天高く謳う 197

廊下で相対した神兵たちのうち、アージェは気絶させた三人を手近な空き部屋に放り込んだ。
残る三人の死体も隠そうかと考えたが、そこまでしている余裕はない。
向こうから斬りかかってきたとは言え、所属を同じくする人間たちを死なせてしまった彼は、事態の混迷に眉を顰める。
隣では直接同胞を斬ったミルザが僅かに顔を蒼ざめさせていた。
少女はそれでも気分を切り替えるかのように息をつく。
「これでは兄が脱獄したことは既に陛下のお耳に入っていると思っていた方がよさそうだな」
「面倒だな。しかも出頭命令って」
「順序としてはそちらが先だろう。戦況が芳しくないのではないか?」
ネイの指摘にアージェは苦い顔になった。
先だっての戦争で彼が異能を使ったのは相手も神具を持ち出してきたからであり、なおかつレアリアの行方が知れなかった為だ。自ら進んであのような真似をしたいとは思わない。
だがクレメンシェトラは彼にそれを命じるつもりなのだろうか。アージェは自らの黒い左手を見る。
「まぁ何とかなるか……俺を使うなら異能は封じられないだろうしな」
「次に封じられたらきっと外せぬぞ。兄も気をつけてくれ」
「了解」
楽観的過ぎてもよくないが、悲観的でいても先には進めない。
彼らは再び廊下を走り出した。しかし転移陣の間まではまだまだというところで、背後から厳しい制止の声がかかる。
「待て! そこの者たち、止まれ!」
「……不味いな」
砦に駐留している兵数が普段と比べて激減しているとは言え、それはあくまで相対的に見ての話だ。
実際に千人に追われれば面倒どころの話ではない。アージェは振り返らず走る速度を上げた。ミルザが後ろについてくる。
背後で彼らを呼び止める大声が響いたが、それは角を曲がったことによりたちまち遠ざかった。
アージェは近くにあった階段を駆け下りると、転移陣のある地下階にまで到達する。
そうして通路に出ようと先の様子を窺った彼は、けれど既に神兵たちがその先に待ち受けているのを見つけて舌打ちした。
砦中にある程度連絡が行き渡っているのだろう。それなりの幅を持つ通路には、険しい表情の神兵たちが武器を手に待機している。
その数は約二十数名であったが、後ろに見える魔法士が誰かと通信しているところを見ると、他の箇所でも同様の防衛線を引いているようだった。ここで引き返しても遅かれ早かれ何処かで衝突してしまうだろう。
アージェはいささか頭の痛い思いを味わったが、捕まる気は毛頭ない。先程と同様、糸を使って相手を排そうと足を踏み出しかけた。
しかし彼が通路に出るより早く、背後でミルザの息をつく音が聞こえる。
「兄」
「何だ?」
「計画変更だ。ここからダニエ・カーラに転移門を開かせる」
「転移門を?」
アージェは一瞬驚いたが、考えてみればもっともな案だ。
既に彼らの逃走は砦内で大きな騒ぎとなりつつある。城にも報告されていると思った方がいいだろう。
ならば何処に出るのか決まっている転移陣を無理して使うより、結界破りを感知されても城の何処かに出る方がいい。
青年は周囲を確認すると頷いた。
「分かった。頼む」
ミルザは真面目な貌で兄を一度見上げると、瞼を下ろす。
間を置かずして小さな唇から詠唱が洩れた。前髪の下に汗が浮く。
そうして少女が詠唱していた時間は、そう長かったわけではない。だがアージェはずっと妹のことを見ていた。
青年は、階段のすぐ前に転移門が浮かび上がると、ようやくそれを振り返る。
「これは……外庭か」
水鏡のような薄幕の向こうにはうっすら城の景色が見て取れた。
踏み出そうとする兄に、ミルザは手を差し出す。
「兄、その指輪は私が預かる」
「あ、忘れてた。悪い」
ディアドの指輪は、女皇に居場所を感知される可能性があるのだ。すっかり忘れかけていたアージェはそれを外すとミルザに手渡した。
「でもこれ、お前が預かっててくれるって別行動か? 大丈夫か?」
「別行動でなければ意味がなかろう。私はここに残る」
「砦に?」
驚くアージェの声音には、妹を案じる感情も多分に混ざっていた。ミルザはしかし兄に呆れたような目で返す。
「追われているのは兄だけだからな。私一人なら何とでもなる。
 それに、ダニエ・カーラを連れて陛下の前に行くわけにはいかないだろう。何をしでかすか分からん」
「ああ、そうか……」
クレメンシェトラを前にすると目の色が変わるダニエ・カーラだ。ミルザの危惧はもっともなことだろう。
アージェは納得すると、妹の頭に手を置き、茶色の髪を乱暴にかき回した。
「悪い。助かった。必ず何とかしてくる」
「期待しているぞ、兄。これが終わったら日頃の行いを改めろ」
「多分無理」
繕わず言い残すと、アージェは転移門へと向かう。その背にミルザの声が寄り添った。
「兄」
「うん?」
「兄はディアドだ。もし迷ったらそれを思い出せ。
 ディアドは他の騎士とは違う。ただ一人の為の戦士だ。―――― 他を捨てようともその御手だけを掴めればいい」
女皇と一対たる男。その本質を謳う言葉にアージェは苦笑した。「主人に盲従して他を圧したくはない」と、いつか言った自分のことを顧みる。
「分かった。ありがとう、ミルザ」
「ああ。気をつけろ、兄」
青年は一度振り返って妹を見ると、踵を返し転移門の向こうへ消えた。続くネイが考え込むような目で少女を見やる。
しかしその姿もすぐに続けて薄幕を抜けていった。ふっとゆらめいて消える門。彼女は男たちを微笑んで見送る。



