天高く謳う 203

細くしなる月が、ぼんやりとした光を窓の外から注ぎ込んでくる。
その光に重ねられる燭台の火。アージェは広い部屋のそこかしこで闇が沈黙している様を視界に収めた。黒に近くなった瞳を伏せる。
静謐の世界は、いわば圧倒的な孤独の裏返しだ。
大陸最古の皇国、神に愛された国の頂点で、神を否定する女皇と騎士は何処までも二人きりだった。
アージェはそっとレアリアの小さな手を取る。何も言わず握り返される手に、青年は目を閉じて痛みを伴う多くを嚥下した。
―――― 自分たちが難しい立場にいることは分かっている。
だからこれを聞くのは、最初で最後になるだろう。彼は自分にもたれかかる主人を見下ろした。
「陛下」
「なあに?」
「やるべきことが終わったら、俺とこの国を出ませんか」
レアリアは大きく瞠目する。小さな唇が何かを探すように震えた。アージェは繊細な美貌をじっと見つめる。

皇国ケレスメンティアは女皇の国ではあるが、国が彼女自身を守るわけではない。
そもそもレアリアは支配者でさえないのだ。神の代行者の器であり、その神に叛旗を翻した今、遅かれ早かれ彼女の居場所はこの国からなくなることは明らかだった。アージェはクレメンシェトラを前に、ネイ以外の誰もがレアリアを守ろうとしなかった現実を思い起こす。
二つの人格について、神の意について、説明すれば理解を得られるのかなどという期待は出来ない。民は皆信仰者で、信仰者は得てして頑なだ。
あれだけ形式的な信仰を嫌がっていたエヴェンでさえ、レアリア個人を庇いはしないのだ。
彼女に何かの目的と意志があることは分かる。だがアージェはそこから先、彼女の一生をこの国の為に使わせたくなかった。
レアリアは驚きから覚めると微笑む。
「ありがとう……とても素敵ね。嬉しい」
「苦労は多分させますが」
取り繕わず正直なところを口にすると、彼女は小さく噴き出した。
くすくすと笑う主人にアージェは苦い顔になる。
「嘘をついても仕方がないでしょう。俺は剣以外取り得のない人間ですから」
「なら私はそれ以上だわ」
彼女は両の手で青年の左手を包み込む。出会った頃から変わらない温もりが漆黒の肌に染み込んだ。レアリアは目を閉じて微笑む。
「そうなったら嬉しい。夢みたい」
少女が抱くに似た憧憬の吐息。
アージェは彼女が一生この国を出る気がないことを知った。



夜も更けつつある。まずは主人を寝かさなければいけないだろう。
彼はレアリアに断って立ち上がると、その体を抱き上げようとした。しかし手を伸ばしたところで別の物を差し出される。
「これは……」
「返しておくわ。あなたのものだから」
鞘に収められた黒い短剣。探していた神具を彼は両手で受け取った。礼を言って慎重に懐へとしまう。
これを使ってクレメンシェトラだけを殺す方法はまだ分からないが、レアリアが表に出られているうちに対策を考えなければならない。
後で色々試してみようと考えつつ、アージェは軽い躰を抱き上げた。すっかり元通りに整えられた寝台へ向かう。
レアリアは疲労の為か既にうつらうつらとしながら、半眼で騎士の青年を見上げた。
「アージェ」
「何ですか」
「あなたの妹さんね、トラインに避難させてあるから」
「クラリベルが?」
知りたいと思いながらも慌しさと引け目から中々聞けなかった妹の安否。
それを聞いてアージェは少しだけ肩の荷が下りた気がした。足を止め、主人に頭を下げる。
「ありがとうございます」
「あなたへの給金もまとめて彼女に渡してあるから」
「何で」
思わず率直に聞き返すと、レアリアは肩を震わせて笑う。
「あなたは色々と問題視されてるし。どさくさでキシン辺りに差し押さえられたら困るでしょう?」
「そりゃそうかもしれませんが」
クラリベルは兄の金を使い込むような人間ではないが、何だか母親に稼ぎを預けているようで落ち着かない。
口元を曲げる青年に、レアリアはまだ可笑しいのか笑い混じりに付け足した。
「だから後でちゃんと会いに行ってね。お金は彼女から受け取って」
「はぁ。まぁ、分かりました」
「約束ね」
妹との再会を主人に約束するとはおかしな気もするが、アージェは素直に頷く。
レアリアはそれで安心したのか目を閉じた。彼は広い寝台に主人の体を横たえる。
か細い躰は、改めて見ると重圧に反していることが不思議な程に頼りなかった。
燭台の火を反射して輝く白金の髪。青年は寝台の端から落ちかけている一房を指で掬う。
「俺は、別に金がなくても構いませんけどね」
「なければ困るわ。他に欲しいものがあるのなら考えるけれど」
「他に、ですか」
「言ってみて。明日は忙しくなるし」
レアリアは目を開けると起き上がろうとする。それをアージェは手で留めて寝台の縁に座った。
そのままじっと自分を見てくる男に、女皇は首を傾げる。
「思いつかない?」
「不敬な思いつきなら」
「別に構わないわ」
きょとんとした顔の彼女は、裏のない視線でディアドを見上げた。
年下の少女にも思える眼差し。アージェは苦笑すると手を伸ばしてその髪を撫でる。
「寝て下さい。明日は忙しいんでしょう」
「うん……おやすみなさい」
レアリアは目を閉じると、またたくまに眠りの中へと落ちていった。寝息で揺れる体に掛布をかけて、アージェは寝台を離れる。






