悠久を誓う剣 206

『いつか誰かが、必ずお前に教えるだろう』






神を否定した女皇へと射られた矢。それは緩やかな弧を描いて彼女の胸へと向かった。
困惑していた兵士たちも憤っていた者たちも、皆が息を飲んでその様を見つめる。
長く続いた皇国の歴史。その幕引きを目前にして彼らは言葉を持たない。ただ微笑んで佇む女皇を注視した。
終わりが訪れるひととき。しかしその姿は、突如黒い幕に覆われる。
「レア!」
射られた矢を幕が飲み込む。
何も見えない暗闇の中、レアリアの細い体は黒い腕に抱き取られた。もう片方の手が異能の幕を払う。
突如回廊の上に現れた騎士は、呆然としている主人をその胸に引き寄せると、怒りに燃える目で広場を見下ろした。剣の如き声で言い放つ。
「―――― 滅びろ」
二人の周囲に黒い靄が沸き立つ。
戦場にて千人を越える敵兵を屠ってきた異能。忌まわしき澱の発現に兵士たちは顔を強張らせた。
広がる空の下、女皇に仕える騎士は、ゆらめく闇を立ち昇らせながら声を上げる。
「滅びろ。この国も、お前たちもみんな」
組み上げられた舞台を突き崩す言明。彼は主人を抱く腕に力を込めた。レアリアが青紫の目を見開いて青年を見上げる。
「アージェ」
震える囁きは彼以外の誰にも届かない。アージェは彼女を安心させる為、その背を叩いた。
回廊の端からデウシスが絶叫する。
「貴様! この異端者めが! お前のせいで陛下が……!」
「好きに言えよ」
アージェは憤懣を隠しもせず吐き捨てた。
崩れかけた幕引きの舞台、彼は居合わせる全ての人間に聞こえるようにと顔を上げる。
敵意と憎悪、そして恐怖の詰まった視線が異能の騎士へと集中した。青年は淡々と謳う。
「神を信じたいなら信じてろ。知りたくないなら耳を塞げ。―――― だが、これはもう変わらない」
靄が織られ薄幕となる。それは二人の周りをたなびき、女皇の服を染め上げた。
黒衣の女を抱く騎士は、冷淡そのものの表情で宣告する。
「今日が、この国の最後だ。愚かさを骨身に染みろよ。お前たちの仰ぐものは何処にもない」
意志を持つが如く揺らめく闇。白金の髪がその影に没した。
澄んだ天の下に広がる黒は、皇国に落とされた滴のように忌まわしく影を広げる。
深淵を思わせる色。天からもっとも遠い負がその腕の中に女皇を擁していることに、広場には剣呑などよめきが走った。
唐突な女皇の狂乱と棄教。それが何に起因するのか、彼らは分かりやすい一つの答に辿りつく。
「貴様のせいか! 貴様が陛下を……!」
「そうかもな」
広場から上がる声にアージェはあっさり頷いた。異能の象徴たる黒い左手を上げる。
「だけどな、主君を信じなかったのはお前たちの方だ。だからそろそろ自分の身で味わえよ」
投げ捨てられた宣告と同時に、広場の石畳には黒い波が生まれた。兵たちの足下に半透明の飛沫が上がる。
「―――― 神なんてものは、人間を助けない」
膝までを浸す海。それに気付いた人間たちの間から恐慌の叫びが上がった。
コダリス戦での光景を思い出した者たちは、異能の範囲から逃れようと下がり始める。
人と人がぶつかり、転倒し、怒声と悲鳴があちこちで上がった。
またたくまに起こる激しい混乱。逃げ惑う神兵たちをアージェは冷ややかな目で見下ろす。



