楽器を弾く

mudan tensai genkin desu -yuki

大陸西端にある大きな港町は、隅々までもが潮の匂いで満ちていた。
活気溢れる空気。あちこちから商売人の声が聞こえてくる。
行き交う人々の服装は様々で、中には見たこともない不思議な貫頭衣を着ている人間さえ歩いていた。
一仕事終えたついでに初めての町まで足を伸ばしてきたケグスは、長くあちこちを旅してきてもまだ目新しい光景があることを実感し、歩調を緩める。町を一回りしてから小さな酒場を見つけ、そこへと入った。
薄暗い酒場は昼とあってそう客の数は多くないが、船員や旅人らしき人間たちが数人見られる。
流れの楽師が奏でる五弦の音が哀愁を帯びて、酒の香と混じりあった。
ケグスは奥まった一席に腰を下ろすと、やって来た店の女に琥珀酒を頼む。すぐにやって来た酒を味わう間、彼は荷物の中から色あせた手紙を取り出して読み始めた。

「ねえ」
女の声はすぐ上から聞こえた。
顔を上げると薄布のヴェールを被った楽師がそこに立っている。気づけば五弦の音はいつの間にか消えていた。小脇に楽器を抱えた女はもう一度ケグスに声をかける。
「ねぇ、ちょっと」
「女は要らない」
「違うっての。殴んわよ」
苛立たしげにヴェールを取り去った女の顔に、ケグスは軽く驚いた。数年ぶりに見たその顔。すっかり大人の女になった彼女を、彼はまじまじと見上げる。
「魔法士辞めたのか」
「やめてないっての」
投げやりと呆れが入り混じった声音。リィアは大きく肩を竦めると男の向かいに座った。

数年前、大陸最古の皇国が滅んだ際に行動を共にした二人は、その騒動から逃れた後はまったく別の行動を取っており、互いが何処で何をしているのかなど知る由もなかった。
或いは旅の傭兵と無所属の魔法士である彼らは、何処かですれ違うようなことがあったのかもしれない。
けれどあの一件以来、お互いを認識したのはこの小さな酒場でのことで、二人は時の流れの速さにそれぞれの感慨を抱いた。
自分も酒を頼んだリィアは、共通の知人について話題にする。
「で、彼、生きてるの?」
「生きてるよ。子供生まれたって手紙が来た」
「うわ。想像つかない」
数年前の騒動の際に渦中にいた青年は、今は小さな山中の国で家庭を持っている。
リィアの感想にケグスは同感と思ったが、半分では「似合っている」とも思った。
それはつまり、かつての少年が失ってしまったものを取り戻したというだけの話だろう。その価値を知っている青年は、新たな家族を大事にしていくに違いない。
ひとしきりこの場にいない人間の話をしてしまうと、ケグスは女に問うた。
「で、お前は今何してるんだ?」
「ああ。船待ってるの。西の大陸に行く船」
「……ああ」
ケグスは頷いたが、内心には驚きがある。
大陸を出る船は、三ヶ月に一便あるかないかだ。船賃も高価な上かかる日数も長く、戻ってこられるかどうか定かではない。
むしろ、商売人以外では戻る気のない人間こそが乗る船と言っていいだろう。
それ以上何もかける言葉を持たない男は、黙って酒盃に口をつける。
リィアは赤く塗られた唇で笑った。
「私、結構頑張ってきたけど、もういいかなと思って」
「そうか」
「あんたはまだずっと傭兵やってくの?」
軽い問いかけには、見せ掛け以上の重みが詰まっている。ケグスは口の中の苦味を味わうと頷いた。
「だろうな。死ぬまではな」
―――― 同じ人殺しにも、行き着く終わりの違いはある。
アージェともリィアとも違う道筋。自分がそれを選ぶのだろうということを、ケグスは最初から知っていた。
或いは彼らは皆何処かで、己の終着点を予感していたのかもしれない。

酒の瓶が空になるまでの沈黙は、不快なものではなかった。
リィアは銅貨をテーブルに置くと立ち上がる。
「じゃあね、私はもう行くから」
「ああ。……元気でな」
思い出したように別れの言葉を付け足すと、リィアは小さく噴き出した。「らしくない」と笑って、だが穏やかな目で付け足す。
「私ね、きっと普通になりたかったんだよ」
五弦の響きよりも染み入って聞こえる言葉。
その意味する感情に気づいたケグスは、ただ頷いた。
「なれるといいな」
「うん」
女はそうして、生まれ育った大陸を後にする。



テーブルの上には五弦が残されていた。
大陸南部の小国で生まれたという楽器。木の胴に五本の弦を張ったそれをケグスは手に取る。
決して高価なものではないのだろう弦には、黒い錆が浮かんでいた。軽く爪弾くと割れたような音が響く。
「幸福か……」
それは、彼にとって手に取らぬ酒と大差ない。
ケグスは五弦をそのままに席を立つ。
あとにはただ、物言わぬ楽器だけが薄暗い店に小さな影を落としていた。