悠久を誓う剣 207

女皇を攫うように連れ去ってしまったディアド。
その姿が見えなくなった回廊では、重臣たちが怒りの形相で二人を捕らえるよう命じていた。
キシンが己の髪を掻き毟らん勢いで叫ぶ。
「とにかく陛下を連れ戻すのだ! ディアドは殺しても構わん!
 むしろあのような負の者を生かしておくことは出来ぬわ!」
「は!」
怒鳴りたてられた神兵が走り去ると、守備塔には重い沈黙が訪れた。
苦々しい顔でかぶりを振ったキシンは、ふと隅にいるエヴェンに気付き、その平然とした顔を睨む。
「何をしている」
「何も」
「……確か貴様はあのディアドと親しかったな。最初から全て知っていたのか?」
絡みつくような問いは如実に批難を主としていた。エヴェンは白々と肩を竦める。
「何も知りませんよ。別に仲いいって程でもありませんし」
「なら先程の行いは何のつもりだ?」
重々しい声を割り込ませたのは一等神官のデウシスだ。女皇を止めようとしたところをエヴェンに留められた彼は、見定めるような冷たい視線を筆頭騎士に注いでいた。エヴェンはしかし、まったく動じることなくデウシスを見返す。
「親衛隊は陛下のご命令が最優先ですから。その原則に従ったまでです」
「陛下が正気ではないことはすぐに分かったろう」
「そうですか?」
「そうだ! 分かったならさっさとお前も陛下を探しに行け!」
キシンの怒声に、エヴェンは「分かりました」とだけ言うと階段へと向かった。そこへ今まで沈黙を保っていたフォルレが口を開く。
「エヴェン・アーカ・ルムス」
「……何でしょう」
「以前お前は、家のことを理由に皇配になることを辞退したな?」
「ええ」
「ならその意を汲んで、ルムス家については皇配輩出に伴う異動の免除を与えてやろう。
 ―――― お前が陛下の皇配になるのだ。拒否は許さぬ」
重い命令。だがそれは毒々しい響きに満ちていた。エヴェンは顔だけ振り返って三人の重臣たちを見やる。
女皇に仕えてきた騎士が持つ鋭い眼光。剣呑なその視線を、しかしフォルレは微動だにせず受け止めた。
無言の睨み合いは周囲に険しい空気をたちこめさせる。
エヴェンは笑いもせず聞き返した。
「あれだけのことをした陛下を変わらず玉座に置き続けると?」
「他に誰を置ける。陛下がお世継をお生みになるまでの話だ」
「そうやってあんたたちは、陛下に全部を押し付けていくわけですね」
男の反駁はさらりとしたものであったので、瞬間重臣たちはその意を取りかねた。
彼らが何かを言うより先に、エヴェンは軽く溜息をつく。
「人の女を盗るってのはあんまり好きじゃないんですけどね」
「下品な物言いをするな。それに、あのディアドこそあのままにしておくわけにはいかぬ。
 次代のディアドは傍系から出せばよいのだ。異能を失ったといえど、まだザルムシスが残っているだろう」
「分かりましたよ」
それ以上の話を聞きたくないかのようにエヴェンは命令を受諾した。
さっさと階段を下り始めた彼は、重臣たちの姿が見えなくなるとその言動を鼻で笑う。
「まったく、本当に今日でこの国も滅びるのかもな」
イクレムとセーロンが迫ってきているであろう現在、レアリアやアージェを捕らえることは本来二の次であるはずだろう。
彼らはいわばあの瞬間にケレスメンティアと決裂し、そして国を棄てたのだ。無理に引き戻そうとすれば被害が増す。
しかしデウシスらはそのことを理解せず、信仰と国の体制そのものにまだ拘ろうとしているようだった。
エヴェンは冷笑を浮かべると、のんびりとした足取りで階段を下りていく。
「さて。上手く逃げろよ、アージェ。俺は泣いてる陛下を抱くとか御免だからな」
他力極まる願望。鼻歌でも歌いだしそうな騎士の姿は、まもなく薄暗い階下へと消えていった。




