噛む

mudan tensai genkin desu -yuki

宿の食堂は夕食時とあってか、中々の賑わいを見せていた。
料理のよい香りと酒の臭いが混ざり合い、客たちのさざめく声が木の壁に反響している。
食器の鳴る軽い音。男たちの笑声は商売の成功を祝うものだろうか。
先程までそのような活気に気を取られていたレアリアは―――― 向かいの連れにじっとりした目を向ける。
「アージェ、早く帰りましょう」
「ん。俺、まだ食べてる」
彼女と旅を共にしている青年は、食べる量からして彼女の倍以上なのだ。
食べる速度自体は彼の方が早いのだが、今はまだ串肉を食べ始めたところだった。
肉自体あまり口にしないレアリアは、食堂の壁際へと視線を移す。
そこには赤い薄衣に身を包んだ女がいて、先程からアージェを窺い媚態を向けていた。
酌女か娼婦か、もしくはその両方であろう肉感的な体を持つ女は、長身の青年に興味を持っているらしい。先程からレアリアが睨んでいるにもかかわらず、まったくそれを意に介していないようだった。
女は話をしていた客たちが帰ってしまうと、ゆったりとした足取りで二人の方へと向かってくる。当然のようにアージェの背後に回り、後ろから彼の横に手をついた。
「ねぇ」
顔を寄せての至近からの囁き。
レアリアはあまりのことに、手の中のカップを握りつぶしそうになった。
「な、な」
しかしアージェ本人は平然と、真横にある女の顔を見返す。
「酒なら要らない」
「そう? 他のものは?」
「他のものも」
「あああああ、アージェ!」
「うわ、何だよ」
唇が触れ合いそうな程顔を近づけて話している二人に、レアリアはテーブルを叩いて立ち上がった。
激しい振動に食器がカチャカチャと音を立てる。アージェは手を伸ばしてそれらを押さえた。
「レア、俺まだ食べてるって」
「そういう問題じゃないの!」
レアリアの剣幕に、アージェは怪訝そうな目で眉を顰めたが、女の方は艶やかに笑って彼に身を寄せただけだ。まるで見せ付けるように豊満な胸を彼の肩に押し付ける。
「……っ」
瞬間で血が沸騰するかのような感覚。
レアリアの周囲で、押さえきれない魔力がぱちぱちと爆ぜた。
さすがに異常を察したアージェが、女を押しのけて立ち上がる。
「レア」
「もう! アージェの馬鹿!」
「いや、なんで……」
「知らない!」
両手で激しくテーブルを叩くと、レアリアは身を翻す。
そのまま上にある部屋へと駆け戻った彼女は、自室に入ると乱暴に音を立てて扉を閉めた。



腹を立てても仕方がないのだ。
かつての身分を捨ててきた彼らは、その身分と共に明確な関係性をもまた失った。
主従ではない。恋人などでもない。
ただ彼らは互いを大事に思う友人同士で……だがそれでは踏み込めない領域というものもある。
分かっていてもレアリアは、その領域が怖かった。



一人になって深呼吸してみれば、何故癇癪を起こしてしまったのかという気分になってくる。
レアリアは寝台を前にしゃがみこみ、赤面する顔を押さえた。
「は、恥ずかしい……」
鈍感なアージェのことだ。まったく意味が分からずに、まだ食事をしているだろう。
次会った時にどう誤魔化せばいいのか、彼女は両手で頭を抱えた。
その時、部屋の扉が軽く叩かれる。
「レア」
「あああ!」
出たくない、とは思ったものの、出なければ余計怪しまれる。
レアリアはのろのろと立ち上がり鍵を開けた。すぐに扉が開いて連れの青年が入ってくる。
アージェは気まずそうな彼女の顔を見て頷いた。
「体調でも悪いのか? 具合悪いなら先帰っててよかったのに」
「あ、ああう……あの、違うの」
「違う?」
「ええと、その」
先程の女はついてきていないらしい。
よく考えれば分かることだ。アージェは基本、女性には親切にするが、それは相手が弱い存在だからであって、子供に対するのと変わりない。そしてそれ以上の好意を返すことは、まったくないのだ。
そうと分かっていながらカッとなってしまったのは、先程の女が自分にはない魅力を持つ女性だった為だろう。
レアリアは俯いて両手の指を弄った。
「ご、ごめんなさい。食事の途中で」
「別にいいよ。レアは終わってたし」
「でも……あの、ちゃんと食べてきて。ごめんなさい」
しどろもどろに謝罪するレアリアを、アージェは訝む目で見下ろす。
まったくない訳ではないすれ違い。彼はふと何かを思いついたのか、彼女の手を取るとかつてのように手の甲へ口付けた。
再び顔を赤らめるレアリアの視線の先で、指先にも口付けを落とす。
そうしてくれるのは、仲直りのしるしなのかもしれない。彼女は青年の名を呼びかけ―――― だが次の瞬間戦慄した。
ぞっとする温かい感触。口の中に含まれた指先に軽く歯が立てられる。
初めて味わう感覚に、レアリアは腰から崩れ落ちそうになった。その体をアージェが支える。
「危ない」
「な、なな、なに?」
「食べろって言うから。大体満足です」
腰に回された手。抱き寄せられているかのような状況に、レアリアは口をぱくぱくとさせた。
熱が上がりすぎて気絶してしまいそうな気がする。



明確な関係性を持たない二人。
その行く末は、様々な意味で不透明である。
とりあえずレアリアは癇癪を抑えるよう心に決めると、改めて彼に謝罪し離してもらったのだった。