登る

mudan tensai genkin desu -yuki

女皇の狂乱によって大陸最古の皇国が瓦解した後、もっとも多忙になったのは滅びたケレスメンティアの人間ではなく、彼の国に攻め込んだイクレムの王太子、フィレウスであったろう。
実際にケレスメンティアを滅ぼしたイクレム。元より共に攻め込んだセーロンは、かの国の要請で協力したということになっており、またケレスメンティアの民が避難させられたトライン領も、事前の密約通りイクレムの属領となった。
結果としてケレスメンティアに関しての処理はイクレムへと委ねられることになり、その任にはフィレウスがあたったのだ。
頑なな信仰を持って反抗し続ける捕虜や、黙秘を続ける神官たち、そして逃げ出した兵などの対処に追われての一ヶ月は、何もかもが一筋縄ではいかなかった。 手をつけてもつけても次から現れる問題たちを前に、 フィレウスは迅速にそれらを処理していく。
しかしたまに、邪魔者というものはすぐ眼前に現れるのだ。

「元気にしていたか!」
「……おおむねは」
イクレム城にふらりとやって来たアリスティドは、いつもと変わらぬ暑苦しさで手を上げた。執務室内にある長椅子に慣れた様子で腰掛ける。
彼は、従者の魔法士が申し訳なさそうにする隣で、出された冷茶を喜んで飲み干した。
その様子をフィレウスは見もせずに仕事を続ける。
「まだまだ忙しそうだな」
「ああ」
「色々難しいのか?」
「物によっては」
「がががっとやって、たまには休むとよいぞ」
「必要な睡眠は取っている」
「ケレスメンティアの草原など、子供たちと遊ぶにはちょうどよさそうではないか?」
「……何か私に隠していることはないか、アリスティド」
問いかけに問いかけで返すと、焼き菓子をかじっていた男は「ぐごっ」と奇声を上げた。喉につまらせたらしく、ばたばたと暴れ始める。
その様子を呆れ顔で見ながら、フィレウスは溜息をついた。



アリスティドが何か隠し事をしていることなど最初から分かっている。この男はそういう嘘がつける人間ではないのだ。
だがどのような嘘をついているか、吐き出させようとは思わない。たまにこうして聞いてみるのは、単にうるさい男を黙らせるためだった。
一人むせている友人を無視して、フィレウスは仕事を再開する。
―――― 第一何を隠されているのか、問わずとも見当はつくのだ。フィレウスは戦後集めた情報から、それが何であるのか大体推察していた。
少年時代から打ち崩したいと思っていたケレスメンティアの支配。まるでそびえ立つ山を登るかのような彼の道程において、女皇とは最後の障害であるはずだった。歴史を影から操り、大陸を呪縛する女。彼女を殺さなければ何も始まらないと思っていた。
だが実際のところ彼女は……フィレウスと同じ未来を思い描いていたのではないか。
城都から前触れもなく民を避難させた行為、最後に彼女がしたという演説、そしてトライン領を事実動かしていたのは彼女であったということ。
一つ一つの断片を並べてみれば、女皇の望んだ未来が窺える。
だがフィレウスは、それを誰かに言おうとは思わなかった。



喉に詰まらせた焼き菓子をお茶で流したアリスティドが、ほっと息をつく。
「そう言えば、弟君は今は何をしているのだ?」
「トライン領にいる。王族に戻る気はないといって、今はただの絵描きだ。アナの方には働いてもらっているが」
「何はともあれ、息災のようで何よりだ」
「それで、お前は何を隠しているのだ?」
「ぐぶっ」
お茶を啜っていたアリスティドは、今度は鼻から茶を噴き出した。隣にいたエルが慌てて布を差し出す。
非常にいつもの光景である二人を見て、フィレウスは密かに溜飲を下げた。書類を捲る手も若干早くなる。
―――― 女皇の真意に気づいたのは、ケレスメンティア城が陥落してからのことだ。
敵味方である自分たちが、同じ結末を望んでいたのではないかという可能性。
それはフィレウスに後悔を抱かせ、また嫉妬を覚えさせた。
署名の手を止めた彼はふっと呟く。
「時々、他にやりようはなかったのかと、自問することがある」
「む? というと?」
「いや……ケレスメンティアを滅ぼさずに済む道はあったのだろうかと思ってな」
女皇が同じ思いを抱いていたなら、平穏な話し合いのうちに時代を変えることも出来たのだろうか。
それはフィレウスの頭の片隅をちらつく後悔で、だが彼の思考は何処かで「そのようなことは不可能だった」と返す。
結果という道に舗装された可能性は、過ぎ去った小石でしかない。彼はかぶりを振って苦笑した。
「何でもない。大したことではない」
「そうか?」
「ああ」
考えても仕方がない。誰に残す気もない。全ては時折彼が過去を振り返って思うだけの空想だ。
フィレウスは再び書類へと視線を戻す。後悔は消え、残る嫉妬がちりりと頭をもたげた。
―――― もし自分が彼女の位置にいたら、何をしただろうか。
政務者として、歴史の転換点に在る者として、これ程までに実力と意志が問われる舞台はないだろう。
望んで得られるものではない機会。その一点に立った女皇を、フィレウスは少しだけ羨む。
城壁に立ち、兵士たちに真実を告げたという彼女がその時何を見たのか……彼は密かに知りたいと思っていた。



想像はいつも長くは続かない。
アリスティドの鼻歌で我に返ったフィレウスは、再び政務へと意識を引き戻した。調子はずれな歌を聞きながら、旧ケレスメンティア領土での問題に目を通していく。
忙しいことは苦ではない。むしろ充実した毎日だと思っているくらいだ。 彼はそうして、過ぎ去った道の小石を遠くに押しやる。
ペンを走らせるフィレウスに、アリスティドの強張った弁明が聞こえた。
「な、何も隠してないぞ!」
「そうか。別にどうでもいい」
「え……」
振り返るべきでないことは振り返らない。それが新たな時代を先導する者の役目だ。フィレウスは前を向いて、混沌を少しずつ解きほぐしていく。その過程において、過ぎ去った者たちを振り返るのは別の人間の仕事だろう。
彼は一呼吸置いて白い天井を仰ぎ見る。
望んだ理想へと至る山道はまだ終わってはいない。