天高く謳う 201

流れ出た血と共に空間から消え去った男。
空虚な死の形に、女の一人は黙ってそれを見送り、もう一人は狂乱した。
自らの手でディアドであった男を殺してしまったクレメンシェトラは、両手でこめかみを押さえて絶叫する。
「ああああぁぁっぁあああ!!」
意味の分からぬ金切り声。それに呼応して白い床は激しく揺れ、あちこちで亀裂が大きなものとなった。
空間そのものが急激に軋み始める。灰色の霧が一斉にひび割れからなだれ込み始めた。
アージェは目の前の裂け目を飛び越えると、慟哭する女へと向かう。白い首を目掛けて黒い刃を振るった。
勝利を予想しかけた一瞬。
しかし空間はそこで、粉々に崩壊した。



冷たく固い感触が体の左半分に伝わってくる。
取り戻された視界。元の世界に戻った時、アージェは顔の片側を床に強く押しつけられていた。
両腕はあわせて背の方に捻り上げられ、体の上には誰かが膝をついて乗っている。
ぎしぎしと伝わる痛みに、自分が現実に帰ってきたことを知った青年は顔を顰めた。
「って、何だよ」
「動くな。腕を折るぞ」
「またか」
思わず口にしてしまった感想に、青年を拘束するエヴェンは「何がまたなんだよ」と低い声で返した。
アージェは僅かに顔を上げて周囲の様子を窺う。
かろうじて見える狭い視界には、数人の神兵たちや魔法士の足が見えた。ロディの困惑した声が聞こえる。
「一体どうしたんだ、これは……」
「ディアドの乱心。外に漏らすなよ」
「漏らすなって言ったって」
「っ、ああああっ!」
突如上がった叫び声はクレメンシェトラのものだ。
その姿はアージェからは見えない。だが声の距離からしてすぐ近くにいるのだろう。
女皇の叫びに部屋の空気は一変した。アージェにかかる圧力が増す。女官が不安げに主君へ問うた。
「陛下、お目覚めになられましたか。ご気分は……」
「エヴェン!」
「は……」
罅割れた声で自分の名を呼ばれた男は、長椅子の上で意識を取り戻した主君に顔を向けた。
その下で押さえつけられているアージェがすっと厳しい表情になる。青年は自分の上にいる男に囁いた。
「エヴェン、俺を放せ。あれはレアリアじゃない」
「何言ってんだお前。狂ったか?」
「本当にレアかどうか、お前なら分かるだろ。クレメンシェトラに従うな。レアが殺される」
「クレメンシェトラ?」
小声での応酬は、女皇本人には聞こえていなかったらしい。女は悲鳴に似た声でエヴェンに命じた。
「それを牢に入れておけ! 二度と逃がすな!」
「陛下」
「殺してはならぬ……もうカルディアスの血を継げる者はほとんど残っていないのだ……」
消え入る語尾は先程のことを思い出しているのだろう。
アージェは弱々しい女の声に、今を逃せばもう好機はないと判断した。小声でエヴェンを急きたてる。
「早くしろ。レアを見殺しにするのかよ」
腕を捻り上げている男の手が、それを聞いて強張る。
しかしエヴェンは何も答えずアージェを放すこともしなかった。拘束を強めようと魔法士が近づいてくる。
振り出しに戻りかねない状況。アージェは舌打ちしたくなった。
「なら恨むなよ。そっちが悪い」
小さな呟きはエヴェンの耳にも届いた。反撃を予感したのか男は素早くディアドの首元を押さえようとする。
けれど一瞬早く、その腕には黒い糸が絡みついた。そのまま強く引き倒されそうになるエヴェンは、何とか左足で倒れそうになる体を留める。だが直後、彼の鳩尾には肘が叩き込まれた。
「ぐ……っ」
「邪魔すんなよ」
エヴェンの頚城から脱したアージェは、起き上がりざまその顎を狙って拳を振るう。男はそれを身を仰け反らせて避けた。
剣を奪われていたアージェは、左手に黒い長剣を生むとエヴェンへと踏み込む。
味方のいないこの状況では、混乱を利用して先手を打つしかない。
親衛隊筆頭騎士である男は、クレメンシェトラを除いておそらくもっとも手強い相手だ。アージェはまず最初にエヴェンを無力化させたかった。
しかし男はぎりぎりで己の剣を抜くと、黒い長剣をその白刃で受ける。
二色の刃がぶつかりあったのは一瞬。そこまでを予想していたアージェは更に半歩踏み込んだ。男の膝を思い切り蹴りつける。
「っ……」
剣を支えるエヴェンの力が緩んだ。素早く相手の刃を弾いた青年は、男の肩口目掛けて黒い剣を振り下ろす。
「やめよ!」
クレメンシェトラの制止は、アージェの剣に不可視の衝撃を与えた。その形が崩れ靄となる。
アージェはそれを認識すると反射的にエヴェンの反撃を避ける為、後方に跳んだ。
一瞬の間隙。近くにいた神兵に向かい剣を奪おうとするアージェは、「その声」を聞く。
「ネイ」
かぼそい女の囁き。今まで騒ぎにかき消されて聞こえなかったのであろうそれは、ベルラのものだった。
彼女は部屋の隅に横たわっている男の顔をじっと覗きこんでいる。
徐々に体温の失われていく体。精神の死によって息絶える肉体を、女は不可解な恐怖を持って見下ろしていた。白い手が必死に男の肩を揺さぶる。
「起きなさい……ネイ、起きて」
「もう起きないよ」
事実を指摘する言葉に、ベルラの体は大きく震えた。女は顔を上げてアージェを振り返る。
「どうして?」
「死んだからだ」
大きく見開かれる目。彼女は固い息を嚥下すると喘ぐように言った。
「そんなの、嘘です」
「嘘じゃない。ネイはレアを守った。レアを庇って死んだんだ」
静かな声音には虚偽の入り込む余地はない。
そのことを理解したのか女の瞳には絶望が溢れる。ベルラは死した男を見下ろすと、震える両手をその顔に伸ばした。
「あ、あああ、ああ」
頬に触れ、瞼に触れる。
魂のない体はゆっくりとただの物質に変じかけていた。女は彼の胸に顔を埋め小さな嗚咽を洩らす。
途切れ途切れの声はただ繰り返し呼ぶ男の名を呼ぶだけだ。
空気を震わせる悲嘆。
取り戻せないものに縋る女の様をクレメンシェトラは蒼白な顔で見ていた。
耐え切れなくなったのか目を背け耳を塞ごうとする女皇に、アージェは冷ややかな声をかける。
「ちゃんと見ろよ」
「何を……」
「見ろよ。お前が見たがってたものはこういうことだろ。逃げるなよ。ちゃんと見ろ」
自らの責と向かい合えと、そう指摘するディアドにクレメンシェトラはますます顔色をなくした。
今にも倒れこみそうな女皇は片手で己の顔を覆う。小さく首を横に振り始めた女を、アージェは溜息を飲み込んで見下ろした。
「クレメンシェトラ。お前が神代のことを忘れてるっていうならそれでもいい。記憶を奪われて取り戻せないなら仕方ない。
 でもお前はもう一度ちゃんと自分で考えるんだ。分からないなら何度だって言ってやる」
―――― 汝で叶わぬならその子を。足りなければ更にその子供を。
「神は間違ってる」
そうして呪われた血を継ぐ青年は、神代から続く最果て、再びその意を否定した。



