天高く謳う 204

彼ら二人の名は、ケレスメンティアの歴史に深く刻まれる。






その日はよく晴れた朝だった。
薄青い空には雲一つない。ただ北の山から吹いてくるささやかな風が冷えた空気をもたらすだけで、それは普段と何ら変わらぬものであった。
いささかの肌寒さを覚えて目を覚ましたアージェは、長椅子の上に体を起こすと頭を振って意識を覚醒させる。まだ眠っている主人を確認すると、控えの間まで出て女官に朝食を頼んだ。ついでのように城内の状況について探りを入れる。
「今、もう軍は戻ってきてるのか?」
「ええ。宿舎内に入りきれない方たちは外に野営用の天幕を張っていますよ。昨晩は食事の手伝いが大変でした」
「なるほど」
「それでも戦場にいるよりずっと休まるでしょうから。一息つけますわね」
ふっと顔をほころばせる女官は、軍の退却を戦争終結の前触れと思っているのかもしれない。
そうではなくただ兵たちの安息を願っているにせよ、その素朴な感情は幾許かアージェを安心させた。
朝食を待つ間、彼は女皇の寝室へと戻る。
ちょうどそこでは目が覚めたらしいレアリアが、寝台の上でぼんやりと座り込んでいた。
彼女はアージェの姿を見ると、慌てて乱れた髪を両手で押さえる。その様に青年は思わず笑った。
「女官を呼びましょうか」
「う、うん」
「隣の部屋で待ってますから」
アージェが小部屋に戻ろうと踵を返すと、その背に女皇は声をかけた。
「もしユーレンが昨日頼んだものを持ってきたら、シンに命じて印刷に回しておいて。要旨の方を優先で」
「はい。どれくらい刷らせますか」
「シンが判断するわ。そうしたらユーレンには昼頃にはトラインに移動してもらってちょうだい。報酬は好きに選んでもらって構わないから。
 ああ、資料本が重くなると思うし、城内が騒がしいから、護衛を兼ねて向こうの転移陣まで手伝ってあげて」
「かしこまりました」
大して難しいこともない命令に彼は了承の意を返す。小部屋に移動して女官を呼ぶと、彼女たちは主君の支度を手伝う為に足早に寝室へと消えていった。

しばらくして小部屋に用意された朝食はアージェの頼みで兵食に似た簡素なものであった。
味や質よりも、短時間で必要なものを取れればいい。
毒殺される可能性を考えなくもなかったが、そこまでの手を打つ者もいなかったようである。
さっさと食事を終えたアージェは、面会を求めてきたユーレンの疲労した顔を見て驚く。
「徹夜したのか?」
「ええ……直しだすとあちこちが気になりまして」
いささかやつれてしまった男は、青年の向かいに座ると持っていた論文を差し出した。
昨日見たのと同じ十数枚のそれと、新たに頼まれた一枚の要旨。
アージェは紙の束を受け取ると主人からの言付を告げた。
「よし、確かに受け取った。あとは好きな本とか選んでトラインに行けってさ」
「それは伺っていますが……あの、本当によろしいんでしょうか」
「いいんじゃないか? 陛下が仰ってるんだし。
 っと、あんたの荷物運びの手伝いを命じられてたんだった。昼頃行けばいいか?」
「あ、はい。お願いします」
本の運搬など、力のないユーレン自身には大変だろうが、アージェには大した手間でもない。
二人は数時間後の待ち合わせを約束するとそのまま別れた。青年は一人になると何とはなしに要旨を読み始める。
彼自身は既に知っている内容。だがそれをユーレンが分かりやすく纏めたという紙の存在自体に、アージェは唖然とした。
「こんなの刷ってどうするんだ……?」
これならばユーレンに護衛が必要であるのも頷ける。青年はなおも要旨を読みながら片手で前髪をかき上げた。
論文の方にも目を通そうとした時、朝の報告を持ってきたのかシンが現れる。
戸口をくぐってきた男はディアドの顔を見るなり淡々と告げた。
「命じられた通り全軍城へ退かせましたが、重臣の方々の反発が凄まじいです。途中で耳栓が欲しくなりました」
「ああ。あのうるさい親父三人組か」
「あなたの不敬にも磨きがかかってきましたね」
「取り繕うのが腹立たしくなってきたんだよ」
今のアージェは城内の人間を全員潜在的な敵だと思っている。例外は元からの知り合いでありケレスメンティアの人間ではないユーレンくらいで、エヴェンは勿論シンもまた、アージェは警戒の薄幕を通して見ていた。
それでも主人の命じた通り、ディアドは論文と要旨をシンへと差し出す。
「何ですか?」
「陛下がそっちの一枚の方優先で刷れってさ。数はあんたの判断に任せると」
「と言われましても。何の書類なのですか」
立ったままそれを受け取ったシンは、先程のアージェと同じく要旨に目を通し始める。
普段ほとんど表情の変わらぬ男から、みるみるうちに顔色が失われていく様をアージェはじっと観察した。
要旨を読み終わった男は愕然とした目で青年を見下ろす。
「これは、何なのですか」
「真実だよ」
―――― 主神ディテルについて、従来の教えとはまったく異なる解釈を記したもの。
西大陸から持ち込まれ偽書とされた資料や、城所蔵の禁公開の資料も多く用いられての要旨は、ケレスメンティアに広く浸透している信仰観を覆すものだった。

