天高く謳う 202

腕の中に感じる主人の温かさは、アージェに久方ぶりの安堵をもたらした。
深い息をついて目を閉じる。今この瞬間が単なる通過点にしか過ぎずとも、確かな充足が胸の中には広がった。
レアリアは彼の胸に額を預けて一度頷くと、顔を上げ臣下たちを見渡す。
「お前たちはもう下がりなさい。この件に関しては口外を禁ずる」
「陛下……」
「あとは、シンを呼びなさい」
女皇の命令に、神兵の一人が急いで部屋を出て行った。
主君にいつもの威厳が戻ったことで、皆今いる場所が女皇の寝室であることを思い出したのだろう。ある者は恐縮した面持ちで、ある者はそそくさと開かれたままの扉から退出していく。
レアリアはその中の一人、長身の騎士の名を呼んだ。
「エヴェン」
振り返った男は相変わらずの整った顔立ちではあったが、そこにいつもの軽妙さはない。
表層的なものが剥ぎ取られたかのように硬質な面持ちを見せる彼は、主君へと向き直った。
「何でしょう」
「もう分かっているんでしょう?」
単語を削っての確認。エヴェンは軽く眉を上げた。部屋を立ち去りかけていたロディが微妙な表情で振り返る。
主君に問いかけられた男は口を開いて何かを言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだらしい。真顔でレアリアに相対する。
「何のことでしょうか。分かりかねます」
「そう。私はどちらでも構わないわ。お前がどちらを選んでも。好きにすればいい」
レアリアの声には甘さも優しさも感じ取れなかった。
突き放すわけでも縋るわけでもなく、ただありのままを呈するが如き態度は、確かに玉座に在る女のものであったろう。
エヴェンはしばらく女皇とその騎士を見ていたが、優雅な仕草で礼をすると踵を返した。
困惑顔のロディの肩を叩き、男の姿が扉の向こうに消えると、レアリアは部屋の隅を振り返る。
そこには彼女の為に死んだ男と、その傍らでじっと座り込んでいる女が残っていた。
レアリアはネイの遺骸に歩み寄ると傍に膝をつく。白い手が彼の額に触れた。
「ありがとう」
かつて片翼だった騎士に向けた労い以上の言葉。
自失していたベルラがゆっくりと主君を見る。青い目が澄んだ水を宿してまたたいた。
「彼は、己の役目を果たしましたか」
「ええ。充分過ぎる程に」
「ならわたしは、喜びたいです」
傾いて今にも倒れそうな精神は、立ち続ける為の拠り所を何処かに探しているようである。
レアリアはけれどベルラの瞳を見返すと首を横に振った。
「悲しみなさい」
しんと冷える空気。瞠目して主君を見たベルラは、改めてネイの死に顔に視線を落とす。
全ての欺瞞を雪ぐ命令。女は震える手で口を押さえると声を殺して泣き出した。



レアリアは、ベルラが表面上は落ち着きを取り戻すと、荷物を纏めてトライン領に移動することを命じた。
既にほとんどの民が避難を終えたことを知っている女は目を瞠って主人に返す。
「何故でしょう。わたしは陛下の影です」
「必要になったら私から呼ぶわ。それまであなたはトラインにいて。
 ……ネイは、城に埋葬するわ。あなたは嫌かもしれないけれど」
「いえ、ありがたいことです」
頭を垂れたベルラは不可解と不条理を飲み込んで、それでもレアリアに忠義を尽くす気があるようだった。
彼女は、ネイの遺体を運び出しに騎士たちがやって来ると、アージェの手を借りて男の体を彼らに委ねた。その後について女皇の部屋を後にする。
入れ違いでシンが来たとの連絡を受けると、レアリアは謁見用の小部屋に移り単刀直入に切り出した。
「今、外に出ている全軍を退かせるわ。命令書を作りなさい」
「全軍を、ですか」
「ええ」
「ですがそれを何故私に……」
軍に対しての命令は、普段は女皇からガイザスへと直接行われる。
その使者はディアドが担うことがほとんどであったが、命令書自体を作るのは政務官の務めだ。
であるからしてレアリアの命令はさほどおかしなものではない。シンが疑問に思っているのはむしろ「他の重臣たちに確認しなくていいのか」ということであろう。女皇は淡々とした態度で男に答えた。
「フォルレやキシンを挟むと時間がかかるから。すぐに取り掛かりなさい」
「はい」
「出来上がったらすぐに軍部総将に届けさせて。いい? すぐによ。ディアドではなく他の騎士を使いなさい。
 ―――― ああ、あと彼を呼んでちょうだい。私が招いていたでしょう?」
誰のことかとアージェは思ったが、シンはすぐに分かったらしい。「かしこまりました」と了承すると細かい箇所をいくつか主君と打ち合わせて出て行った。
アージェは二人きりになると、肘掛にもたれかかった主人の額に手を当てる。
「疲れていますね。熱はないようですが」
「少し。クレメンシェトラが長く出ていたし」
「今、彼女は?」
「分からない。黙っているわ。眠ってはいないかも。じっとしている感じ」
今はもうクレメンシェトラから切り離されているレアリアは、相手が意識を閉じてしまえばそれ以上のことは分からないのだろう。
疲労の溜息をつく主君をアージェは気遣わしげに見やる。
「大丈夫ですか?」
「これが終わったら少し休むから」
微笑して見せるレアリアは顔に差す翳のせいか、いつもよりも儚く思えた。
休むことを青年が促そうとした時、だが謁見用の小部屋には次の来訪者がやってくる。
恐縮して戸口で頭を下げる男。そのひょろっとした容貌にアージェは目を丸くしてしまった。
「ユーレン? 何でこんなところにいるんだ」
「私が呼んでいたの」
顔を上げた男はアージェを気にしつつもそろそろと部屋の中に入ってきてレアリアの前に立つ。
椅子を勧められると彼はおどおどとした様子でそこに座った。女皇は穏やかに笑いかける。
「出来たかしら」
「ええ……これでよろしいでしょうか」
ユーレンが差し出したものは十数枚の論文に見えた。レアリアは軽く頷くとそれに目を通し始める。
全てを精密に読んでいるのではないだろう。だが忙しなく文字の上を行き来する青紫の瞳は、何かに気付く度にまたたき、彼女はユーレンからペンを借りてそれを余白に書き込んでいった。
十五分程かけて全てを読み終わると、レアリアは論文を男に返す。
「希望以上よ。ありがとう。あとはそこに書いてある部分を少し直してちょうだい。参考資料も併記してあるから」
「は、はい」
「あと要旨をまとめて一枚にしたものを作れる? 分かりやすさを重視で」
「やってみます」
「急ぎで悪いのだけれど明日の朝までに。終わったら好きな資料を好きなだけ持って行っていいわ。充分な報酬も払いましょう」
何についての打ち合わせをしているのか、アージェにはよく分からなかったが、どうやらユーレンはレアリアからの依頼を受けて動いているらしい。
論文を纏めて抱え直す男に、青年は驚きから冷めぬまま声をかけた。
「大変なのか?」
「いえ、必要なものは全て揃えてくださっていますし……正直、光栄な話です。私でよいのかと身震いもしますが」
「あなたにしか出来ないわ」
レアリアの静かな声は、男の顔に確かな自信と安心感を与える。
いつの間にか暮れかけた日。論文を抱え込んだ男が急ぎの仕事の為に退出すると、女皇は深く息を吐いて背もたれに体を預けた。



