天高く謳う 205

転移陣の間の前には、見張りの兵士が一人いるだけだった。
いつもは二人いるはずの衛兵が一人しかいないことに、アージェは怪訝さを感じつつ、兵士の礼を受けて中へと入る。
トラインへと通じる転移陣は、案内板を見たところ全部で三つあった。城への一つと、城下町への一つ、更に国境に面した砦への一つを、青年は木箱を置いて確認する。
「町でいいよな」
「はい」
今回の侵攻において、進軍路のすぐ東にあたるトライン領は、イクレム・セーロンからの攻撃を受けていない。
それはイクレム王太子フィレウスとトライン領の間であらかじめ密約があった為なのだろうが、それを為させたのはレアリアだった。
アージェは主人がいつから何処までを予想して動いていたのか、ふと考える。
―――― いつでも彼女は、全てをアージェに教えてはくれなかったのだ。
クレメンシェトラのことも、ディテルダの真意についても、彼が自ら知るまでは進んで教えようとはしなかった。
もし彼女がはじめから全てを打ち明けてくれていたなら、彼はもっと上手く立ち回れていただろうか。
そうなっていたら何かが変わっていたのか、アージェは木箱を持ち上げながら考える。転移陣の前まで来たユーレンが頭を下げた。
「ここまでで平気です。ありがとうございます」
「向こうまでついてけって言われてるんだけど」
「そうですか? ディアドをそのようにお借りしてしまうのは恐縮なんですが」
「陛下は陛下で忙しそうだから……」
―――― 何故教えてくれなかったのか。
彼自身に信用がおけなかったからではない。アージェは最初からレアリア個人の騎士だった。
信仰を持たない彼は、主人の打ち明ける真相にさしたる抵抗を覚えなかっただろう。嘘が下手だからといって、それが全ての理由になるはずもない。
だが、レアリアは彼に多くを伝えようとはしなかった。
それは何故なのか。アージェは予感に似たものを抱いてその疑問に突き当たる。
決然とした女の後姿。静まり返った城内。頭の奥で警鐘が鳴った。
「……悪い。やっぱりここまでで」
「ええ。大変お世話になりました」
「また後で!」
青年は木箱を転移陣の前に置くと踵を返して駆け出す。扉を出ると、そこにいた兵士に問い質した。
「何で一人なんだ? もう一人は何処に行った」
「それが、陛下から緊急のお話があるとかで、今は皆集められておりまして……」
「どこに!?」
「し、城の正面広場です」
そこまでを聞いてアージェは走り出した。
真っ直ぐに伸びる無人の廊下。床を蹴る青年の足音だけが響く。



一点に注がれる視線。
理解出来ぬものを訝しむような男たちの目は、城の回廊に現れた女皇へと向けられた。
彼らが仰ぐ先に佇む女は、神の代理人として長らく見せ続けた姿のまま微笑む。皇杖の水晶が日の光を吸い込んで煌めいた。
他を寄せ付けない女皇の姿は、晴れた空の下、何よりも美しかった。
神聖なる象徴を目にした彼らは、先程困惑し憤りながら回し読んだ紙のことも忘れ去る。
胸の中に染み渡る信仰に、彼らは心からの誇りを抱いた。まだ若い神兵の一人が手の中の要旨を握りつぶす。
女皇はそのような兵たちを見回すとそっと口を開いた。
「神に仕えしケレスメンティアの兵たちよ」
透き通る声は、青空に溶け込むなく彼らの元に届く。
兵たちはその一言一句を聞き漏らすまいと息を詰めた。正面広場を埋めつくし、更に外へと溢れ出した神兵たちが皆異様に静まり返る。
「今日私はここに、真実を伝える」
宣言の出だしは柔らかなもので、多くの者は要旨に目を通しながら、これから主君の伝える内容がそれと関係があるとは思わなかった。レアリアは赤い口元に笑みを刻む。
「今あなたたちはようやく真実を知った。それを認めるかどうか、これからあなたたちが決断するのです」
ふっと吐く息と共に落とされた間。兵たちの間で小さな困惑が走ったのはその時だった。
「ようやく知った真実」とは何か。―――― 手元に目を落とせば答らしきものはそこにある。
たちの悪い冗談だと捨てかけていたものを主君に挙げられ、彼らの中ではざわめきが沸き起こった。
レアリアはそれでも微笑んでいる。回廊の隅、エヴェンが硬い表情で主君の後ろ姿を見やった。