大陸分割後、主神となったディテルダ。
彼は「闘争による人の意志の顕現」を重視しており、選出者を通じてその為に闘争の奨励を行った。
神の作りしケレスメンティアと代行者である女皇は、いわば神の意を汲んで大戦を起こす為の監視者であり、調整者でもある。
しかしその主張を顕にすれば、ケレスメンティアは他国からの憎悪を受け存続しづらくなってしまうことは明らかだ。
結果、女皇はケレスメンティアを大陸の監視者として維持し続ける為に神の教えを糊塗し、耳障りをよくした聖典を掲げた。
ただ肝心の神意を言い換えた教えにその御名を挙げることは出来ず、女皇はディテルダという名を削ってディテルとし、その教えを広めた。
聖典において「生を尊び意思を強く持つこと」を教えているのは、「限られた生においてその意志を見せよ」という教えの意訳であり、また「民の無知を罪としない」という教えについては、「ケレスメンティアの為すことについて盲目であれ」という意味であった――――

主だった教えの表裏を見せるあまりにも衝撃的な要旨に、動揺したところなど日頃見せないシンの手が震える。
「これは何の妄言ですか……」
「論文の方も読んでみなさい。ディテル信仰を専門とする学者に、非公開の資料を与えて解釈させたのだから」
冷厳とした女の声。奥の扉から現れた女皇に、シンは蒼ざめた顔を向けた。
アージェは立ち上がって主君を迎えると、その手を取り彼女を椅子に座らせる。レアリアは美しい微笑を見せた。
「何か疑問があるなら答えるわ。その論文を読めは大体分かるとは思うけれど」
「これは本当のことなのですか?」
「そうよ。女皇は皆それを知っていたわ」
「……あまりにも馬鹿げています」
「そう? あなたならばもう少し落ち着いて判断が出来るかと思ったのだけれど」
レアリアは肩にかかる髪を手で払う。
傲然とした仕草には隙のない華やかさがあったが、それ以上に鋭い刃を思わせる威があった。挑戦的な目が臣下の男に向けられる。
「あなたは単なる信仰者ではない。信仰を学問としても捉えている人間だわ。
 だから原本を渡すのよ。それを読んで、あなたが必要だと思う分だけ刷らせなさい」
信頼とは異なる言葉は、だが確かに男を買ってのものであった。
シンは息を飲んで主君を見返したが、視線を手元に落とすと論文を読み始める。しばらくしてそれにざっと目を通し終わったのか息をついた。
「私がこれを衆目に曝したくないと言ったなら、私を処分なさいますか?」
「さあ? そう思う理由なら尋ねるかもしれないわ。
 信仰が揺らぐから? 妄言と皆が思うのならさしたる影響はないのではないの?」
「混乱が起きます。侵攻軍への統制が危ぶまれるかと」
男の返答は、信仰者ではなく政務官としてのものであった。それを聞いたレアリアは満足そうな笑顔を見せる。
「行きなさい。あなたに見えるもっとも遠くまでを見て動きなさい」
「陛下、あなたは」
「もう時間がない」
断定的な言葉にシンはそれ以上を留めた。主君の真意を窺う目。だが彼女は薄い微笑を湛えるだけで表情を変えない。
ややあって男は立ち上がると、論文を手に彼女の眼前から退出していった。アージェは主人に問う。
「大丈夫なんですか?」
「ええ。私としてはどちらでもいいから」
「どちらでもいい?」
「シンがあれを公にするのでもしなくても。どの道ユーレンがいつかきちんと発表するわ」
さらりとした態度を崩さない女皇は、本当に臣下の判断にそれ程の重きを置いていないように見えた。
或いはそれは好奇心に似たものであったのかもしれない。アージェはまるで人間を試すような気紛れを見せたルクレツィアのことを思い出す。
レアリアは愛らしい微笑みで己の騎士を見上げた。
「少し急ぎの手配を済ませないといけないから」
「執務室に移動しますか」
「今日はここで。うるさそうなのが来たら表で止めておいて」
軍を退かせたことを含めて、彼女は重臣たちの苦言を聞く気はないようである。
アージェはその旨を控えの間の文官に伝えにいくと、主人が執務を処理する間、案の定駆けつけて来た重臣たちの苦言を聞き流すことに終始した。



