撫でる

mudan tensai genkin desu -yuki

肉体の痛みにはとうに慣れたと思っていた。

緊張した気分は不安を微量に含んではいたものの、彼女に憂いをもたらす程のものではなかった。
もう何度したか分からない計算。テーブルの上に広げていた書き付けを見下ろし、レアリアは溜息をつく。
それを向かいに座っていたアージェが聞きつけ、顔を上げた。
「どうかした?」
「日数が……」
「ああ、そろそろなんだっけ?」
「うん」
か細い体に似合わぬ膨らんだ腹を、服の上からレアリアは撫でる。
──── ある時までは彼女にとって避けられぬ義務であり、ある時からは一生経験しないだろうと思っていた出産。
それを目前に控え、山中の国で暮らす彼女は、日々代わり映えのせぬぼんやりとした時間を過ごしていた。
かつて騎士であり、今は彼女の夫である青年は、部屋の時計を見ると顔を顰める。
「っと、もう行かないとな。面倒だけど」
今は宮廷に勤めている彼は、しかし頑なに王の臣下としての地位は拒んだままだ。
しかし老王はむしろアージェのそのような態度を面白がっているようで、事あるごとに彼を呼び出しては厄介な任務を委ねている。
今日も同様に城へと呼び出されているアージェは、けれど腹の大きい妻を置いていくことが嫌で仕方ないようだった。
しぶしぶ立ち上がる青年にレアリアは笑いかける。
「大丈夫。何かあったらお隣に行くから」
「何かある前に行っとけよ」
「掃除したら行くわ」
テーブルに手をついて席を立とうとする彼女に、夫の手が差し伸べられる。
騎士であった頃に身についたこのような仕草は、二人の関係が変わった今でも昔のままだ。
レアリアはくすぐったい気分を味わいながら礼を言った。
「ありがとう。いってらっしゃい」
「いってきます」
使い込まれた長剣を手にとって、アージェはこじんまりとした家を出て行く。
平穏な日常の風景。その姿を見送ったレアリアは、中に戻るとテーブルを片付け始めた。



初めに感じたものは軽い眩暈だ。
魔力を使いすぎた時に感じる朦朧とした気分。レアリアは椅子の足に捕まりつつ床にうずくまった。
「あれ……?」
子供を身篭ってからというものの、すっかり味わわなくなっていた感覚に彼女は困惑する。
女の魔法士は、妊娠すればうまく魔法を使えなくなるのだ。レアリアもその例に洩れず、次第に不調が現れたことでここ数ヶ月は魔法を使用することをやめていた。
その魔力がぐらりと揺れ動く感覚に、彼女は息を整える。
「なに、これ」
痛みはない。
だが予感はあった。
ますますひどくなる眩暈。レアリアは腹をかかえて倒れこむ。
正気が薄れていく数秒、自分の中の魔力が膨らんでいく気配がした。
「だ、め……」
このままでは暴走する。
レアリアは震える手で制御構成を組もうとした。けれど遅れてやってきた激痛がそれを阻む。
声にならない叫びをあげ、彼女は身を強張らせた。夫の名を呼ぼうとして息が喉につかえる。
全てが駄目になるという時は、このようにあっけないものなのだろうか。
レアリアは、己だけではなく子供の命が失われる予感に愕然とした。


このまま共に死んでしまうのならば、せめて自分の腹を裂けば赤子だけでも助けられるかもしれない。
そう思ったレアリアは、力を振り絞って厨房に向かい這い出そうとする。
──── その時、聞き覚えのない声が頭の上から降ってきた。
「あーあ。やっぱこうなるんじゃないかと思った。印つけといてよかったわ」
どこかあっけらかんとした女の声。
それが誰であるのか、レアリアは仰ぎ見ようとしたが体が上手く動かない。
代わりに白い手が彼女の額と腹に触れた。
「こっちの大陸には魔女がいないから、魔女並の魔法士の出産なんて対応出来ないだろうなって思ってたけど」
痛みが薄れる。魔力が抑えられる。
レアリアはそのことに信じられないほど安堵しつつ、熱い息を吐き出した。
「誰……?」
「さぁ? でも安心しなさいよ。あんたの代については面倒見てあげるから」
宙に浮く体。寝台に運ばれるのだと理解したレアリアは、その時ようやく自分の傍に佇む女を見やる。
金の瞳を持つ美しい大人の女。初めて見るはずの彼女はしかし、妙な懐かしさをレアリアに与えたのだった。


肉体の苦痛にはとうに慣れたと思っていた。
だがそこからの三時間は、レアリアにとって初めて知る種の痛みだった。
激痛に喘いでもがいて、見知らぬ女に叱咤されながら迎えた瞬間。
呆然と横たわる彼女に差し出された赤ん坊は──── 男の子だった。
歯を食いしばって起き上がるレアリアは、震える手で我が子を胸に抱く。そっとその頭を撫で、泣き続ける子を覗き込んだ。
「……クレメンシェトラ」
今はもういない存在。
その名を何故呟いてしまったのか、自分でもわからない。
血の解放を喜ぶ気持ちとのしかかる空虚が、渾然となって渦巻く。ただの青となった瞳より涙が溢れた。
「喜びなさい。あんたは自由よ」
女の声は、どこまでも優しくほろ苦い。
そしてそれは、レアリアの知る女のものに少しだけ似ていた。
螺旋のように継がれた血と使命。欺瞞と支配の呪縛。
その終わりに立つレアリアはこの時ようやく、ずっと共にいた女の死を、濁ることなく受け止めた。



赤子を取り上げてくれた女は、最低限の後始末を済まし子供の為の寝床をレアリアの傍に置くと、何の挨拶もなく消えてしまった。
あまりの唐突さに彼女の名を聞くことも忘れたレアリアは、唖然として寝室を見回す。
「誰だったの、かしら」
気紛れで、情に篤く、そして多くの痛みを知っているのであろう女。
謎めいた彼女が誰だったのか、その答をレアリアは、まもなく帰ってきた夫より聞くことになったのだった。