城から脱出する手段と言えば、考えられるのはまず転移陣であろう。
しかしそれは相手側も分かっていたことらしい。レアリアを連れて追っ手を強行突破してきたアージェは、全ての転移陣が見事に叩き割られているのを見て、むしろ思い切りのよさに感心してしまった。それを為した神兵たちを見やる。
「これ、後で直すの大変じゃないか?」
「黙れ、背教者めが! 大人しく陛下をこちらへ渡せ!」
「背教者って。俺、信仰者だったこと一度もない」
平然と嘯いてアージェは周囲を確認した。彼の立つ場所は転移陣の間の扉の前であり、中の部屋と廊下にはあわせて三十人程の神兵や魔法士たちが包囲を形成している。
普通に考えれば後のない状況に、だが青年はさほど焦りを見せていなかった。剣を鞘に収めると、右腕にレアリアを抱え込む。
「撃て!」
魔法士たちの声が上がったのは、彼が何をするのか悟った為だ。
集中する攻撃。しかし四方から打ち込まれる魔法弾より速く、アージェは黒い幕を張った。
彼ら二人を中心として円筒状に立ち昇るそれは、全ての魔法攻撃を飲み込む。彼は腕の中の主君に確認した。
「ひょっとして、今レアって転移使えるのか?」
「つ、使えない……構成が難しくて、あの」
「あ、じゃあいい。普通に突破するから」
魔法士を捕まえて転移門を開かせるという手段も考えたが、本当に城外への転移門か、飛んでみなければ分からない。
罠にかけられる可能性もある以上、そのような危険はおかせないだろう。
アージェは薄い幕ごしに包囲を狭めてくる神兵たちを見回して肩を竦めた。
「こんなことしてる間にイクレムが来たらどうするんだよ」
「も、もう来るかも」
「早いな」
「今朝転移座標教えといたから……」
「…………」
小声でのやりとりは幸い外には洩れていないようだ。しかし、思っていたより問題は性急に動きそうである。
だがこれは、彼らにとっては好機かもしれない。アージェはひょいとレアリアを抱き上げた。
「よし、じゃあそれまで時間を潰すか」
「時間を潰すって」
「逃げる」
アージェは爪先で床を叩く。それを切っ掛けとして、彼らを囲っていた膜が四方へ爆ぜた。
網状になった膜は兵士たちを正面から捉え、その動きを束縛する。振り払おうとも離れない網に、女皇を追ってきた者たちは声を上げてもがいた。
「何だこれは!」
「怯むな! 追え!」
混乱する追っ手たちの間を抜け、アージェはその場から離れようとする。
しかし次の瞬間、彼は気配を感じて右へと跳んだ。二人がいた場所を長剣が通り過ぎる。
神兵たちの影にいた為、捕縛を免れた騎士は、傾いた目でアージェとレアリアを見た。
「神の名を穢す背信者めが……」
「なるほど?」
アージェはレアリアを下ろすと素早く剣を抜く。
追っ手たちに出されている命令はおそらく「アージェの殺害とレアリアの確保」だ。
しかし中には、女皇の背信を許せず死を以って償わせようとする人間も少なからずいるのだろう。
青年は彼女に矢が射られた時のことを思い出す。
「ちょうどいい。見せしめが欲しかったんだ」
「死ね! 穢れし罪人が!」
苛烈な宣告と共に打ち込まれる剣。
それはだが、アージェの剣に触れることさえ叶わなかった。
無言での踏み込み。空を斬る速度で振るわれた剣は、男の首を綺麗に刎ねる。
血を噴き上げて転がる騎士の頭を、ディアドは平然と見下ろした。
「満足か? これがお前の崇める神の望みだ」
昏い緑の瞳には淡々と燃える火が見える。
堂々と踵を返し女皇の手を引いて走り去るディアド。
その後を、生き残った者たちは束縛が消えても、すぐには追うことが出来なかった。



追っ手の数は時間が経つ程に増えているようだ。
レアリアの手を引いて走っていたアージェは、廊下の先から十数人の神兵たちが走ってくるのを見て体の向きを変える。手近な角を曲がり、近くにあった部屋へレアリアを押し込んだ。自分も中に入って扉を閉める。
中は小さな書庫となっており、どうやら過去の記録を製本して収めている場所のようだった。
アージェは隣で息を整えている主人を見やる。
「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょう、ぶ」
「走れなそうだったら背負うんで言って下さい」
「平気……」
膝に両手をついていたレアリアは顔を上げると微笑んだ。何処か哀しそうなその表情を、アージェはじっと見下ろす。
「後悔してますか?」
「何を?」
「俺をディアドに選んだことを」
―――― 綻びが何処から始まっていたのか。
それを先代女皇のディアドにあると見なすことも出来るだろう。だが彼にとって分かる始まりは、彼自身が騎士になった時だった。
悔いはあるかと問うアージェに、レアリアは少し驚いた顔になったが、すぐかぶりを振った。
「してない」
「そっか」
「やり方は他にあったかもしれないけれど……」
もし彼らにもっと時間があったのなら、穏やかに緩やかにこの国を変えることも出来たのかもしれない。
だがレアリアにはその時間が圧倒的に足りないのだ。
身のうちにクレメンシェトラを抱えている彼女は、肉体の限界自体が迫っている。
そもそも不穏な動きをすればクレメンシェトラに見咎められ、どの道精神の牢獄に繋がれていただろう。
微苦笑して目を伏せるレアリアの頭を、アージェは軽く撫でる。
「後悔してないならそれでいいです。張り切って逃げましょう」
「でも」
「でもはなし。誓ったでしょう。俺たちは生死を共にすると」
当然のものとして呈された言葉。レアリアは目をまたたかせて彼を見た。