城の中は、全ての人間が消えてしまったかのようにしんとしていた。
まるで夢の中の光景のようだ。だが今のアージェはそのようなことを考えてはいられなかった。
彼は正面広場に出る通路へと向かいかけて、だが不意にその足を止める。
もし本当に彼女が「それ」を為すならば、皆から見えるところに出るはずだ。
口に手を当ててしばらく、アージェは外に面した回廊の存在を思い出した。体の向きを変え、上り階段を探して走り出す。
白い廊下。天窓に嵌められた色硝子からは鮮やかな光が床に注がれていた。
その下を駆けていく青年は、太い円柱の影に階段を見つけ、迷わず上り始める。
「間に合えよ……」
もし今、レアリアに彼の声が届くとしても、彼女はきっと待たない。
止められたくないからこそ彼を遠ざけた。真実を伝えたがらなかったのだ。
長く続いてきた欺瞞の歴史。その上に何を以って終止符を打つのか、導かれる答は一つではない。
火種となりかねない強国の排除。皇国への侵攻。民への真実の公開と、そして最後に。
「……くそっ!」
幾度も折れ曲がる階段を彼は上っていく。
天までは遠い。だが彼女はそのすぐ下にいる。



淡々とした声は広場中に響いていた。
代理人であった女が、神の真意を明かす時間。兵たちの間には渾然とした動揺が広がっている。
レアリアは、しかしその空気に態度を変えることなく語り続けた。
「あなたたちは長らく歪曲した教えによって動かされ、大陸に燻る火を煽り立てていた。
 そしてそれはあなたたちに限ったことではないのです。あなたたちの父も、その父も、遥か昔からずっと……。
 ケレスメンティアはディテルダ神の命を受けて、大陸に幾度も大戦を生み出してきた。
 そうして人間を極限に追い込み、そこに現れる意志を神に捧げ続けていたのです。
 闘争が大陸から絶えぬよう常に監視する代行者―――― これがこの国の真の姿です」
神兵たちの間に配られた要旨を肯定する言葉。
回廊の隅でそれを聞いていた重臣たちのうち、一等神官のデウシスが主君の演説を留めようと足を踏み出す。
しかし憤然として歩みかけた彼は、抜き身の剣によってその進路を阻まれた。
己の長剣を抜いたエヴェンは、白く光る刃身によって回廊への出口を塞いでいる。デウシスは若い騎士を睨んだ。
「どういうつもりだ?」
「どうもこうも。陛下のお話はまだ終わってはいませんよ」
「あのような話を兵たちにさせておくというのか? 陛下はお疲れなのだ! お休み頂かねば」
要旨を最初から渡されていないデウシスらは、余程彼女の話が衝撃的だったのだろう。
主席政務官のフォルレは蒼ざめて固まり、普段から口煩くて有名な外務官のキシンは、唖然と口を開いたままになっていた。
エヴェンは回廊に誰一人出すまいと柄を鳴らす。デウシスは唾を飲み込んで鋭く光る刃を見下ろした。
「どうなるか分かっているのか?」
「勿論分かっていますよ。―――― これは陛下のご決断だ。あんたたちは黙って見ていろ」
低い声で恫喝され、デウシスは二、三歩後ずさった。エヴェンは男から視線を外し、レアリアを見る。
その時彼女は口を閉ざし、じっと神兵たちの様子を見下ろしていた。
次第に大きくなるざわめき。波のように起こるそれらは、出口を探してそこかしこに溜まり始めている。
お互い険しい顔を見合わせる兵たちを、レアリアは目を細めて見下ろした。
何処からか「本当のことを!」という若い男の叫びが上がる。女皇は首を傾げた。
「本当のことは今言った通り。それをどう捉えるかはあなたたちの自由だわ」
「神がそのようなことを仰るはずがない!」
悲鳴に似た反駁は、エヴェンに留められたデウシスからのものである。
レアリアは振り返って彼らを見ると笑った。透明な水晶を嵌め込んだ皇杖を何の躊躇もなく足下に放る。
その様は地上からも窺え、兵たちは一斉に息を飲んだ。静まり返る空間に皇杖の転がる硬い音が響く。
女皇は何も持っていない両手を広げた。
「ならば神が間違っているのか女皇が間違っているのか。あなたたちが今ここで決めればよい。
 私が神の傀儡か、妄言を吐く狂人か、それとも国を操る背教者であるのか―――― 」
天高く謳う声。
彼女は嫣然と笑んで人々を見下ろす。
何に屈する気もない堂々としたその姿は、見る者に転じて強い不遜の印象を抱かせた。
先程よりも大きくざわめき出す兵たち。レアリアは深く吸った息を言葉として吐き出す。はっきりとした口調で宣言した。
「私は、神を否定する」
そして彼女は喉を鳴らして笑った。



