天高く謳う 200

死して残るものはない。ならば生においてその意を見せよ。






物心ついた時より座らされていた石の玉座。
ひんやりと冷たい気もするそこは、今は彼女の永遠の牢獄となりかけていた。
クレメンシェトラの力によって束縛されているレアリアは、動けない自らの身を忌々しく思う。
勿論実際の肉体が拘束されている訳ではなく精神が捕らえられているだけなのだが、それはこの場にあってほぼ肉体と同義であった。
レアリアは爪を立てて石の肘掛を掴む。
―――― 諦めたわけではなかった。
いつも機会を狙っていたのだ。クレメンシェトラを打ち崩し、表に戻れる好機を。
だが、彼がここに招かれてしまうとは思ってもいなかった。この場所における人間の敗北はすなわち精神の死だ。そして精神が死ねばそれと繋がる肉体も生きてはいられない
クレメンシェトラは、アージェを殺す気はないのだろうが、その精神を屈服させようとは思っているのだろう。
彼を嬲るような攻撃にレアリアは沸き起こる憤りで歯軋りをしていた。同時にこれは自分をも対象に入れた攻撃だと悟る。
焦ってはいけない。怒りに我を忘れれば、それは相手の思う壺だ。レアリアは精神を平坦に保つ。
それよりこれはきっと好機なのだ。
カルディアスの血を継ぐ男が二人。この状況であれば、きっと彼女の言葉はクレメンシェトラに響く。
レアリアは冷えた頭で同じ顔の女皇を見据えると、ただ口を開くべき時を待った。



「ちゃんと聞いてなかったけど何か勝手なこと言ってたな」
白い床の上に再び立ち上がったアージェは、クレメンシェトラに意識を払いつつ、場の状況を確認した。
後ろには大穴。左後方にはネイが拘束され立ち尽くしており、右手側にはレアリアの玉座がある。
クレメンシェトラはその中でもっともアージェに近く、十数歩走れば触れられる距離にいた。
それ以外にはめぼしいものは何もない。アージェは黒い左手を握って開く。
クレメンシェトラは傾いた笑顔を見せた。
「勝手なこと? 紛れもない事実であろう。実際、お前は自分の命よりもレアリアを優先している。
 己の死を前にしても他を尊ぶのは何故だ? その理由、その強さにこそ人の真髄が現れるのではないか?」
「何が真髄だ。はなから選択を奪っておいて悦に入るなよ」
吐き捨てた言葉は、灰色の霧に跳ね返ってやけに響いた。
クレメンシェトラの瞳が硝子のように光を反射する。
「選択を奪う? 機会を与えてやっているだけだ」
「それが選択を奪ってるってことだろ。
 あのな、極限に追い込まれて自分よりも他を選ぶなら、それは元から大事なものだったんだよ。
 闘争とか死とかは関係ない。俺にとってレアがずっと無二の主人なのと同じだ。
 いつだって平和な時だって、それは変わらず大事なものなんだ。
 けどお前はただ、自分が平時だとそれに気付けないから、騒ぎを起こして炙り出してやろうって言ってるだけだ。
 自分を棚上げしておいて人間に無茶を強いるなよ。果てしなく迷惑だ」
アージェは左手に剣を生み直す。光を反射せぬ黒い刃は、人間の意志そのもののように女へと向けられた。
最古の女皇は、糸の切れた人形を思わせる無表情で固まる。
「平穏の中であっても人は変わらないと? それでは他の動物や草木と変わらぬのではないか?
 己の身を守り血を継いでいくだけの―――― 」
「今までずっと人を見ていて、それでも本当にそうとしか思えないなら。
 お前はきっと永遠に人間を理解は出来ないんだろうよ。その真髄とやらも含めてな」
重ねられた言葉。アージェは人外を切り捨てるようにそう言い切った。クレメンシェトラの唇が震える。
「戯言を……」
「事実だろ」
アージェはその一言を皮切りに走り出した。
残り十数歩。クレメンシェトラは虚ろな瞳で彼を見る。
彼を迎え撃とうと上げられた手は、しかし先程よりも鈍かった。
そこから光が打ち出されるより先に、間を詰めたアージェは女の手を斬り上げる。
爆ぜるような衝突音。黒い剣は強く弾かれ、押し返された。クレメンシェトラは煙の上る手を見つめる。
美しいだけの顔立ちに浮かぶものは、無防備に見える虚脱だ。白い喉元を狙って青年は剣先を突きこんだ。女の目が大きく瞠られる。
その攻撃は、クレメンシェトラには避けられない速度と間合いを備えていた。
だが女は切っ先が届く寸前でその場から掻き消える。十数歩空けた後方に転移した女は、硝子球の目をアージェに向けた。
青年は苦々しく女皇の姿を見やる。
「無詠唱転移か。面倒だな」
もっともクレメンシェトラ自身の力は魔法とはまた別の力だったはずだ。加えてここは普通の場所ではない。常識に捕らわれないほうがいいだろう。
アージェは休む隙を与えぬよう再び走り出す。女は向かってくる青年を困惑の目で見た。正確には彼の持つ漆黒の刃を、クレメンシェトラは見過ごせぬ「何か」のように注視する。
「私は……」
続く言葉はない。
女は顔を覆ってしまいたそうに、美しい貌を歪めた。






記憶の中の欠落は、剥ぎ取られたものの証だ。
そこに何かがあったことは分かる。だが思い出せない。
―――― けれどそれは単に、思い出す資格がもう彼女にないからかもしれなかった。






