料理をする

mudan tensai genkin desu -yuki

朝起きた時までは平熱だったのだ。
確かに体の節々は痛んだし違和感もあったが、体調が悪いという程ではなかった。
だが昼近くになって上がってきた熱に、起きていられなくなったのもまた事実だ。
宿の寝台に臥せってしまったレアリアは、くらくらする額を押さえて喘いだ。
「あつ……」
顔中が燃えているような感覚。彼女の同伴者である青年は「風邪を引いたのか」と聞いてきたが、そうではないだろう。
これはきっと精神的なものだ。自分の体の中を魔法で探ったレアリアにはそのことが分かっている。
今は部屋に一人でいる彼女は、額の汗を手で拭った。
「な、んか……何だろう……」
かつて子供の頃、レアリアはよく熱を出す子であった。
それは内側にいたもう一人の存在に子供の体が軋んでいたからで、けれどその時は一人寝込んでいることが非常に不安だったのだ。
でも今は、彼がいないことがありがたい。アージェがいたならレアリアの熱は上がっていく一方だろう。
彼女は熱の引かない頬にそっと触れる。

友人であり、騎士であり、そしてやはり友人であった青年。
彼とレアリアの関係性が変じたのはほんの昨日のことだ。
それまで彼女は、ずっと彼から「単なる友人」としてしか見られていないと思っていた。
自分たちの間に在る埋めることの出来ない一歩を、けれどそのままでいいと思っていたのだ。
過去を振り返れば、自分はそこまでを望める人間ではないし、望んでいい立場でもない。
ただ傍にいてくれるだけで充分で、想うだけで充分だった。
―――― そう思っていた。

「レア、まだ熱高いのか?」
扉を開けて帰ってきた青年は、手に盆を持っていた。
そこには何かの皿が乗っているらしく、白い湯気があがっている。レアリアは細めた目で彼を見上げた。
「まだ熱ある……」
「食べられる? なら食べた方がいい」
アージェは盆を寝台脇のテーブルに置くと、自分は寝台に腰掛けた。彼女の顔を覗きこみ、濡れた布で額を拭う。
ひんやりとした感触が心地よく、だがかっと熱くなる全身にレアリアは浅い息をついた。
「ア、アージェ」
「ん?」
「あの、そ、その」
―――― 聞きたいことがある。
レアリアは先程から胸中でその質問を反芻していたのだが、いざ口にしようとしても喉につかえて言えない。
彼女は自分を見つめてくる緑の目から視線を逸らすと、湯気の立つ皿を指した。
「それ、何?」
「スープ。厨房借りて作ってきた」
「アージェが!? そ、それって、赤い……」
「入れてない。レアちょっと辛くても駄目だもんな」
「ちょっとではないのだけど……」
味覚の違いについては、絶対一生埋まらないと断言出来る。
レアリアは体を捩って寝台の上に起き上がると、深い木皿を手に取った。
「あ、ありがとう」
「無理するなよ」
伸ばされた手は彼女を気遣うものであったが、レアリアはその指が触れる直前で反射的に固まった。
顔から手の先まで真っ赤になる女を見て、アージェは大体を察したのか立ち上がる。そのまま距離を取って窓際に寄りかかる青年に、レアリアは申し訳なさを覚えた。言えなかった疑問がスープと共に喉を滑り落ちていく。

彼女には、彼女の見えるものしか見えなかった。
だから昨日のことは、まったく晴天の霹靂と言える出来事だったのだ。
癇癪を起こして感情を吐露して、それで憐れまれるのだろうと思っていた。
だが彼が返してきたものは別のものだった。レアリアは匙を取る自分の手首に赤い痕を見つけて、思わず咽そうになる。 何とかそれを堪えるとスープを飲み終え、皿をテーブルに戻した。
「ごちそうさま。ありがとう……」
礼を言って窓際を見たレアリアは、ぎょっと固まった。
先程から何も言わないアージェは、ずっとそうしていたのか、深緑の瞳で彼女のことを注視していたのだ。
「……っ」
―――― 熱が上がる。死んでしまう気さえする。
咄嗟に両手で顔を覆ったレアリアは、襲ってくる眩暈に倒れそうになった。
精神を、思考を焼く火。内側に篭る熱をどうやって逃がせばいいのか分からない。
何かを吐き出そうとするレアリアに、アージェの苦笑する声が聞こえた。
「俺は下にいますから、何かあったら呼んでください」
「ま、待って!」
彼がいると熱が上がってしまう。
だが彼がいなければ不安で仕方ないのだ。そして何よりレアリアは、彼に聞きたいことがあった。
振り返ったアージェに、レアリアは必死の目を向けた。震える声が乾いた唇から漏れる。
「あ、あの、アージェ」
「うん?」
「わ、わわ、わわわわ」
「わわわ?」
「違うの!」
何処となく懐かしさを覚えるやり取りをレアリアは一息で打ち切った。勢いのまま問う。
「わ、私の何処がいいの……? あの、いつから?」
―――― 彼の背を、いつも目で追っていた。
その間彼の視線は、ずっと遠くを見ていると思っていたのだ。
揺らぐことのない青年の目がいつから自分を見てくれていたのか。考えても考えても分からない。
そんな風に考えすぎて、この熱は上がっていくのだろう。



緊張に息を飲むレアリアを、アージェは驚いたように眺める。
「そんなことが気になってたのか」
「そ、そんなことって……」
自分にとっては大事なことだ。そう言い募ろうとする彼女の前に、長身の青年が歩み寄る。
彼女の上に差す影は昨日のことを思い出させて、レアリアはとても直視出来なかった。
しかし俯こうとする彼女の手を跪いたアージェが取る。
「何処と言われても、あなたのそのままが好きですよ」
「そ、そのまま?」
「最初の時のこと覚えてる?」
―――― 重ねた手。
それは彼女にとっても印象深いものだ。見知らぬ少女であった自分の手を取ってくれた彼の手。
あの頃まだアージェの手は異能の漆黒に染まっていた。
溢れ出す懐かしさに目を細めたレアリアは、思い出に喉を強張らせる。
「覚えてるわ」
忘れるはずがない。あの時から始まったのだ。
泣き出しそうになって唇を噛むレアリアに、アージェは微笑んで見せた。 低い声が、見えなかった言葉を返す。
「あの時が最初だ。いつからかは、俺にも思い出せない」
過去を手繰り寄せて愛しむように、恋人である青年は白い手の甲に口付けた。
その姿にかつての少年が重なって見える。



見えるものしか見えなかった。知り得るものしか知らなかった。
だがレアリアはそれでいいと思っていたのだ。自分だけが抱く想いで構わないと。
けれど不意に想いは返された。まるであの時、彼が自分の手を取ってくれたように。
いつでも彼の手は、そうして当然のように彼女を救い上げる。



「ア、アージェ」
「何?」
「私も、あの、その……あなたが好きだから」
「今は知ってる」
取られた手を強く引かれる。
恋人の腕の中に転がり込んだレアリアは、緊張に身を竦めながら熱い息を吐き出すと、安堵の中でゆっくり意識を手放した。
汗で湿ってしまったはずの服は、起きた時にはきちんと着替えさせられていた。