目の奥が熱い。
クレメンシェトラは強張る指で瞼を押さえた。とうの昔に失われた熱が戻ってくる。
『たとえお前が思い出すことがなくても』
別れの時、彼はそう言った。
きっと言った。だからこんなにも胸が痛い。彼女は人の体から息を吐く。
『いつか誰かが、必ずお前に教えるだろう』
何を教えるのか、彼女は分からなかった。欠けてしまった彼女にはもうそれが分からない。分からないことが哀しかった。
『失われたものと同じものを、お前はやがて取り戻す』
彼は戻らない。けれどその血は継がれ続ける。
だから彼女は常に後悔していた。自らの存在が呪いの楔になっていることを。しかしその繋がりに執着していたのかもしれない。
本当は分かっていたのだ。断片は常に残っていたのだから、それらを繋ぎ合わせれば分かるはずだった。
虚構の人形。大陸の平定者。
脆くも愚かであったのは誰なのか。
彼の言葉は、こうして時を経て真実となった。



許されない背信の言葉。
アージェがそれを口にした時、周囲はどよめき強張った。驚きから一足早く抜け出た神兵が彼に斬りかかる。
けれど青年はそれを待って、振りかかる剣を避けると相手の手首を肘で打った。取り落とされた長剣を掬い取る。
そのままアージェは神兵の下腹に蹴りを叩き込んで蹲らせると、改めて剣を構えた。殺気立つ人間たちの中で一際冷たい敵意を湛えているエヴェンへ剣先を向ける。
「あんたも意外と頭固いよな」
「お前の不敬程じゃない。何故陛下のお心を汲めない?」
「汲んだからこうなってるんだよ。レアはこれ以上ケレスメンティアが大戦を起こすことを望んでいない」
「ケレスメンティアが……?」
男の秀麗な顔はその時、何か心当たりがあるのか僅かに顰められた。
アージェはエヴェンの後ろにいるロディが何か詠唱をしているのに気付く。
―――― もう後がない。
一旦引くかこのまま戦うか決断をしなければならないだろう。アージェは左手から布を紡ぎつつ、クレメンシェトラの様子を窺った。
女は両手で顔を覆っていてその表情は見えない。
青年は意を決すると、掛布ほどの大きさの黒幕を空中に広げた。神兵たちの表情が緊張に固まる。



「やめなさい」
凛と響く声。
唐突に場を貫いたそれは、今までの女皇のものとは異なる芯を持っていた。全員が長椅子の方を振り返る。
そこに座す女皇は青紫の瞳で臣下たちを睥睨すると、無形の威を纏って立ち上がった。
至高にもっとも近いことを表す紫の衣。最古の皇国の玉座に泰然と在る女は、人間そのものの目に強い意志を湛えている。
ディアドが無二の主人の名を呼んだ。
「レア」
「皆、剣を引きなさい。これ以上の争いは許さないわ」
静かな命令はその場にいた者たちの頭を冷やさせた。
それぞれが慌てて剣を収め詠唱をやめる中、アージェは神兵から奪った剣を床に捨てる。そうして黒い幕をも消した騎士に、女皇は優美な仕草で右手を差し伸べた。
アージェは周囲の視線にまったく物怖じせず、堂々と彼女の前に歩み寄る。白く美しい手を取り、その甲に口付けた。
「ただ今戻りました、陛下」
「おかえりなさい」
戻ってきたレアリアは泣き出しそうな顔で微笑むと、己の騎士にその身を寄せた。