ようやく見えてきた階段の終わり。アージェは息を整えることもせずその先へと走り出す。
外からは夜の海鳴りに似たどよめきが聞こえてきていた。不穏な空気の混ざるそれは彼を芯から急きたてる。
青年は誰もいない守備塔を抜け外へと出た。
城の建物の外周に沿って作られた回廊。その西の角に立った彼は、広場を埋め尽くす神兵たちを見やる。
騒然とした空気はいつ何が起こってもおかしくはないだろう。アージェは遠く回廊の中央にレアリアを見つけた。
連綿と続く女皇の血。その終点に在る女は嬉しそうに笑っている。
ひどく鮮やかなその姿は息を飲む程に忌まわしく、清艶で、そして何よりも不吉だった。
「レア!」
声は届かない。
彼は回廊を駆け出す。
彼女が選んだ終わりは、神代の遅い幕引きだ。
ケレスメンティアの欺瞞を暴き、その呪縛を終える。
そして続いてきた歴史の最後に必要なものは―――― 女皇自身の死であろう。
彼女に残された時間は少ない。
レアリアは死ななければならないのだ。
民を欺き続けた神の代行者として。そしてクレメンシェトラをその身に宿すものとして。
彼女は全ての罪と忌避を負い、舞台を下りる。
それを知ったアージェは、途中の守備塔を走り抜けた。そこにいた神兵たちを押しのける。



狂ったかのように笑い続ける女皇。
彼女を見上げる兵たちには困惑と不信が広がっていった。主君の正気を疑う囁き声があちこちで聞こえる。
広場の前方にいた神兵の一人は理解出来ぬ事態に頭を振った。
「何だってんだ、これは……」
「そのままのことじゃないか」
ぼそりと低い呟きは、すぐ隣から聞こえた。男はそこにいた青年を見る。
陰気な貌の青年は神兵としては線が細く見えたが、弓を装備しているところを見ると後方配属の人間なのかもしれない。
実際のところ彼は元々異能者であり、ある決闘を切っ掛けに異能を失った人物であるのだが、男はそれを知らなかった。
神兵は蛇に似た目の青年に聞き返す。
「そのままのこと?」
「そうだよ。陛下が僕たちを欺いてたってことだろ……神の教えを捻じ曲げて、国を私物化して……。
 僕たちは何も知らなかった。女皇が戦争を操ってたんだ」
「陛下が、戦争を」
神は間違わない。
ならば神を否定する代行者は何であるのか。
「元々今の陛下はおかしかったんだよ。ディアドを選ばなかったり、いつまでも後継を産まなかったり……。
 おまけに最後には他所からディアドを連れてきた。よりによって神を否定するような下賤の輩をね」
「それは……」
垂らされた毒液はすみやかに広がっていく。
疑惑は分かりやすい結論へと沈殿し、昏い怒りへと変じた。
混乱し思考を放棄する者。多くを偽りだと断じる者。
女皇の精神を案ずる者。彼女の狂乱を畏れる者。
様々な反応を見せる男たちの中で、女皇に敵意を向ける者たちが現れ始めたのは避けられぬことであったろう。
何も言えない神兵が立ち尽くす隣で、青年は背に負っていた弓を手に取った。矢筒から一本の矢を取り出す。
「神は間違わない」
青年は矢を番えた。
鋭い鏃が回廊に立つ女皇へと向けられる。
それに気付いた周囲の神兵たちは唖然と口を開けたが、止める者は誰もいなかった。驚愕と、仄かに昏い期待がその場に立ち込める。
「彼女は、神を裏切った」
断罪の言葉。
それは一本の矢という形を取って、ついにレアリアへと打ち出された。
女皇によって描き出された終幕。兵たちは呆然と矢の描く軌跡を仰ぐ。
青空の下に立つレアリアは、晴れ晴れとした顔で微笑んでいた。



アージェの目の前に最後の守備塔が迫る。
その扉を乱暴に開けた青年は、中にいた重臣たちに一瞥もくれなかった。通路を塞いでるエヴェンへと向かう。
「どけ!」
「来たのか」
男は他を牽制していた剣を手元に引く。
秀麗な顔立ちに浮かぶものは冷ややかさで、それは諦観によく似ていた。アージェは自身の剣を抜く。
突然のディアドの乱入に、我に返ったキシンは罵声を浴びせた。
「全てお前のせいだ! この背教者めが!」
塔内に反響する叫びを無視し、青年はエヴェンへと走る。
足を止めている時間はない。
アージェはエヴェンを切り伏せようと剣を上げた。
しかし男は、己の剣を引くと道を空ける。
「行け」
すれ違う際に聞いた囁き。アージェは石段を蹴って正面回廊へと出た。
視界の隅に捉えた矢。レアリアは解放を前に微笑んでいる。彼は主人へと手を伸ばした。
「レア!」

『ただ一人の手だけ掴めればいい』

それだけのことだ。それだけの思いが彼らを繋ぐ。
レアリアは彼に気付くと驚いた顔になった。少しだけ困ったような、嬉しそうな目ではにかむ。
世界から音が消える瞬間。アージェは彼女のもとへと走る。
目の眩む一秒。
伸ばした手は、彼女には届かなかった。