清算が始まる時間。アージェが広場を睥睨していたのはほんの数秒間のことだった。彼はレアリアを抱き上げると身を翻す。
来た時とは反対側から回廊を去ろうとする青年に、背後から憎悪に満ちた声が投げつけられた。
「あの者を殺せ! 陛下を連れ戻すのだ!」
「誰がやるかよ」
口の中で呟いてアージェは東の守備塔へと走った。そこにいた神兵たちが剣を抜いて道を塞ぐ。
青年は主君を抱いたまま手を小さく振った。同時に黒い糸が二人の兵に絡みついて引き倒す。
その隙間を抜けると、アージェは一足飛びに塔内の階段を下り始めた。
「しっかり捕まってろよ」
「でも、アージェ」
「舌噛むぞ」
言うなりアージェは数段下の踊り場まで一気に跳躍する。上からは追っ手の声が聞こえた。
青年は混乱のうちに距離を稼ごうと、どんどん折れ曲がる階段を飛び降りていく。
ようやく廊下への出口が見えると、彼は主人の体を抱きなおした。レアリアが首に回していた両腕を解く。
「アージェ、あのね」
「何を言いたいかは大体分かる」
全ては覚悟の上であると言いたいのだろう。
ケレスメンティアの歴史は女皇の死を以って終わる。
彼女の狂乱によって兵たちは贖いきれぬ罪悪感から逃れ、操られた戦争を忌み嫌い、混乱のままにイクレムへと降伏するだろう。
そしていつか時が経ち皆に冷静さが戻る頃、人々はあらためてケレスメンティアの真実について考えるのだ。
女皇の主張を妄言と思い続ける者もきっと多数だ。だが中には本当のことに気付く者もいる。
大陸からは争いが消えはじめ、訪れる平穏から人は過去を振り返る。
―――― レアリアは、そのような未来の種を蒔いていこうとしたのだ。
「分かるけど、それはそれ。これはこれ」
まだ誰もいない城の廊下。磨かれた床の上をアージェは走り出す。
鮮やかな光の降り注ぐ道に、彼の足音はやけに響いた。
「俺たちがここで逃げてもあんまり変わんないだろ。大丈夫。みんな俺が悪いって思ってるから」
「そ、それ、全然大丈夫じゃな……」
「大丈夫だって。女皇が原因かディアドが原因かの違いだろ。
 悪い騎士が女皇をたぶらかして戦争を起こしましたって方が分かりやすい。俺が戦場で何したかみんな知ってるしな」
ほんの一時間前までレアリアを主君と仰いでいた人間たちには、その方が受け入れやすい結論に違いない。
それは結果として彼らの思考を奪ってしまうのかもしれないが、アージェはそこまで彼らのことを思いやってやる気がなかった。
ケレスメンティアの外では、考えなければ生きていけない環境に置かれている人間も数多いるのだ。
今まで微温湯に浸かってきた者たちが相応の思考しか出来ずとも、それは当然の結果でしかないとアージェは思う。
彼はレアリアを抱く手に力を込めた。
「もう陛下の役目は終わりましたよ」
廊下の向こうからは複数の足音が近づいてくる。
追っ手が追いついてきたのだろう。アージェは思っていたより対応が早いことを忌々しく思いつつ、主君を下ろし背に庇った。改めて長剣を抜く。
「ここからは、俺の仕事です」
角を曲がって現れた神兵たちは、二人を見るなり敵意を漲らせた。素早く廊下全体に広がって道を塞ぐ。
「大人しく陛下を渡して投降しろ!」
「何処にも逃げられんぞ!」
「レアは渡さないし投降もしない。変なところに放り出されたくなかったらそこどけよ」
威嚇というよりも事実を言っているだけの言葉に、五人の神兵たちは顔を引き攣らせた。
だがそれでも彼らは退こうとはしない。アージェは無言で一歩を踏み出す。
神に仕える皇国で、ただ一人彼女の為の騎士である男。
その背中をレアリアは何も言えず呆然と見つめていた。






ほぼ無人となったケレスメンティア城都。その近郊の草原に突如として現れた軍隊は、整然とした動きでその場から移動すると隊列を組んだ。すぐに元の場所に新たな部隊が転移してくる。
戦争前などによく見られる行軍転移の光景。それは一箇所に留まらず草原の数箇所にて行われていた。
少し離れた場所からそれを見守っていた男女が、感心の目になる。
「凄いですね」
「ああ。中々見られぬ光景だろうね。見ずに済むならそれに越したことはないのだろうが……」
周辺を見回り転移に支障なしとイクレム本軍に連絡したセノワは、驚きから覚めると妻を促して歩き出した。数年ぶりの再会となる兄に挨拶に行く為、祖国の本陣へと向かう。
アナは所属を明らかにする為イクレム騎士であることを示す紋章を腕に示しながら、夫の一歩先を歩いていった。
「それにしても、トラインがここまで協力してくれるとは意外な気もします」
「貰った転移座標が本物だった時は、私も驚いたよ」
今朝早くトラインから渡された城都近郊への転移座標は、はじめこそその真偽が疑われていたが、先遣の魔法士が調べたところ確かに本物であった。
その為イクレムとセーロンは急遽転移での行軍に切り替えたのであるが、これによりトラインへの信用はますます高まったと言えるだろう。
後にイクレム保護下の自治領となることが決まっているトラインは、既に先を見越して動いているのだ。
その割り切りには感心もするが、全てはこれからの一戦にかかっていると言っていい。
二人は驚く兵たちの間を抜け、イクレム騎士に迎えられると王太子の下を訪れた。
馬上のフィレウスは弟夫妻を見て懐かしそうに目を細める。
「久しぶりだ。元気そうで安心した」
「兄上もお変わりないようで、お会い出来て光栄です」
「そうかしこまるな。お前たちの功績は大きい。この五年間何度も助けられたからな」
王太子は苦笑すると顔を上げ、周囲に視線を巡らした。兄の意を悟ったセノワは声を潜める。
「ケランですか?」
「ああ。確認に軍を送りたいというから転移座標を一つ教えた。来るかどうかは分からぬが」
「大勢に影響はないでしょう。ケランには大した余裕もないはずですし」
「そうだろうな。だが、数ヶ国の盟主であった国が真実を知るということには、やはり意義がある」
それはこれからの大陸にとっては意味のあることだろう。セノワは黙って頷いた。
「アリスティド殿下は?」
「もう来ているはずだ。攻城用に魔法士を編成せねばならぬからな」
「それについてなのですが、どうやら先程から城内で騒ぎが起こっているようです」
兄弟の会話にアナがそう付け足すと、フィレウスは眉を寄せた。
「騒ぎ?」
「はい。近くまで馬を走らせた時、城壁の中から争うような怒声がいくつも聞こえまして……。
 聞き取れた単語は女皇や神や堕落など、繋がりがよく分からないものばかりでしたが」
「急に退いたことといい内部で何かあったか?」
三人は顔を見合わせてみたが、すぐには答も出ない。
それは考えても分かることではないだろう。
フィレウスは思考に沈みかけた意識を引き戻すと、改めて弟とその妻に視線を戻し、彼らの働きを労った。