天高く謳う 198

緑の草原は緩やかな傾斜を持って広がっており、時折吹き下ろされる風によって細い草先が軽くざわめいていた。
遠くに見える黒い森。敵軍はその影へと先程退いていっている。あわせて自軍を退かせたアリスティドは、交代で兵たちに休憩を取るよう命じつつ、傍に控えていたエルを手招いた。
「さて、結構奥まで来たな。城都まではあとどれくらいだ?」
「このままの速度でならあと五日前後かと」
「なるほど。どうもケレスメンティアは腰が引けているようだな。手ごたえがあまりない」
アリスティドは若干不満そうに唇を尖らせる。
それは先だってのコダリス戦にわざわざ出向いたにもかかわらず、ほとんど戦うことが出来なかった記憶のせいだろう。イクレムとセーロン二国の戦術を一任された彼は、普段の駄目さからはかけはなれた的確さで皇国軍を追い詰めていた。
男は自分の鞍につけたもう一振りの長剣を見下ろす。
「このままこちらを誘い込んで異能か神具を使うつもりかとも思ったのだがな。それにしては迷いが見られる」
「そのような事態にならないことを祈ります。女皇の騎士のあれは尋常ではありませんでしたから」
エルは遠くからでも感じられた忌まわしい気配を思い出し、ぞっと身を竦めた。
もしあの力が自軍に向かって振るわれたなら、彼らは同じ継承者であるアリスティドを前に出さなければならなくなる。
それはいたしかたないことと分かっていながら、けれどエルはそうならなければいいとも願っていた。彼女は男の鞍につけられた王家の剣を見やる。
アリスティド本人は、何処か暢気さの抜け切らぬ様子で背後の景色を見渡した。
「ケランやコダリスについてはフィレウスが上手くやってくれるらしいからな。後顧の憂いがないということは実に楽ちんだ」
「実際の背後は多少気になさってください」
「エルがついていてくれるからな。とっても安心だ」
「はぁ……」
信用してくれるのはありがたいが、彼女ではどうにも出来ぬ事態というものもやはり存在する。
エルは主君に張っている結界を強化しながら遠く北の天を仰いだ。
「殿下」
「何だ?」
「私たちは、神に裁かれるのでしょうか」
原始的な不安。普段「神」などと決して言わない魔法士に、アリスティドは驚いた顔で振り返った。
顔立ちだけは端正な庶子王子は、けれどすぐ幼馴染に破顔して見せる。
「それは分からないな」
「殿下……」
「何が正しいことで何が正しくないかは神自身にしか分からないからな。気にしても仕方がない。
 私たちは自分が正しいと思うことをすればよいだろう」
手綱を取り進み出す王子の背は、何に恥じることなく伸びて見える。
エルはその背を眩しそうに見つめると、神に愛された国の中、自らも主君の後に続いて馬を進めた。






砦においてはすっかり脱走犯扱いだったアージェだが、ケレスメンティアの城にはそこまでの情報が行き渡っていないらしい。
城内に入った彼らは何度か廊下で女官や文官たちとすれ違ったが、彼らはいつも通りの黙礼をしてくるだけで、アージェを見咎めようとはしなかった。時折怪訝な顔をされるのは、連れているネイが見ぬ顔である為だろう。
アージェはとりあえず女皇の私室に辿りつく。まず廊下に面した控えの間を開けた時、そこにいた女官たちは驚いて飛び上がった。
二人は素早く中に入って扉を閉める。
「ディ、ディアド殿、一体これは……」
「悪い。ちょっと探し物があるんだ。内密の仕事だから誰にも言わないでくれ」
「はぁ」
女官たちはそれで納得したのか曖昧に頷いた。アージェはネイに見張りを頼んで主人の部屋に向かおうとする。
だがその時、施錠するより早く廊下側から扉が開かれた。開けた本人である女は、瞬間ネイと顔を見合わせる。
アージェは振り返ってそれが誰であるのか気付いた。
「げっ……ベルラ」
ネイが帰って来たと聞いて怒り狂っていた女。その彼女がよりによってネイ本人と顔をあわせてしまったのだ。
面倒なことになった、と思いつつ、けれど事態はそれどころではない。アージェはネイが自分の力で切り抜けてくれることを願って、女皇の私室へと続く扉を開けた。背後で小気味のいい平手打ちの音が聞こえて思わず肩を竦める。
ベルラ自身は武芸の類がまったく出来ない女だ。放っておいても流血沙汰にはならないだろう。
アージェは足を止めずに主人の寝室にまで踏み入ると、無人のそこを探索し始めた。
広くはあるが、物の少ない部屋である。全てひっくり返しても大して時間はかからないはずだ。彼は早速机の引き出しから探し始める。



