天高く謳う 195

北の方角から吹きつける風は冷たい。
自国よりも標高の高い土地にあるケレスメンティア。千八百年を越える歴史において神聖不可侵であった地を馬蹄で踏むフィレウスは、戦闘が小康状態に入った今、面に出しがたい感慨を抱いていた。遥か遠くに見える灰色の山々を見やる。
あの先は、灰色の海を臨む断崖絶壁となっている。神の槍が焼き切ったという大陸の端。大陸の人間は長くディテル神の畏怖を心の奥底に抱き、神の国に畏敬を払っていた。
国境を越える際には多くの兵たちが緊張を見せたことを思い出し、フィレウスは冷笑を浮かべる。
「神の国などただの欺瞞に過ぎぬ。国々を煽り大陸を長く混沌に貶めていた元凶が。
 そろそろこの遊戯にも幕を引いてよい頃合だろう」
代々、異様な程の慧眼を備えていた王たちが玉座に在ったイクレム。その次期王たるフィレウスは、ケレスメンティアが過去何をしてきたのか、数百年に渡る詳細な記録を手にしている。
イクレムはもっとずっと昔からそれに気付いてたのだ。
ただそれを知っても王たちは、未知数の皇国に手を出すことを恐れた。
大戦が起きようとも自国さえ無関係であればいいと、広がる戦火から一定の距離を保ち続けていたのである。
そのような歴史を知りながらケレスメンティアに剣を向けたフィレウスは、十年近い昔からこの皇国への掣肘を考えていた。
過去の記録から見ると、大戦は数十年単位で「必ず」起こされている。
数ヶ国が絡む紛争から巧みにその範囲を広げられ、やがては大きく燃え盛る戦争。以前の大戦から間隔を計った彼は、自分の代にそれが起きるであろうことを予測した。
大戦を防ぎ、神の国の真実を誰にも分かるよう明るみに出す―――― それは、実際不可能なことだろう。
神代から二千年近くが経過し、信仰を失った者たちが大陸の多くを占めてはいても、神への畏敬は未だ根強くそこかしこに残っている。
イクレムの記録も捏造と言われてしまえばおしまいだ。強国の一つと言ってもケレスメンティアと比べれば歴史の浅い一国である。若輩の讒言と謗られるのがせいぜいだろう。
だからフィレウスは、ケレスメンティアに真実をつきつけ弾劾するつもりはなかった。
―――― もっと直截的に彼の皇国を打ち倒し、これ以上の大戦を生ませないようにしようと考えたのだ。

全ては少年の頃に抱いた小さな夢想だ。
だが彼は、それを夢想で終わらせなかった。
ここに至るまでは様々なことがあった。
留学に来たアリスティドとケレスメンティアの問題について散々話し合ったりもした。
少年の彼らはその時、いつか皇国の欺瞞を打ち砕こうと誓いあったのだ。
長じていくにつれフィレウスはいくつかのままならぬことに直面したが、今こうしてケレスメンティアの地に立っていることを思えば、それも無駄ではない道程だったと思える。
彼は共に兵を挙げたアリスティドが、一旦自軍を引いて戻ってきたとの知らせを受け頷いた。同時にケレスメンティアが少しずつ後退しているとの報告も入ってくる。
「ケレスメンティアもコダリスとの衝突があったばかりだ。まだ疲れが充分に癒えていないのだろう」
或いはそれは擬態で、彼らを誘い込んでいる可能性もあったが、フィレウスは戦場指揮についてはアリスティドに強い信頼を置いていた。
馬上にいる王太子はもう一つ、ケレスメンティア城都に潜入させた者たちからの報告を思い返す。
「しかし民を避難させているということからして、こちらの侵攻を予想されているかもと思ったのだがな」
数日前から、ケレスメンティアは各街の住民をトライン領に避難させ始めているらしいのだ。
出来る限り騒ぎにならぬよう少しずつ行われているそれは、或いはイクレムらの侵攻に備えてのもので、ケレスメンティア軍は彼らを迎撃する準備が出来ているのかとも思っていたが、どうやらそうではないらしい。
フィレウスは己の協力者でありながら、どこか何かを隠しているようだったトライン領主の息子からの書簡を思い返す。
「これは、ケレスメンティアの宮廷も一枚岩ではないということか?」
避難は宮廷魔法士を動員して行われているらしい。だがそれも国内ではおおっぴらにされていないのだ。
下町から優先的に行われている為、貴族などはほとんどそれを知らないらしいと、城都にいる者は言っていた。
フィレウスは未だ不確定要素が多い皇国の内情について思考を巡らす。
「まぁ、民を傷つけずに済むならばその方がいい。―――― 目的は女皇の首だ」
神の代理人たる女。ケレスメンティアの象徴。
その存在を歴史の表から退場させなければ、この大陸は変わらぬままだろう。
フィレウスは冷たい風の吹いて来る方角、大陸北東の岩山を見やる。
そこには女皇の城が建っていて、長らく大陸を神の庭とし続けていたのだ。






