?」
「普通の魔法士で破れるなら魔法をかけてある意味はないだろう。魔法士を収監する可能性も考えて作られているのだからな。
 ちなみに牢の中へは転移も禁止されているようだぞ。というか、兄は異能を使えばよかろう」
「封じられてるんだよ」
食い破りかけた左手の掌を見せるとミルザは眉を寄せる。その目の奥では苛立ちがちらついたように見えた。
少女は溜息をつきたそうな顔になると、青年に手を振る。
「なら仕方ない。こちらから破るから少しどいていろ、兄」
「うん? いけそうか?」
「多分な」
アージェより弱いとは言え、ミルザも異能者の一人である。
彼は、妹が褐色の指を持って鉄格子を破壊するのだと疑っていなかった。
しかし少女は手袋を外すことなく右手の平を冷たい鉄に当てた。小さな唇が妖艶に微笑む。
「砕けろ」
凛とした声。触れられていた一本を中心として、五本の鉄格子が砕け散った。
大きな穴の開けられた牢をアージェは眼を丸くして見やる。だが彼はすぐに真面目な顔になった。
「ミルザ」
「何だ、兄?」
「それは魔法だよな」
「…………」
兄からの確認に少女は少し悲しげに微笑む。
そしてその表情で彼は大体を察した。どうしてそうなったのか、何処に向けられているともつかない悔恨が胸の中に広がっていく。
アージェは自分の勘違いであればいいと思いながら、その名を呼んだ。
「ダニエ・カーラ」
「―――― なぁに、カルド?」
ちくりと棘を刺すような辛辣な声音。
妹の口からそれを聞いた青年は、心の中で自分を罵った。



ミルザに何があったのか、彼は詳しく聞きたく思ったが、彼女はさっさと兄を牢の中から出すと、転移を使って別の部屋に移動させてしまった。
どうやら砦の中らしい一室。指揮官以上の騎士が使う部屋で、彼は腕を治してもらうと二日ぶりに水と軽い食事を取る。
その間部屋を出たり戻ってきたりと忙しなく動いていたミルザは、兄が食事を終えたのを見ると頷いた。
「兄、風呂に入る体力は残っているか?」
「だるいけどまぁ何とか。何でだ?」
「その紋章を魔法の術式で外す。身が清めてあった方がやりやすい、だそうだ」
そう言っているのは少女の中のダニエ・カーラなのだろう。アージェが「分かった」と言うと、ミルザは部屋についている浴室を示した。
「湯は人肌程度にしてあるからな。着替えも置いてある。自分で動くことが辛いようなら手伝うぞ」
「この年になって妹と風呂には入りたくない」
「まったく同感だ」
軽く手を振る妹の横を抜けて、アージェは浴室へと入った。眠気と戦いつつ服を脱ぎながらふと顔を顰める。
―――― ミルザには、彼がクレメンシェトラと敵対していることはまだ言っていない。
しかし彼女はどうやら、主君とディアドの間の緊迫を察しているようだった。あれだけ彼を不敬と注意ばかりしていた少女がこの状況をどう捉えているのか、アージェはいささか不思議に思う。
「ダニエ・カーラもな……」
セーロンを召喚したのはダニエ・カーラらしいとは後から聞いたが、ミルザの体に移っているとは思わなかった。
イリデアはどうなったのか。そしてそれ以上に妹から女の残滓を抜くことが出来るか、アージェは思案する。
体力を消耗しないようちょうどいい温度で用意されたお湯。
青年は血と汗と垢を落としてしまうと、湯船の中に沈みこんだ。そのままつい転寝をしてミルザに叩き起こされる。

「よし、では兄はそこで寝ていてくれ」
「どうせ寝るなら起こさなくてもよかっただろ……」
「服くらい自分で着ろ、兄」
苦い顔をしながらも寝台に横たわったアージェを、枕元に椅子を引いてきたミルザは見下ろす。
これから紋章を外す魔法をかけるのだろう。クレメンシェトラの手によるそれを解除するには、ダニエ・カーラであってもかなりの手間を必要とするようだった。「意識があって動かれても面倒だそうだ」と言われた青年は仰臥して妹を見上げる。
「……ミルザ、大丈夫か?」
「心配するな。余計なことはさせない」
アージェは妹の身を案じて問うたのだが、少女はあえてそうと受け取らなかったのだろう。笑って返した。
彼はもっと多くを言おうとして、だが言われた通り目を閉じる。とにかくも彼女は帰って来られたのだから後で話せばいいだろう。
ミルザの手が彼の額に触れた。
「ちょうどよいから兄も少し体を休めた方がいい。これから色々あるだろうからな」
―――― 色々とは一体何が待っているのだろう。
そのようなことを考えながら、アージェは疲労の為またたく間に眠りの中へと落ちていった。



