捕まえる

mudan tensai genkin desu -yuki

「やあ、久しぶり」
「あれ、こんにちは」
小さな貸し家の戸口に出たクラリベルは、思わず目を丸くする。
そこに立っていたのは旧知の男だ。三ヶ月ぶりに現れたエヴェンを、クラリベルは怪訝そうな目で見やった。
つい吃驚してしまったのも無理もないだろう。彼女はエヴェンに三ヶ月前、別れの挨拶をしたばかりだ。
その後クラリベルは祖国へと戻ってきており、勿論勤め先も教えてはいなかった。彼とは今後会うこともないだろうと思っていたのだ。
そうしたところの再会に、クラリベルは軽い驚きを味わう。
「すごい偶然ですね。お仕事か何かでいらっしゃったんですか」
「いや、君に会いに来たんだよ」
「え、どうして?」
当然のように聞き返したところ、返答には一瞬間があったが、男の表情は揺るがなかった。
エヴェンは秀麗な顔立ちで微笑んでみせる。
「君の顔を見ると落ち着くから」
「……へー」
率直な声にはあまり年上を敬う気持ちは入り込んでいない。
クラリベルは自分の声を聞いてそのことに気づくと慌てて頭を下げた。
「それは、ありがとうございます……?」
「俺が好きできてるんだから、気にしないで」
「はぁ」
ケレスメンティアにいた時から感じていたのだが、どうにもこの男は何を考えているのか分からない。
クラリベルはとりあえずということで部屋の中に男を招き入れた。小さな食卓に彼を通し、お茶の準備をし始める。
エヴェンは穏やかな目で、手の行き届いた室内を見回した。

何を考えているのか、よく分からない男だが、ただ一つ分かることもある。 
それは彼がどういう経緯で自分のところに来ているかということだ。
以前と同じように「お土産」と言って差し出された二つの包みをクラリベルは見やる。
男の前にお茶のカップを置いた彼女は、自分も席につくと礼を言って包みを開けた。
一つは青水晶をあしらった銀の腕輪、もう一つは花の意匠が彫り込まれた木の宝石箱だ。
クラリベルは二つの贈り物をじっと眺めた。
「腕輪、ありがとうございます。それと―――― 届けてくださってありがとうございます」
この二年半、何度言おうかと思い、だが口にしなかった言葉。
エヴェンはそれを聞いて軽く片眉を上げた。クラリベルは木の宝石箱を手に取る。
「これ、兄が選んだものですよね。分かります。アージェはいつも、私に淡い紅色の花が入ったものを選びますから。
 いつまでも私のこと、子供みたいに思っているんでしょうね」
「そんなことはないさ」
カップを手に取る男はそう否定したが、クラリベルには自分の方が兄のことを分かっているという自信があった。
生まれた時からずっと一緒だったのだ。他の誰にも分からないことをクラリベルは知っている。
けれど彼女は、それを分かってしまう自分のことが少し厭だった。
「エヴェンさん、今まで私のこと、アージェに頼まれて見に来てくれてたんでしょう?」
―――― そうでなければ、貴族出身の男が自分などをいつまでも構うはずがない。
そしてクラリベルは、自分に本当のことが明かされない理由もまた察しがついていた。
「お兄ちゃんに頼まれたとか、お兄ちゃんから物を預かってるってことを教えると、また私が危険な目に遭うかもしれないんですよね?
 だからずっと黙っててくれてたんでしょう。……途中から分かりました」
クラリベルは宝石箱をテーブルに置く。コトリと固い木の音は、時を刻む針音にも似て聞こえた。
ゆっくりと流れていく時間。エヴェンは焦る表情を見せるでもなく微笑する。
「それで、もう心配ないから来なくていいって?」
「はい。アージェにもそう伝えてください。いつまでもエヴェンさんに迷惑かけるなって」
「迷惑だと思ったことはないけどな」
この二年間、彼は常に優しかった。
優しかったということ自体、子供扱いされていたことの証拠だろう。
クラリベルは、宝石箱の紅い花弁を指で撫でる。
「エヴェンさんって、なんか私の本当のお兄さんみたいですよね」
「…………」
「どうかしました?」
突然テーブルに突っ伏した男に驚いてクラリベルは腰を浮かしかけたが、すぐにエヴェン自身が手を上げてそれを制した。
「いや、本当の兄貴ってちゃんといるだろう? 俺、あいつに似てるところなんてある?」
「あ、違うんです」
エヴェンがアージェを思い出させるという意味で言ったわけではない。
彼ら二人は雰囲気からしてまったく異なるのだ。―――― だからクラリベルにとって、エヴェンの方が想像する「兄」に近かった。
「アージェは私にとって、兄だけど兄ではなかったんです。……血は繋がってないって、最初から聞いてましたから」
家族ではあったが、血族ではなかった。
そのささやかな違いを意識した時から、クラリベルは兄を名で呼ぶようになった。
きっとアージェ自身は気づいていなかっただろう。それは彼女の小さな拘りで、譲れない一線だった。
「私、多分アージェのこと、本人より分かってるつもりです。離れてた時期もあったけど、人間ってそうは変わりませんから。
 だからケレスメンティアで会った時、私すぐに気づいたんです」
「……何に?」
「アージェは、特別なひとに出会ったんだって」
もう消化しきったことであると思っていたにもかかわらず、それを口にする時、喉の奥がひりひりと痛んだ。
クラリベルは目を閉じて微笑む。



