駆ける

mudan tensai genkin desu -yuki

彼と彼女の歩幅は、本来大分違う。
それはレアリアがまだ自分の素性を伏せていた頃から分かっていたことで、当時は彼の後を走って追いかけてばかりいた気がする。
姿勢よく伸びた背を追いかけていく時間。レアリアの胸を焼いていたものは、焦燥と微かな希望だ。
まるで自分がただの少女になったかのような錯覚と、置いていかれるのではないかという思い。
渾然と渦巻く感情を、けれど不快と思ったことは、一度もなかった。



「アージェ」
道の先を行く後姿に、声をかけてみれば、彼は足を止めて振り返った。アージェは走ってくる彼女に驚いた顔になる。
「何だよ。どうした?」
「で、出かけるっていうから」
「すぐに戻る。夕方までには」
剣を携えているところからして、何かの仕事を頼まれたのだろう。
国を出てから四年、彼も当初は彼女の傍を離れることを滅多にしなかったが、レアリアが自衛の為の魔法を操れるようになってからは、平和な場所に限ってはこうして一人仕事に出ることがあった。
頭を撫でられたレアリアは息を整えると頷く。
「宿で待ってればいい?」
「うん。ってか顔色悪くないか? 送ってく」
「平気。ちょっと眠いだけだから。―――― 気をつけてね」
「……あんまり走るなよ」
言外に転びそうだから、と忠告して青年は踵を返した。
初めて出会った頃からは大分伸びた背に、レアリアは不思議な感慨を抱いて恋人の姿を眺める。



彼が名実共に彼女の騎士であった時代、その歩幅は彼女の知る限り、彼女と常に同じであった。
追い越すことも置いていくこともない、常に彼女の傍に在る騎士。
思えばその時レアリアは、彼がいるということ自体に甘えていたのだろう。こうして旅をするようになってからも、しばらくの間それは変わらなかった。
だがいつまでも、そのままの自分ではいられないとは分かっている。
彼についていてもらわずとも、その背を追わずともいいようにならなければならないのだ。



レアリアは一人道を宿へと戻る。
山中にあるこの小さな国はのんびりとした空気に包まれており、ここ十数年、大陸にあって異端な程争いごとから遠い場所であったのだが、国の真ん中を街道が通るようになってから色々と面倒事も増えたらしい。レアリアが病人の治療に回る傍ら、アージェなどは城からの依頼でそういった揉め事の解決に向かうことが多かった。
抜きん出た剣の腕で依頼を解決し続けているせいか、しきりと老いた国王に永住を勧められている彼の渋面を、レアリアは笑いを堪えながら思い出す。
これまでの道中、彼女の魔法をありがたがられることは多かったが、アージェの腕を正当に評価する権力者はほとんどいなかった為、彼女は恋人の嫌そうな対応にもかかわらず、悪い気分にはなっていなかった。
「騎士、か……」
随分懐かしい響き。レアリアは額の汗を拭う。
少し疲れているのかもしれない。宿についたら眠った方がいいだろう。
そう思いながら歩いていく彼女は、家もまばらな道の脇、走っていく子供たちに気づいて微笑んだ。彼らもまた笑って手を振ってくる。
―――― こうして平穏を平穏と認識出来ることは、或いは得難い感覚なのかもしれない。
だから幸福の裏側に常にある痛みも、彼女にとってはまた得難いものだった。
レアリアは浅く息をついて足を止める。
空を仰ぎ、改めて深呼吸をしようとした彼女は―――― そのまま道の真ん中で糸が切れたように倒れこんだ。



それから見た夢は、脈絡のない断片ばかりであった気がする。
彼女は暗い闇の中を一人走っていた。
何処に行くわけでもない道なき道。その上を、彼女はひたすらに走る。
背を追っていたわけではない。彼を探していたわけでも。
ただ立ち止まってしまえば、何もかも無になってしまうような、そんな気がして怖かった。



うっすらと目を開けた時、見えたものは白い天井だ。
宿の部屋ではないそこをレアリアはじっと見つめる。意識がはっきりとしないながらも、彼女は手をついて寝台に起き上がろうとした。
それを男の手が留める。
「寝てて」
「アージェ」
いつ戻ってきたのか。おそらく彼女が倒れたとの連絡を受けて駆けつけてきたのだろう。レアリアは申し訳なさに縮こまった。
「ごめんなさい……」
「いい。俺が悪い。当分この国に滞在するからゆっくり休んでて」
「でも」
レアリアはその時、部屋の隅に誰かがいることに気がついた。
白髪の、人がよさそうな老人。小さな椅子にちょこんと座っているこの国の王を見て、レアリアはぎょっと体を起こそうとする。それをまたアージェが止めた。
「いいから寝てて。話はついてる」
「話?」
「あなたたちが少なくとも二年は、この国に滞在するという話です」
「二年!?」
国王の言葉をさすがに無視できないレアリアは、アージェの腕にすがって起き上がった。恋人の緑の目を見上げる。
「アージェ、それって……私何か、時間のかかる病気なの?」
「いや、違うから」
「でも二年って」
それほどまでに長い間、一つの場所にいたことはない。そもそも彼らにはそのような安息も許されてはいないと思っていたのだ。
愕然とするレアリアに、王の穏やかな声が付け加えた。
「もっと長くいてもこちらとしては大歓迎です。子供を生み育てるにはどれほど時間があっても足りないでしょうから」
「…………子供?」
その単語はまるで未知の言葉のようにレアリアの意識の上を転がった。アージェを見上げると、彼は真面目な表情のまま彼女の肩を軽く叩く。
「そういうわけだから。のんびりしてて。走ったりしないように」
「…………え? え?」
「住居はこちらで用意しましょう。式の準備もしましょうか?」
「え?」



自分一人でも走らなければと思っていた。そうして彼に甘えることなく、その背を追うことなく、ただひたすら前へと。
足を止めてはいけない。俯いてはいけない。犯した罪を贖ってただ駆けていく。
―――― けれど、走り続けることが全てではないと、旅を始めてから数年後、レアリアは他者によって教えられる。
それは彼女が一生をかけてゆっくりと歩き始める、もう一つの道の始まりであったのだ。