クレメンシェトラの精神は揺らいでいる。
それは今や誰の目にも明らかだった。そのせいで本来相手になるはずもないディアドの攻勢が彼女を追い立てているのだろう。
女の喉元を狙った刃がすんでのところでかわされ、代わりに白金の髪の一房を切り落とした時、しかしアージェは惜しいと思うよりも先の見えなさを感じた。
彼女との力の差は歴然だ。特にこの場にあっては、誰よりも彼自身がそれをよく分かっている。
だから今、彼女が揺らいでいる隙に決着をつけなければならない。それは分かっていながらも、女はただ黒い剣から逃げるように遠ざかるだけで、まるで宙を掻いているように手応えを得られなかった。
やり方を変えるべきかと彼が迷いかけた時、背後からもう一人の女の声が響く。
「思い出せた? クレメンシェトラ」
軽く問うだけの言葉は、人ならざる女に明らかな動揺をもたらした。
クレメンシェトラはその場から大きく転移すると、アージェから遠く離れた場所でこめかみを押さえる。
「黙れ。思い出すようなことは何もない」
「あるわ。あなたはもうそれを分かっている」
「お前が知っているはずがない」
「どうして? 女皇が女皇の断片を受け継いでいくことはあなたも知っているでしょう。それはあなたに付着しているものなのだから。
 そしてあなたもまた、最初の『女皇』だった」
「私の記憶がお前たちに引き継がれるはずがない」
狂乱の一歩手前。
アージェは足音を殺し女に近づきながら、注意深くその様子を窺った。
床に走る亀裂の上に立っている女は、足下に灰色の霧をまとわりつかせながらじっと目を伏せている。
それはまるで叱られることを恐れる子供のような姿だ。レアリアの声が何もない空間に響く。
「思い出せないなら教えてあげるわ。―――― カルディアスは、アージェがあなたに言ったことと同じことを言ったのよ」
「……知らない」
「神の傲慢と、それに従うあなたを批判した。彼はあなたの考えを変えさせようとしたわ」
「っ、やめろ! 思い出せぬのだ!」
慎重に距離を詰めるアージェの足が、細い罅割れを踏む。
薄氷に似たそこはもう長くないのかもしれない。彼はレアリアを振り返った。
クレメンシェトラの動揺と共に拘束が緩んだのか、彼女は自由になった右手を上げ、同じ顔の女を指差す。
「あなたは、カルディアスに同意した。彼の意に応えて、大陸から闘争を拭おうとケレスメンティアを動かした。
 でもそれが神の怒りに触れたのよ。あなたは記憶を消され、元の役割に戻された」



『人の意志は、いつでも何処にでも存在する』と彼は言った。
言わなかった。言ったのかもしれない。思い出せない。剥ぎ取られてしまった。
『クレメンシェトラ、お前はどう思う?』
そのようなことを聞かれたのは初めてだった。それまで彼女に意見を求めた者などいなかった。
だから彼女は驚いて、不安になって……そして少しだけ嬉しくて、必死に考えたのだ。
神域から遥か遠くに見えるささやかな集落を、その暮らしを見て自分で考えた。
出した答は――――



「ああぁぁっぁあっぁああああ!!」
絶叫は空間そのものを大きく揺らした。
アージェは咄嗟に跳び下がって足下の亀裂を避ける。
クレメンシェトラの叫びと同調して広がり始めた裂け目。それは狂乱する女を彼らから切り離すようにその周りを走り出す。
青年は断層が広がる前にそこを飛び越えて彼女に肉薄しようと床を蹴った。
しかしその時、クレメンシェトラはぴたりと叫ぶことをやめ、アージェを見る。
「……もう取り戻せぬのだ」
女の双眸は赤紫色に輝いていた。



棘草の緩みは優勢の証拠だろう。レアリアは素早くそこから己の右手を引き抜く。
足の方は数重にも巻きつけられたせいか、まだ抜き取れそうにない。彼女はクレメンシェトラに視線を戻した。
―――― ここで自由になれたとしても、それで終わりではない。
まだやることは残っているのだ。何としてもクレメンシェトラを押さえ、表の世界へと戻らねばならない。
そう考え、決定的な言葉を打ち出したレアリアは、しかし赤紫の瞳を見て己の敗北を悟った。クレメンシェトラの指が真っ直ぐに、玉座に縛られた彼女を指差す。
「だからお前たちも、もう諦めろ」
打ち出された光。それは止めようとするアージェの手の先を行過ぎた。灰色の靄を貫きレアリアに向けて走る。
全ては収まるところにしか収まらない。
クレメンシェトラは初めから、アージェの目の前で彼女を殺すつもりだったのだろう。
それだけのことをレアリアはした。否、しようとしていた。
前例のない背信者。自身の死を目前に、レアリアは絶望ではなく口惜しさで胸が詰まる。白皙の頬に血が飛び散った。
「あ……」
肉体のない庭園。だが流れる血に温かさを覚えるのは、きっとまやかしではないのだろう。
レアリアは自身の裾を濡らしていく赤を見下ろす。白い床に落ちる色は、単色の世界に鮮やかだった。
彼女は息を止め、ただ己の騎士を見上げる。
「ネイ」
「……遅くなってすまなかった、陛下」
懐かしい声。掠れかけた呟きにレアリアは頷いた。
男は膝をつき、彼女の膝に頭を垂れる。その背に空いた穴を彼女は見つめた。
とめどなく流れていく血。床の亀裂から黒い海へと滴っていくそれは、贖いに似たものであったのかもしれない。
レアリアはゆっくりと男の髪を撫でる。けれどその指が彼の髪を抜けきる前に、男の体はその場から消え去った。
彼女は小さく唇を噛む。
「ネイ」
薄れて消える棘草。次の瞬間白い空間には、クレメンシェトラの慟哭が響き渡った。