天高く謳う 199

「死んだ」と耳に挟んだディアドを前にした時、エヴェンはそれ程驚きを覚えなかった。
元々現実味を感じられない報告だったのだ。単にそれが誤報だったというだけのことだろう。
問題はだから、どうして彼が女皇の寝室を荒らしているかである。
まるで見つかってはならぬところを見られてしまったかのように剣を抜いたアージェは、エヴェンを斜めに注視した。
「俺が死んだって何だ? あんたは何処まで知ってる?」
「何処まで? ってかお前は何してるんだ、それ。模様替えにしちゃ無茶苦茶すぎるぞ」
「レアが捕まってるんだよ。だから黒い短剣が要るんだ」
「は? 陛下が?」
―――― 女皇は捕まってなどいない。今もそこまで共にいたのだ。
そう思いながらもエヴェンは、青年の言葉によって一足飛びに真実へと到達したような予感を抱いた。頭の中でそれが言語化されるより早く、だが背後に人の気配が現れる。
「おい、不味いぞ!」
焦ったようなネイの声。アージェはそれを聞いて眉を寄せた。男の後を追ってきたベルラが「説明なさい!」と叫ぶ。
そして、彼ら全員の後に現れた女は、エヴェンの隣に立って女皇の騎士を見た。安堵とも嘆息ともつかぬ息が男の耳に届く。
「生きていたのか」
「お前のおかげで軽く死にかけたけどな」
アージェは主君であるはずの女に皮肉で返すと、その表情をじっと窺った。
落とされた染みのように広がる沈黙。青年は戦意を持って女皇を見据える。
「ネイ!」
アージェの声は、止まりかけていた時を突き飛ばすが如く動かした。
名を呼ばれた男は女皇の肩を掴もうと手を伸ばす。エヴェンは横目でそれを捉えると、抜いていた剣をネイのいる背後へと振るった。
牽制の意味を込めた攻撃。しかし男の前に必死の形相のベルラが割り込んでくる。
エヴェンは舌打ちしたい気分で剣を引いた。そのまま体の向きを変えると正面から打ち込まれるアージェの攻撃を受ける。
固い金属音は、その場の全員の交錯を顕にし、現実と認識させる力を持っていた。
女皇の肩を掴んだネイは、彼女のゆったりとした袖に目を留める。その中を確かめようとする男に女皇は微苦笑した。
「帰れと言ったのに」
「もう終わりにすべきだ」
意味の分からぬ応酬を背に聞きながら、エヴェンはアージェを睨む。
「お前、何してるんだよ」
「こっちの台詞だ。クレメンシェトラに騙されるな」
ぶつかりあった剣にじりじりと力を込める青年は、そうしてエヴェンの動きを留めているつもりなのだろう。
しかしエヴェンはそれを読んで受けている刃を軽く捻った。拮抗が崩れ、お互いの剣が離れる。
アージェは間もおかず、男の右腕を狙って長剣を振るった。
申し分ない速さと重さ。稽古の時よりも遥かに鋭い剣に、男は舌を巻きつつその攻勢を受ける。
二合、三合と重ねられるそれらは、ディアドの青年が本気であることを窺わせた。
背後に主君がいる為あまり動けないエヴェンは、このままでは数合のうちに追い込まれるであろうと予測する。後ろからネイとベルラの争う声が聞こえた。
ディアドを前にこれを言っていいのかどうかと思いつつ、エヴェンは口を開く。
「陛下! お逃げください!」
「ネイ、急げって!」
「分かってる!」
剣戟か騒ぎを聞きつけたのか、神兵たちの駆けてくる足音がした。
主君を守ろうとするベルラを押しのけたネイは、女皇の袖から何かを奪おうとする。
騒ぎの渦中に立つ女は、男を前にして逃げるわけでもなく―――― ただ目を伏せて笑った。
「よかろう。相手をしてやる」
ひどく遠くから響いてくるかのような宣告。
それと同時に異能の血を持つ二人の男は、何の声も上げずその場に崩れ落ちた。