食事は要らないというレアリアに、アージェは眠ることを勧めた。
女官の話では彼女の体はここ二日間、ほとんど睡眠を取っていないらしい。
元々そう体力のある人間ではない。このままでは倒れてしまうのも時間の問題だろう。
彼がそう忠告すると、レアリアは疲労しきった肉体を入浴で温めにいった。
ひどく慌しかった一日。日は既に落ちている。薄青い天空には細い月が昇っていた。
―――― この月の下、そう遠くない場所に敵軍が侵攻してきている。
国の一大事を意味するその事実は、だがアージェをさほど急き立てはしない。彼はただ最後まで主人の意に添おうと決めていた。
部屋の中が暗くなったことに気付くと、青年は燭台に火を灯し始める。
そうして五つ目の燭台に火を入れた時、浴室に続く扉が開いて女官たちとレアリアが戻ってきた。
主君の身支度は既に終わっているのか女官たちがそそくさと退出すると、アージェは自分も退出すべきか伺いを立てる。
白い夜着姿のレアリアはかぶりを振った。
「今は危ないからここにいて。誰が何をしてくるか分からないし。この部屋の中なら私が結界を張れるから」
「ああ、魔法が使えるようになったんでしたっけ」
「魔法構成の組み方をほとんど知らないから力技だけど。効果はあるわ」
レアリアはアージェについてきて長椅子の隣に座ると、気だるげにその体へともたれかかる。寝台に行くよう促そうとした青年は、ふと自分の左手の指に気付いた。
「ああ、そう言えば指輪をミルザに預けたままだった」
これはやはり不味いことなのだろうか。一応主人に断っておこうとしたアージェはしかし、レアリアが不透明な目で自分を見上げたことに気付いた。その一瞥に何かを察して沈黙する。
「アージェ、ミルザはね」
「はい」
その先の言葉をレアリアは切る。
躊躇うような女の表情に、アージェの頭の奥が震えた。「そんなはずがない」という思いがまず先に立ち、「まだ分からない」と続く。
だが青年は感情以上に現実を知っていた。動揺を飲み込むと抑えた声で確認する。
「ミルザは死にましたか」
「ええ。……ダニエ・カーラに乗っ取られてあなたを殺したと宣言したそうよ。そして神兵に殺された」
「嘘をついたんですね。あいつはちゃんとダニエ・カーラを御していた」
「そう」
歪に微笑むレアリアの表情は、薄暗い部屋のせいか泣いているように見えた。
本当は泣きたかったのだろう。だが彼女はもうそれをしない。アージェは喉の奥につかえた息を閉じ込める。
―――― 自分のせいだ、と思った。
けれどそれを言ってはレアリアに否定される。アージェは妹の死の原因を主人に負わせたくはなかった。
だから心中で思う。何故ミルザの手をあの時引いてこなかったのかと。
連れてくればよかった。目の届くところにおけばよかったのだ。
しかし、それを言っていたなら少女は怒っただろう。
『ディアドはただ一人の手を掴めればいいのだ』と。