欲しいと切望した時間が得られたことは幸運なことだろう。
ミルザは肩で息をつくと帯びていた剣を抜いた。のんびりとした歩調で神兵たちの待ち構える通路へと出て行く。
数歩行ったところで近づいてくる彼女の姿に気付いたのか、兵たちは視線を交わしざわめいた。頭の中でダニエ・カーラがなじる。
『ねえ、私はまだ彼を助けたいわ』
「お前が行ってもこれ以上は兄を困らせるだけだ」
『だってクレメンシェトラが悪いのよ。お前には教えてやったでしょう? あれがどういうものなのか』
「黙れ。陛下は陛下だ」
ダニエ・カーラを身に宿し、いくつかの真実を知った今でも、彼女にとって女皇は主君のままだ。二つの人格と言われても割り切れるものではないし、その存在が大陸を混乱に導いているのだとしても、やはり忠誠の対象であることには変わりがない。
ただディアドである兄が判断を下し何かを選ぶなら、そこには一つの真があるのだろうとミルザは考えていた。
自らは見ることがない未来。その更に先を想像し少女は笑う。
薄暗い通路に鳴る足音。神兵たちが剣を手に警告した。
「止まれ! ディアド殿は何処だ!?」
「兄か? 自分たちの足で探してみればよかろう。
 もっともあるのは死体だけだ。―――― あれは、このダニエ・カーラが殺してしまったからな」
「何だと!?」
出来うる限り鮮やかに笑ってミルザは己の胸を指差す。頭の奥でダニエ・カーラが顔を顰めた。
『情報撹乱?』
「それだけではない」
少女は口の中で呟くと足を止める。
神兵たちがじりじりと包囲網を作ろうとする様を、彼女は楽しげに見ていた。
『結界を張るわ』
「不要だ。お前は何もしなくていい」
『何?』
不審を感じたのか、ダニエ・カーラが苛立つ。その波を身の内に感じながら少女は細く長く息を吐き出した。
近づいてくる神兵たち。乏しい明かりを白刃が反射する。
ミルザは己の意志と異能を以って、動こうとする中の女を圧した。
「ダニエ・カーラ。お前ももうここで終わりだ。何処にも逃げられん。そろそろただの澱に還れ」
『お前、最初からそのつもりで……!』

戦っても勝てなかった。
だから考えたのだ。敵を逃がさず、かつ確実に殺せる方法を。
―――― 思いついたたった一つの手段は、相手を自らに呼び込むことだった。

「憐れな妄執が……もっともそれは私も変わらんな。あの時、私も死ぬはずだったのだから。
 それがお前のおかげで時間も得られた。これに関しては礼を言おう。充分満足だ」
欲しいと切望した時間が得られた。
それは彼女が想起した後悔を拭う為の時間で、けれど無事、目的を果たすことが出来た。
兄を助け、優しくしたかったのだ。それは他者から見れば大して変化のないことなのだろうが、彼女にとっては精一杯だった。
不思議な程の充足感を胸に、ミルザは微笑を浮かべる。
『出せ! 出しなさい!』
「断る。私は陛下にお仕えする騎士だ。陛下に仇なすお前を放置してはおけん」
ミルザは兄より受け取った指輪に目を落とした。少し考えると、それをおもむろに口に含み嚥下する。
喉を下りていく冷たい感触が、小さな痛みと共に伝わってきた。少女はそうしてようやく剣を構える。
既に包囲の中にある彼女。その脳裏に、弱々しい囁きが聞こえた。
『やめて……まだ消えたくないの。彼には私が必要なのよ』
「お前は兄を困らせるのだ。カルディアスの血が欲しいというなら、私が代わりにつきあってやる」
斬り込む機を狙う神兵たち。ミルザは正面の一人に目標を定めると、何の前触れもなく踏み込む。
普段よりもゆっくりと振るった剣。その切っ先が相手に届くより早く、横合いから突き込まれた剣が少女の脇腹に刺さった。
何の防具もつけていない体は、肉の抵抗だけで白刃を深く飲み込む。
「……っ」
ミルザは呻きを飲み込み、何とかその場に踏み止まった。浅い息を一つ吐くと、兄と同じ緑眼で神兵たちを見回す。
「……どうした? 早くころさなければ、お前たちもころしてしまうぞ?」
「っ、貴様!」
背に走る灼熱。斜めに切りつけられたミルザはよろめく。
それを皮切りに彼女には次々剣が突き出された。四方からの刃で貫かれた体は弓なりになる。見開いた目が石の天井を仰いだ。
『いやよ、だして……おねがい……』
声は出ない。喉を血が満たす。
その代わり小さく消えていく懇願が最後に残る意識に届いた。ミルザは笑顔で目を閉じる。
―――― 何一つ悔いはない。そう思えることはきっと幸運だろう。
熱いような寒いような感覚。しかしそれもすぐに遠のき、小さな手からは剣が滑り落ちる。
石畳に響く金属音は、まるで鐘の音のようだった。
そうして少女は最後に兄が頭を撫でていった感触を思い起こす。閉じきれぬ瞳を残し、はにかんだまま息絶えた。






転移門が繋がっていた先は、城の庭にある雑木林の中だった。
周囲を窺いながら女皇の寝室がある建物へと駆け出すアージェは、しかし浮かない顔で門のあった背後を振り返る。ネイが眉を上げた。
「どうした?」
「いや、ミルザは平気かと思って」
「あれくらいは何とかするだろう。お前も言われていたではないか。女皇の手だけを掴めればいいと」
「……そうだな」
少女が心配であることは確かだが、このようなところで足を止めていてはミルザ自身に怒られてしまうだろう。
アージェは首を一振りして前を向きなおすと、主人を取り戻す為に再び走り出した。