戦場からもたらされる戦況。女皇の惑いを反映するように芳しくないそれは、クレメンシェトラの焦燥を増していくだけである。
彼女は執務机に両肘をついて血の気の引く頭を支えた。傍に控えるエヴェンが体調を気遣う声をかける。
「陛下、お体の具合でも」
「平気よ」
咄嗟にそう返してはみたものの顔色の悪さは否めない。
クレメンシェトラは冷静になろうと椅子の背もたれに寄りかかった。
その時、部屋の扉が叩かれ魔法士が入ってくる。足早に女皇の傍に歩みよった彼は、何事かをクレメンシェトラに耳打ちした。それを聞いた彼女は紫の目を大きく見開く。
「アージェが死んだ?」
「は?」
思わず声を上げてしまったのはエヴェンだ。
ここしばらく姿が見えなくなっていたディアド。彼が何処で何をしていたのか、エヴェンはまったく知らされていない。
クレメンシェトラは呆然と何もない空間を見つめる。
―――― ダニエ・カーラに乗っ取られたミルザが、兄を脱獄させ殺してしまった。
その少女もまた神兵に殺されたのだという。自らの知らぬところで起きた惨事にクレメンシェトラは自失した。唇の震えが全身に広がっていく。
レアリアはこれを聞いているのだろうか。今はもう彼女と繋がっていないクレメンシェトラは、それさえも分からない。
そもそも繋がったままであったらアージェの死も感じ取ることが出来ただろう。彼はレアリアのディアドであって、クレメンシェトラの騎士ではないのだ。女皇は激しい眩暈に吐き気を覚える。
「陛下」
崩れ落ちかけた彼女を支えたのはエヴェンだ。男は伝令の魔法士に退出するよう促すと、震える主君の肩を押さえる。
「少しお休みになられてください。大分お疲れなのでしょう」
「わ、私があれを殺してしまったのだ……」
「陛下?」
「言うことを聞かぬから力を封じてしまった……まさかこんな」
『こんなことになるとは思わなかった』
言い訳めいたその言葉はクレメンシェトラの脳裏で、何よりも空々しく響いて仕方なかった。



ディアドの青年が死亡したとの知らせに、女皇は頭を抱えて縮こまってしまった。
現実を拒否する子供のような姿。そのような弱さは、かつて幼い彼女が苦境に追い込まれていた時も決して見せなかった姿だ。
エヴェンは初めて見る主君の姿に強い危機感を覚えざるを得ない。
女皇とディアドの青年の間に何があったのか、彼は知りたくはあったが、先に主君を休ませることの方が肝要だろう。エヴェンはここ二日間ろくに眠っていない女皇を促して立たせる。
このような時、アージェであれば何も考えずに主君を抱き上げてしまうのだが、どう考えてもそれは不敬な行いである。
エヴェンは、呆然として足取りも覚束ない彼女を支えて執務室を出た。随行する神兵たちに行く先を指示しつつ、彼女を休ませてから情報を整理しようと考える。
―――― コダリス戦時からエヴェンらが行っていた不思議な命令は、女皇の帰還からまもなく完了した。
侵攻の知らせを聞いて砦から戻ってきた彼女は、民の避難が八割方終わっていると聞き、愕然としながらもそれを完遂するよう命じたのだ。
その態度のおかしさが何を意味するのか、エヴェンは考えてはみたが答は出ない。
答らしきものはどう足掻いても不敬にあたるもので、それに触れるべきではないと臣下としての彼自身が警告していた。
まるで不可解なことだらけの数日。エヴェンは苛立たしさを覚えつつも、私情を押し殺して主君を支える。
そうして彼女の部屋の前にまでやって来た彼は、扉の前に落ち着かなげな女官がいることに気付いて眉を寄せた。
きょろきょろと左右を見回す彼女は、道に迷っているに似た素振りではあるが、扉の前から動こうとはしない。
エヴェンはそれを誰かを待っているのかと一瞬思ったが、それにしては挙動が不審だった。女官は彼と女皇を見つけると、ぎょっと蒼ざめる。
「何だ?」
女官は室内に入るか彼らを迎えるか迷ったようだが、結局は頭を下げて二人を待った。
エヴェンは主君の代わりに問い質す。
「そこで何をしている?」
「い、いえ。その……」
「何があった?」
「何でもないのです。ただちょっと」
しきりに部屋の中を気にする女は、そこに何かを隠しているようだ。エヴェンは秀麗な顔を険しくさせると女官を手で避けさせる。
彼は神兵たちに目で警戒を促すと、背後に主君を庇って扉を開いた。中の光景を見て、何も言えず沈黙する。
―――― そこにいたのは城内にいるはずのない男だ。
肌の色が異なっても、十数年を隔てても、分かるものは分かってしまう。
かつて女皇のディアドであった人間。その彼が固い無表情で、旧知の女に睨みつけられていた。
驚きから片足を抜いたエヴェンは、男の名を呼ぶ。
「何やってるんだ、ネイ」
妙な緊張感を醸しだしていた二人は、そこでようやく彼らが来たことに気付いたらしい。ネイは先程の女官と同じくぎょっとした目で、エヴェンの背後にいるクレメンシェトラを見た。そしてすぐに女皇の私室の方を振り返る。
それだけの仕草で、エヴェンは闖入者が他にもいることを看破した。
「陛下、ここにいらしてください!」
言いながら彼は剣を抜き床を蹴る。
奥の扉へと向かう途中にはネイがいた。エヴェンは一瞬、旧知の男を斬ろうかどうか迷う。
しかし結局それをせずに相手の脇を走り抜けたのは、男の前にいたベルラが彼を庇うかのように両手を広げたからだ。
エヴェンはネイについては後回しにして、小部屋へと続く扉を開けた。無人のそこを抜け女皇の寝室へと向かう。
重い扉の先は、本来ディアドと女皇の夫を除いて男が立ち入ることは出来ぬ領域だ。
だが今はそのようなことを言っている場合ではないだろう。エヴェンは剣を抜いたまま寝室に繋がる扉を開く。
見事に荒らされた部屋。その中で今まさに広い寝台をひっくり返している侵入者は、彼を見て眉を跳ね上げた。
「エヴェン?」
「お前、生きてるじゃないか」
「生きてるよ」
死亡したと先程報告があったばかりのディアドは顔を顰めて首を傾ぐと、当然のように己の剣を抜いた。