月光が照らし出す街路は、今は人の姿がほとんど見られない。
数日前からの勧告で、城都に住む人間はほぼ全員がトライン領へと避難しているのだ。
だから暗い道に人影が見えないのは、時刻が夜更け過ぎである為だけではない。
自らの足で城都を一通り回った男は、建物の暗い影で足を止めると通信用の魔法具を取り出した。
調整して数十秒後、相手側からの応答が聞こえる。城都の現状を問う相手に、男は見てきたばかりの光景を報告し始めた。
「城以外の建物にはほとんど人は残っていません。……ええ、見回りもないですね」
相手からもたらされる情報は、ケレスメンティア軍が突如退却していったという話だ。
男は通信をしながら人気のない大通りにまで来ると、長い坂道の向こうに聳える城を眺めた。
高い城壁の奥に建つ荘厳な城は、今は蒼白い姿を夜の中佇ませている。
ただその一部は地上からの篝火で赤く照らし出されており、おそらくは帰城した軍がそこに駐留しているのではないかということを窺わせた。
男は見たままを相手へと報告する。
「城外に伏兵を置いているということもないようです。……はい。単なる撤退以上の様子はこちらからでは窺えません。
 …………政変があった可能性、ですか。なくはないでしょうが、可能性は低いかと。混乱が起こっている様子はありません」
男はそこまでを魔法具に囁くと顔を上げた。
砂を巻き込んで響く足音。見ると暗い道を、明かりを持った誰かが近づいてくる。
彼が動かずその接近を持っていると、やってきた魔法士は魔法具の明かりをかかげて男を確認した。
「こんなところで何をしている?」
城に所属していることが分かる聖職衣の魔法士は、人のいなくなった街に立っていた男を不審げに見やる。
「避難命令が出ていたはずだ。移動に遅れたのか?」
「ええ。少し仕事で地下にこもっていまして……」
何の変哲もない平民の格好をした男。だがその顔立ちには何処か気品が窺われた。
魔法士は、相手を貴族ではないのかと疑ってよくよく注意して見る。そして彼は、男の持っている魔法具に気付いた。
「それはお前―― 」
誰に連絡を取っているのかと詰問しかけた魔法士は、しかし次の瞬間声も上げずに石畳の上に倒れ込む。
その背後、暗闇から現れた女は、血塗れた長剣を一閃すると自らが殺した死体を覗き込んだ。
「宮廷魔法士ですか」
「おそらく。階級としては下のようだが」
「お怪我はありませんか、セノワ様」
「様はやめなさい」
何年経っても身分意識が抜けぬ妻に男は苦笑する。アナは恐縮して剣を鞘に収めた。
久しぶりに動きやすい軽鎧を身につけた彼女は、自らが歩いてきた背後を振り返る。
「やはり軍は全て城の敷地内に入れているようですね。
 普段は南西砦に駐留している軍も城に引き上げていますから、国内の武力はほとんどあそこに集結している状態でしょう」
「分かった」
セノワは妻の情報も加えると、再度魔法具を使い相手にそれを伝えた。
彼の兄である相手―――― イクレム王太子フィレウスは、一通りを聞き終わると弟夫婦に城には近づかぬよう命じる。
通信を切ったセノワは、真っ暗な街を月光だけを頼りに妻と歩き出した。
先程のように見張りが何処かにいるかもしれないので、闇が深い場所でも明かりを灯すことは出来ない。アナが男の足下を気遣う。
「お気をつけ下さい。石が落ちていますから」
「平気だから。アナは相変わらず心配性だ」
イクレムの宮廷にて幼馴染として育った二人は、今でも子供時代から変わらぬ会話を交わす。
そのやりとりをイクレムの人間が見たならば、信じられぬ光景に驚愕しただろう。
王太子の弟と大貴族の娘である彼らは、五年前離宮の火事にて焼死したとされる人間なのだ。
かつては女皇の皇配候補として名が挙がり、その為に他国の襲撃まで受けたセノワは、身分を隠してケレスメンティアに潜入していた年月を思い返す。

兄であるフィレウスははじめ、弟を女皇の夫としてケレスメンティアに送り込み、その内実を探る予定であった。
だがコダリスを始めとした周辺国の反発を受け、離宮に火まで放たれた結果、計画を変えざるを得なかったのだ。
その一件で死亡したことになったセノワは、代わりに幼馴染であったアナを伴って、若い夫婦としてケレスメンティアの城都に住み着いた。
そこからやがて来る日の為に情報を集め、兄に連絡を入れ続けていた彼は今、平凡な日々の終わりを実感する。
「ようやく決着がつく日が来るのか」
「何とか間に合いましたね」
「ああ。ケランは賛同してくれたようだ。コダリスは退いたらしい」
「私もほっとしております。少し淋しくはありますが……」
五年もの暮らしの間、彼ら夫婦に周囲の人間はとてもよくしてくれた。
そのことをアナは思い出したのだろう。白い顔に翳りが差す。
セノワは妻の横顔を眺めた。
「これが終わったら、君は家に戻るかい?」
彼女はイクレムでも有数の貴族の家の出であり、また実力で騎士の位を得た稀有な人間だ。
地位と名誉あるその場所に戻るのかと問う夫に、アナは笑ってかぶりを振る。
「いいえ。私はあなたと一緒におります」
「そうか」
大陸を縛し続けた皇国。
その支配が失われた後は、彼ら二人平穏に過ごせる場所が何処かに得られるのかもしれない。
セノワは夢物語のような現実を前に頷くと、隣を行く妻の手を取った。



そしてこの翌日、「ディメント・レスンティア」最後の日が幕を開ける。