騎士となった兄と再会した時、クラリベルは分かったのだ。
彼の意識の中には常に、特別な誰かが佇んでいる。
狭い村の中だけを見ていたアージェは、彼女の知らぬうちに広い世界を知って、ただ一人の誰かを見つけたのだ。



クラリベルは黙っている男を見上げた。
「あの頃の私はまだ、そのことを素直に認められませんでした。でも今は違います。
 だからちゃんと分かってるんです。エヴェンさんも、『あの人』の為に私の無事を確認しに来てるんですよね。
 私は何の変哲もない人間ですし……」
彼の主君であった女性。
この大陸において誰よりも特別であった彼女は、きっと今でも兄と共にいる。
そしてその代わりにエヴェンが、クラリベルの安否を気遣って来てくれるのだ。
彼女はふっと息を吐き出す。
悲しくはない。ただ自分が何者でもないということが少しだけ寂しかった。



壁にかけられた花の絵は、彼女がこの家を借りた時よりあったものだ。
クラリベルはくすんだ紅色の花弁を漫然と眺めた。テーブルの向かいでカップの置かれる音がする。
エヴェンが何を言うのか、予想も出来ない。
けれどクラリベルは、自分が彼の善意を踏みにじったのだという予感は持っていた。
男を見上げると、彼は初めて見る種の苦笑を浮かべている。
後悔を思わせる苦味。落ち着いてはいるのだが、風化しきっていないその感情は、クラリベルが初めて見る男の素顔に思えた。
「あいつのことを俺が弁解するってのも変な話だから、俺は俺のことだけ言うけどさ」
「はい」
「正直あの人に関して、君には悪いことをしたと思ってる」
「悪いこと?」
「あの人は重い人間だから。相手があの人じゃなかったら、あいつも今頃普通に暮らしてただろう」
カップの中のお茶は空になっている。
何もないそこに一瞬視線を落とした男は何を考えたのか、自嘲気味に口元を上げた。
「あいつはまったくそういうこと気にしてなかったけどな。俺はその重さから逃げたんだ。
 俺じゃ無理だと思った。負いきれないだろうし、負うつもりもなかった。
 誰かに何かを委ねるような、そういう人じゃなかったんだ。俺はそれを当たり前のことだと感じてた」
男の話は抽象的ではあったが、クラリベルはその言わんとするところを察した。
一度城の中に入り女皇に面会が叶った時にも、彼女は不思議な違和感を覚えたのだ。
それは女皇に対しその周囲が持つ、温度差にも似た距離感だ。
神の代理人としてのみ在った女。彼女に向けられる視線は、一人の人間に対するものでは決してなかったと思う。
エヴェンはクラリベルの目を見て笑った。
「ま、そんなだから、俺はあの人に悪いことをしたとは思ってるし、状況を変えてくれたあいつに感謝もしてる。
 けどそれはそれだ。君に会いに来てることとはまた別」
「別、ですか?」
もう少し先程の話について聞きたかったクラリベルは、急に話を逸らされた気がして眉根を寄せた。
―――― だが考えてみれば、あまり他人が踏み込んでよい話でもないのだろう。
またいつもの真意が読めない笑顔を前にして、彼女は軽い困惑を抱く。
「でも会いに来てもらっても、私何も出来ませんよ」
「いいよ。俺が来たいだけなんだ」
「はぁ……」
何だか話が最初に戻ってきた気がする。
飲み込めぬ顔になるクラリベルに、エヴェンは「じゃあ末永くよろしく」と話を締めくくった。



何を考えているのかまったく読めない相手。
彼が、クラリベルの思う「普通」を欲しているのだと気づくには、その後しばらくかかった。
そうして彼の望んだ普通が二人の当たり前となった時、クラリベルは改めて兄のことを考える。
同じ家で育ち、同じ食卓を囲んできた家族。彼もまた、大陸の何処かで普通の時間を過ごせていればいいと願って。

「いや、多分そろそろ来ると思うよ。君の書いた手紙も同封しといたし」
「え?」
「割れそうなもの片付けとかないとな。剣も研ぎなおすか」
「え、どうして?」