ミルザから現在ケレスメンティアを襲っている状況について聞いたアージェは、数秒の間あいた口が塞がらなかった。ようやく事態を咀嚼すると聞き返す。
「それってつまり、セーロンも最初からケレスメンティアと戦うつもりがあったってことか」
「そうだろうな。コダリスに召喚されたのも、コダリスを盾にケレスメンティアの戦力を削れればいいと思ったのだろう。
 本命は最初から今回の出兵ではなかったかと思う。動員されている兵力もかなり違うらしい。
 もっとも私は、神兵たちが話していたのを盗み聞いただけだがな」
「不味いな」
「不味い」
つい二人で口を揃えてしまったが、事態は本当に不味いとしか言えない。
表面的に事を捉えるならば、彼のすべきことは先だっての戦争と同じく、女皇の傍について彼女を守りその敵を下す、だ。
しかし今、彼の主人である女は精神の枷に捕らわれている。
クレメンシェトラは己の意に逆らうディアドをそのままにはしないだろう。
アージェは自分が何処に行って何をするべきか、真剣に悩んだ。ミルザはそのような兄の姿を見つめる。
「で、だ。兄、どうする?」
「難しい。短剣を取り戻せれば何とかいける……か?」
「ディアドの短剣か」
「そうそう。ってよく知ってるな」
ミルザにあの短剣について話をしたことはないはずだ。驚く彼に、少女は苦笑した。
「こちらにも伝手があってな」
「伝手?」
「ああ。そろそろ戻ってくる頃だろう」
少女がそう言ってからまもなく、部屋の扉が音もなく開いた。入ってきた男を見てアージェは少なからず驚く。
「あんた無事だったのか」
気の抜けたような青年の声に、神兵の聖職衣を持ってきたネイは嫌そうな顔で首肯した。

戦場で行方不明になってからしばらく、ネイとミルザは行動を共にしていたらしい。
あれだけネイを毛嫌いしていた少女がどうやって自分の中の蟠りと折り合いをつけたのか、アージェは心底不思議であったが、ミルザ自身が平然としている為放っておくことにした。それよりも今はこれからどうするかの方が問題だろう。
アージェはちょうどよい相手の出現に、率直な質問をする。
「実はレアリアがクレメンシェトラに押し込まれてる。何とかしたいんだが方法知らないか?」
「―――― あれはやはりクレメンシェトラか」
苦い顔は、どうやらネイにも心当たりがある為のものらしかった。
アージェは妹が話についていけていないのではないかと思って一瞥したが、少女はまったく動じた風もなく席を立ってお茶を淹れ始めている。
或いはここに来るまでにネイかダニエ・カーラにでも聞いていたのかもしれない。
青年は妹について一旦脇に置くと、壁に寄りかかるネイへと向き直った。
「っていうか、ルクレツィアがレアとクレメンシェトラを分離させたらしいんだよ。
 ルクレツィアと連絡取れないか? 対策を聞きたい」
「無理だ。今はもう一緒に行動していない。それにあの女はもうこちらに協力する気はないだろう」
「あー……やっぱりか」
そうではないかと薄々気付いてはいた。彼女は気紛れに振舞っているようにも見えるが、本当は人間を自由にさせている。時に突き放し、時に選択を与え、だが深入りはしてこないのだ。
アージェは人外の助力をあっさり諦めると、話を元に戻した。
「じゃあ何かクレメンシェトラを封じる手段を知らないか? ディアドに代々伝わっているものとか」
「そのようなものあるはずがない。主君を封じる手段を伝えるはずがないだろう」
「そこを何とか。ってか厳密には主人じゃないだろ。ディアドの本当の主人は女皇だ」
「お前のその考えはディアドとしては異端だ」
呆れ顔のネイに、ミルザがお茶のカップをつきつける。男がそれを受け取ると、少女はもう一つのカップをアージェに渡し、その隣に座った。
寝台に両手をついて痩身を支える彼女は、淡々とした声で補足する。
「結局、ケレスメンティアの民は皆、信仰者であるという大前提があるのだ。それはディアドも例外ではない。
 信仰者にとって崇めるべきは神であり、陛下はその代理人ということになる。
 ただもし代理人が二人いたなら、信仰者はどちらをより優先する?」
「神の娘―――― クレメンシェトラ、ってことか」
ネイとミルザは同時に頷く。ネイはお茶を一口啜ると続けた。
「ただディアドにはそう一概には言えぬものがあることも確かだ。女皇と個人で一対となるのだからな。
 ただしその『女皇』をクレメンシェトラと見るか、それとも二つの人格両方と見るかは人によって異なる。多くは後者だ」
「普通はその二つが対立したりしないからか」
「ああ」
そこまで言ってネイは、だが瞬間躊躇うような、或いは嫌悪のような表情を見せた。アージェはそれに気付いて眉を寄せる。
「何だよ」
「いや」
「言えよ」
重ねて促すと男は苦い顔になった。だが溜息をつくわけでもなく口を開く。
「私がまだディアドであった頃、ルドリスが似たようなことについて言っていた」
「ああ、先代女皇のディアドか。似たようなことって何だ?」
「クレメンシェトラを傷付けず、もう一つの人格だけを殺す方法だ」
「は?」
それはどう聞いてもディアドであった人間の言葉ではない。
アージェは今更ながら、クレメンシェトラのみに執着していたという男に激しい不快感を覚えた。
そのまま新たな感情に気を取られかけた彼は、しかし妹の声で頭を冷やす。
「それは、逆にも応用出来るのか?」
ミルザが問うているのは、クレメンシェトラだけを殺せるかという意味だろう。異様な程冷静な少女にネイは首を傾ける。
「いや……分からん。その方法も具体的には聞いていないのだ。
 ただルドリスは、あの神具の短剣を使うと言っていた。あれを長剣にして人格を殺すのだと」
「長剣にして? 伸びるのか?」
「それはない、と思うが」
どう考えてもあの短剣の柄の部分に長剣分の刃が収まっているようには思えない。
同じ血を持つ三人は不可解を顔に出し沈黙した。アージェはふと気付くとネイを見る。
「もしかして、だからあんたはあの短剣を持ち出したのか?」
―――― レアリアを殺させない為に、彼は短剣を持って国を出たのだろうか。
問われた男は二人から視線を外すと表情を消した。
「違う。単なる意趣返しだ」
そっけない返答。ネイは残りのお茶を飲み干した。