外はよい天気だ。
時間がないのは勿体無い、とアージェは思った。このような日には中庭で昼食を食べたらきっと気持ちがいいだろう。
だがそのような余裕はない。軍を退かせた今、留めるもののないイクレムとセーロンは城都へと真っ直ぐに進軍してきているはずだ。
アージェはレアリアが上手くそれを収められるのかどうか、さして心配はしていなかったが、楽ではないことは察していた。
昼近くなった頃、彼女の様子を見に行ったアージェは、書類を手にした主人に逆に聞き返される。
「ユーレンの手伝いはいいの?」
「あ、忘れていました」
「お願いだから忘れないで。彼の顔はほとんど城内に知れてないけれど、あれを書いた人間だと分かったら何をされるか分からないの」
「ですよね。ちょっと行ってきます」
シンが受け取った要旨と論文をどうしたのかは分からないが、ユーレンの身の回りに気をつけた方がいいことは確かだ。
アージェは長剣を確認すると謁見の小部屋を出て行きかけた。扉に手をかけ主人を振り返る。
「陛下はここに?」
「ええ」
「親衛隊を呼びますね」
「結界を張ってあるから。そう心配しなくても大丈夫」
書類を見たまま微笑む彼女は、まだまだ忙しそうである。
アージェは「昼食は取って下さい」と釘を刺すと彼女の私室を出た。ユーレンの待つ部屋へと向かう。
城に招かれてからほぼ軟禁状態だったという彼は、その間禁書扱いであった城の資料を多く与えられていたらしい。
出歩くことを禁じられていたのも、顔を城の者に知らせない為の配慮だったのだろう。
奥まった場所にある彼の部屋を訪れると、ユーレンは三十冊程の本を机に並べて荷を纏めていた。
相当古い貴書や当時の書類群も混ざっているらしいそれらをアージェは感心の目で見やる。
「凄いな。これ本当に持ち出していいのか?」
「私も不安なのですが、女皇陛下がそう仰っていますので、お言葉に甘えて……」
「まぁあの論文が表に出たら、資料を焼こうとする狂信者とか出てくるかもしれないしな」
「怖いこと言わないで下さいよ。これらが失われるなんてぞっとします」
二人は軽口を叩きながら丁寧に本を箱へと詰める。
そうしてユーレンは自分の荷物を、アージェは本の詰まった木箱を持つと、転移陣の間に向かって歩き出した。
長い城の廊下は、いつもと違ってひどく静かである。
今は他に人影もない。アージェは窓硝子越しに雲のない青空を見上げた。あの平穏が、いつか地上にまで降りてくるだろうのかと空想する。
「ユーレンはトラインについたらどうするんだ?」
「すぐに別の国へと移ります。出来るだけ辺境に。これらの本を守らなければなりませんから」
「そうか」
―――― いつかその中に、ユーレン自身の書くであろう一冊が加わるのかもしれない。
それこそがきっとレアリアの望んでいることだろう。アージェは重い木箱を持ち直した。



長い裾はよく磨かれた床の上に広がり、誰にも踏み込ませぬ彼女自身の領域を示しているようである。
天に対するほど堂々とした姿。女皇の正装を身に纏った彼女は、右手に持った儀礼用の皇杖を見上げた。感情を出さぬ貌に、回廊から戻ってきたエヴェンが声をかける。
「ご命令通りほぼ全員が集まったようです」
「そう」
報告を受けずとも、先程から聞こえてくるざわめきは彼女の耳に届いている。
シンが神兵たちに要旨を配っておいたのだろう。不審と苛立ちの感じ取れるどよめきは、女皇からの言葉を待っているようだった。
城に引き上げさせた兵たちを、急遽城の正面広場に集めたレアリアは、そこを見下ろす長い回廊への扉を前に息を整える。
護衛として主君についているエヴェンは、ディアドの不在について何も言わなかった。ただ感情のない目で彼女の姿を追っている。
レアリアは、不満を顔に貼り付けて控える重臣たちを振り返った。穏やかに美しく笑む。
「行くわ」
澄んで通る声は、何の不安も後悔も混ざりこんでいない。
レアリアは頭を下げるエヴェンの前を通り、回廊へと踏み出した。
外の空気。途端にしんとなる広場。神に仕える兵たちを、彼女は服の裾を引いて進みながら眺め下ろす。
そうして回廊の中央に辿りつくと、レアリアは一度目を閉じて空を仰いだ。
―――― とてもよい日だ。このような日であれば幕を引くにふさわしい。
彼女は一息に全ての感情を吐き出すと、神代の遺産を継ぐ女皇としてただ一人、約三万六千の兵たちの前に立った。