何処からか激しく振るい落とされたような浮遊感。
続いて硬い地面に打ち付けられたアージェは、咄嗟にその上を転がって衝撃を逃がした。起き上がってすぐ、自分が見知らぬ場所にいることに気付く。
「何だ?」
何処までも広がる白い空間。罅割れた床だけが広がり、壁も空もない茫洋としたそこは、彼に不思議な既視感をもたらした。
初めて訪れたにもかかわらず、いつか見たような気もする光景。
床のみならず宙にまで入っている亀裂からは、灰色の霧が染み出している。
場所を選ばぬそのような断裂はそこかしこにあって、白い空間は少しずつ霧に侵食されているようにも思えた。
アージェは状況を確認しようと周囲を見回す。後方には頭を押さえて立ち上がるネイがいた。
しかしその他の人間―― エヴェンやベルラ、そしてクレメンシェトラの姿は見当たらない。
他に誰の姿も見えない空間で、アージェは困惑の声を上げた。
「何だここ。何処に飛ばされた?」
「此処が『庭園』だ」
ひどく響く女の声。二人が振り返ると、視界の先にはいつの間にかクレメンシェトラが立っていた。
彼女の隣には白い石で出来た椅子があり、そこには同じ顔の女が座して目を閉じている。
アージェは白い棘草に拘束されている彼女の名を叫んだ。
「レア!」
「……アージェ?」
うっすらと青い目を開けた女は、己の騎士がそこにいるということに心底驚いたようだった。呆然と彼を見つめ―――― 我に返るとクレメンシェトラを睨む。
「何のつもり?」
「あれに諦めさせてやろうと思っただけだ」
クレメンシェトラはそっけなく言い捨てるとレアリアの傍を離れた。長い紫の服の裾を引き、罅割れた床上を歩いていく。
作り物のように美しい貌。白金の髪が風のない空間になびく。
白い庭にあって超然としたその姿は、彼女を確かに「人ではないもの」に見せていた。
神代から生きる女は石の玉座から離れた場所で足を止めると、アージェたちに微笑みかける。
「庭園とは、要は楔によって作られる場だ。異なる位階を楔で縫い止めた際に生まれた接触点。
 そこを訪れた魂には魔力が与えられ、やがては魔法士となる。……もっともお前たちはその血のおかげで魔力は持てぬがな」
小さな溜息は何に向けてのものだったのか。クレメンシェトラはアージェの肩越しにネイを見た。
「……本当はお前まで連れてくる気はなかったのだが。血と契約に引き摺られたか。
 もうその血を継ぐ者も多くない。そこで大人しくしていろ。そうしていればきちんと帰してやる」
ネイへの忠告は哀惜に満ちた穏やかなものだった。過ぎ去りしものを愛しむような目。
同時に男の足にはレアリアを拘束しているものと同じ棘草が絡みつく。
ネイは驚いて足を引こうとしたが、その時には既に草は彼の動きをしっかりと封じていた。
クレメンシェトラは一度目を伏せて浮かんでいた感情を消すと、改めてアージェに視線を戻す。
「お前にはもう一度だけ問おう。―――― 信仰を持たずともよい。レアリアを諦め、私に従え」
「断る」
間髪入れずの返答。クレメンシェトラは苦笑した。
「やはりか。お前はそう言うと思った」
「なら聞くなよ。レアを返せ」
「それは出来ぬ。私は不変でなければならぬのだ」
女の貌はその時、美しい程無自覚な諦観に彩られていた。



染み出してくる霧は絶えず空間のそこかしこで蠢き、本来純白であろう場に灰色の印象をもたらしていた。
楽園とも庭園とも呼ばれる楔の足下で、アージェは抜いたままの剣に目を落とす。
このような普通の剣がクレメンシェトラに効くのかどうか。
だがこの場にあって二人の女皇が明らかに分離していることは、またとない好機に彼には思えた。
アージェはクレメンシェトラまでの距離を目測する。女は自らの白い手を見つめた。
「このようなことはしたくなかったが、いたしかたない。少し精神を弄らせてもらおう」
「自分の精神から何とかしろよ」
「お前は減らず口ばかりだな」
「やめなさい、クレメンシェトラ!」
苦笑する女にレアリアが叫ぶ。だがその時には既に、女の細い指はアージェを指していた。
何が来るのか見えぬ攻撃。しかし青年は横に跳んでその「何か」をかわす。
前回腕を折られた時の経験で、クレメンシェトラの視線が攻撃の起点ではないかと踏んでいたのだが、それはあながち間違っていないらしい。すぐ横を見えぬ力が通り過ぎていく気配がした。アージェは床を蹴って女へと向かう。
クレメンシェトラは少し驚いた顔になったが、すぐに次を打ち出した。
今度は白い光の波が彼の方へと向かってくる。範囲からして避けきれぬそれに、青年は一瞬迷ったが黒い剣を生み出した。元の剣を捨て、黒い刃で波を斬りつける。
白と黒が接触した瞬間、そこには二色の煙が立ち昇った。
アージェは波に作った隙間をすり抜ける。光が掠る背に激痛が走ったが、彼は軽く顔を顰めただけで立ち止まらなかった。
クレメンシェトラは感心の声を上げる。
「大した意気だ。そこまで出来るお前が神の意図を否定するとはおかしなものだがな」
「するに決まってるだろ。人形遊びじゃあるまいし」
女皇はもうすぐそこだ。アージェは黒い剣を振りかぶる。玉座からレアリアの声が飛んだ。
「アージェ、下!」
「っ!」
警告と同時に彼の足下が崩れ去る。落下しかけたアージェは、咄嗟に落ちていく破片を蹴り、まだ残る床へと飛びついた。
白い床にぽっかりと空いた穴。その縁に片手でぶら下がった青年は、割れた破片が落ちていく先を見やる。
遥か眼下には一面黒い海のようなものが広がっていた。闇の中凪いでいるそこは、何もかもを飲み込む深淵のように思える。
人の世界を越えた原初。背中に冷や汗を感じる彼に、クレメンシェトラの声が聞こえた。
「いくらお前であっても負の海に落ちればただでは済むまい。少しは身に染みて大人しくしろ」
「って言われてもな……」
這い上がる前に追撃をかけられたらおしまいだと思ったのだが、彼女にその意志はないようである。
アージェは左手の剣を消すと両手で床の縁を掴んだ。一瞬がくりと床が揺れ、指が滑りかける。
「お前は今もそうやって足掻いている。神の意図する闘争もそれと変わらぬ。人間的な行いだ」
「何だよ、それは」
「人は本来生きる為に集団で協力しあう生き物であろう?
 だがお前たちは時折、本能に反して相争う。それは何の為だ?
 お前のように闘争に拒否感を抱きながらも、人は自ら選んで剣を取る。死を覚悟して前へと踏み出す。
 自らの命を顧みずに進むそこにこそ、人間が他の生物から一線を画す意志があるのではないか?」
淡々としたクレメンシェトラの声は、彼の頭上を通り過ぎていく。
アージェは床が崩れぬ程度に反動をつけると、両腕で上半身を引き上げた。穴の縁から這い上がり女皇を見る。
「ぶら下がってる時に難しい話とか勘弁。それどころじゃない」
「……お前はそうであろうな」
クレメンシェトラは口元を手で押さえると、困ったように小さく笑った。