兄が眠ったことを確認すると、ミルザは肩から力を抜いた。気を張っていたせいか途端に重い倦怠感が圧し掛かり息をつく。
頭の中で女の声が響いた。
『さあ、早く変わって』
「待て」
浮き足立つダニエ・カーラに、少女は気を引き締め直す。彼女の自由にさせ過ぎないよう、術式の間も最低限の位置を保てるよう意識した。
「余計なことをするなよ。何かをしようとしたらお前を止める」
『あなたにそれが出来るの?』
嘲笑う声は、ミルザに頭痛を呼び起こす。森の中でダニエ・カーラを迎え撃った時のことが甦った。
あの時彼女は、ダニエ・カーラと相討つつもりだった。元々の実力差もある。相手に女皇を追わせない為にはそれしかないと思った。
しかしそのつもりであっても、やはりミルザは敵わなかったのだ。
彼女はダニエ・カーラに敗北し、けれどその代わりイリデアの体はもう限界だった。
そしてミルザは自分に止めを刺そうとする女に、一つの取引を持ちかけたのだ。
「お前の役目は兄を助けることだ……それが出来ないならば消えろ」
『でも、彼は私を殺そうとしたのよ?』
「殺されるようなことをするからだ。兄が寛容であったからこそお前は二年間も眠っていられたのだろう?」
ミルザは冷たく言い捨てると、立ち上がり兄の袖を捲り上げる。その間ダニエ・カーラはずっと押し黙っていた。
しばらくして神代の残滓はぽつりと問う。
『お前も、同じ血を持っている』
「そうだな。兄とは母が違うだけだ」
『ならお前の胎を貸しなさい。私はカルドに会いたい』
「……阿呆か」
げっそりとしてしまったミルザは姿勢を正すと腰に両手を当てた。目を閉じ、己の中にいる女に向かって釘を刺す。
「これを言って分かるかどうか。ただ、どれ程血を濃くしようともカルディアスが再び生まれることはないのだ。
 お前も本当はとうに死んでいる。澱に取り込まれた感情が残っているだけだ」
『…………』
「ともかく、今は術式だ。お前ならば出来るのだろう?」
ミルザが目を開けると、ダニエ・カーラからは了承の意が返ってきた。
そのことに少女は安堵の溜息もつけずに頷くと、額に滲んだ脂汗を手の甲で拭ったのである。



眠っていた最中、彼は何の夢も見なかった。
見たいとは思っていた。だが彼の意識は深く休眠を取り―――― 目覚めた時、左手の封印は解かれていた。
「凄いな」
寝台に腰掛けたアージェはそう感想を洩らす。向かいの椅子に座るミルザは口元だけで笑った。
「ダニエ・カーラをあまり誉めるな。今は眠っているが、調子に乗らせると鬱陶しい」
椅子の背に寄りかかっている少女は、心身の疲労に弱っているようである。
アージェは心配そうに妹の姿を見た。
「何があった?」
「大したことではない。負けて殺されそうになったから命乞いをしただけだ。
 イリデアの体は陛下のお力によって治癒も効かぬ程に朽ちていたからな。代わりになると言えば助かると思った」
「ミルザ」
冗談めかして片付けようとする妹に、アージェは真剣な声音で返す。
彼女は瞬間年相応の気まずそうな目をしたが、すぐに大きくかぶりを振ってそれを打ち消した。
「役に立ったのだからいいだろう」
「けど、お前は」
「それについては私にも案があるから大丈夫だ。私とて無策にこのようなことをしたわけではない」
ミルザはきっぱりそう言う。
静かで強い目。そこにはその時、確かな自信が見て取れた。アージェは何か言いたいながらも口を噤む。
「それより兄、今ケレスメンティアが大変なことになっているとは知っているか?」
「大変なこと?」
クレメンシェトラのことを相談しようと思っていたのに、更に別の問題が起こっているのか。青年は思わず顔を顰めた。
少女は指を一本立てて天井を指差す。
「たとえばここは兄のいた砦の別室なわけだが」
「あ、やっぱりか」
「今は、駐留している兵が僅か千しかいない」
「へ!?」
「だから私も容易く牢に侵入でき、兄も飢え死にしかかっていたのだがな」
異様だと明らかに分かる状況にアージェは息を飲んだ。
先日までかなりの兵力が集められていた南西砦だが、何もない普段でも兵がそれしかいないということはあり得ないのだ。
これはつまり、何処か別の場所で兵力が必要になっているということだろう。青年は即座に聞き返した。
「戦況が変わったのか?」
「変わったと言えば変わった」
「はっきり言え」
もしかして、クレメンシェトラが現れなかったのも今戦場に出ているからなのだろうか。
不安を覚える兄に、ミルザは皮肉げな微笑を見せて手を広げた。
「実はな、今ケレスメンティアは他国からの侵攻を受けている」
「は? コダリスか?」
「違う。コダリスはまだケランと不毛な殴り合いの真っ最中だ」
さらりと揶揄するミルザは、何処か以前の彼女とは違って見えた。アージェの胸中には薄い靄が湧く。
少女は大人びた目で彼を見返すと、同じ色の瞳を真っ直ぐに合わせた。
「二日前からイクレムとセーロンが国境を越えて侵攻してきている。―――― 今、我が軍は両軍と衝突の真っ最中だ」