それは初めて彼女の前に跪いた時のことだ。
彼女自身がそう言ったのだ。一対である女皇と騎士は全てを共にするのだと。
レアリアもまた誓いの言葉を思い出したのか、ほろ苦く微笑む。
「アージェ、あの言葉はね―――― 」
軽い金属音。
それが扉を開ける音だと気付いたアージェは、主人を背後に押しやった。剣を構え息を殺す。
大して隠れるものもない部屋だ。最初の一人が声を上げる前に斬り、後は異能を使って突破するしかないだろう。
大規模な異能の乱用のせいか先程からちりちりとした頭痛を覚えているが、それを言っていられる場合ではない。
彼は開かれる扉に全神経を集中させた。そして次の瞬間、思わず顔を顰めてしまう。
剣を構えるディアドを見ても何も言わない男は、部屋の中に入ると扉を閉めた。用件のみ切り出す。
「論文の方は五十部刷るのが精々でした。転移陣が破壊される前にトラインに送ってあります」
執務室に来ての報告とまったく変わらぬ調子で言うシンに、レアは苦笑する。
「ありがとう。最後に手間をかけたわね」
「特に手間とは思いません。短期的に見れば国の損でも、あれが国内から出たということはいずれは意義を持ち得るでしょう。
 ただ今は、彼のせいで大混乱に陥っていますがね」
「何だよ。ちょうどよかっただろ?」
すっかり聞き馴染んだシンの苦言にアージェは軽口で返す。男はそのようなディアドを見て溜息をつきたそうな表情になった。
「あなたのような人間が陛下のお傍についた時、こうなることも察するべきでしたね」
「今まで散々窮屈な思いさせられたしな」
「外からの空気が入ってくれば、景色が変わるのは致し方ないことです。
 あなたの遠慮のなさのせいでこの国は崩壊しますが―― 」
「シン」
女皇が眉を潜めて発言を留めようとしたが、男は動じず続けた。
「ただ長い目で見れば大陸にとってはこれでよかったのかもしれません。あとは、陛下にとっても」
幼い頃から彼女を知る男の目が、レアリアに向けられる。そこには幾許かの後悔と、ほんの少しの安堵があった。
シンはけれどすぐに視線を逸らすとアージェを見上げる。
「追っ手を少し撹乱してきます。その隙に左側に出て大聖堂へと向かって下さい。
 地下には非常用の転移陣があったはずです」
「分かった。助かる」
「嘘かもしれませんがね」
「おい」
前から掴み所のない男ではあったが、急場であってもそれは変わらぬようである。シンは薄暗い部屋を見回した。
「では、私はもう行きます」
「ああ。ありがとう」
扉に向き直った男は、まるで何かを思い出したかのように振り返る。
「最後に言っておきますが、私は別に信仰を棄てたわけではありません」
「……ええ」
「神のお言葉を聞ける者はもう何処にもいない。ただ人間はそのお心を探して卑小にもがくだけでしょう。
 ―――― しかし神は、そのような人の愚かさをも初めからご承知の上だと、私は思うのです」
今、皇国を揺るがしている混乱もまた、全て神の掌上だと言うような男の言葉に、レアリアは微苦笑すると頷く。
作られた聖典も、暴かれた真実も、人は共に掲げて足掻いていくのかもしれない。
だが大陸は、その足掻きをも乗せて動いていくのだろう。シンは一礼すると主君に背を向けた。何も言わずに部屋を出て行く。
アージェは扉に耳を寄せると外の音を拾った。
遠ざかっていく足音。 しばらくして遠く右の方で「向こうに行った!」というシンの声が聞こえる。
その声につられて扉の前を兵たちの足音が過ぎていった。辺りが静かになると、アージェは振り返ってレアリアに手を差し伸べる。
「行こう」
「うん……」
細く扉を開けて廊下を見ると、そこには誰もいない。
彼は主人の手を引くと、大聖堂の方へと駆け出す。レアリアは不安げな瞳を遠ざかる背後へと向けた。



女皇を見つけたとの声に集まった神兵たちは、しかし政務官の男が示した方向を探しても誰もいないことに苛立ちを見せた。騎士の一人が立ち去ろうとするシンに問い質す。
「本当に見たのか?」
「ええ。ですがもう逃げてしまったのかもしれません。見間違いではなかったと思うのですが」
残念そうにかぶりを振る男に、騎士は疑わしげな目を向けた。ぽつりと確認する。
「お前、陛下に重用されていた文官だろう。先程の妄言を書き連ねていた紙、あれを配らせたのはお前じゃなかったか?」
「何のことでしょう」
シンの顔にはまったく動揺が見られなかった。
だがその落ち着いた態度がむしろ神兵たちの神経に障ったのか、歪な視線が集中する。
広い廊下で彼を取り囲むように輪を作る兵たちを、シンは涼しい顔で見回した。先程の騎士が問う。
「正直に言ってみろ。お前が陛下を逃がしたのか?」
「正直に、ですか」
その質問は彼の何かに触れたらしい。シンは軽く首を傾けると息を吸った。
「正直に言わせて頂くなら、このようなことをしている場合ではないですね。
 侵攻軍は間近まで迫っているでしょう。迎撃の準備をすることの方が先決のはずです。
 女皇の背信は既に拭えない記憶として皆に残っているでしょうから、彼女を捕らえることもその血を継ぐことも現実的ではない。
 ここは彼女を背教者として廃位させ、今後は神官、文官、軍の三つで体制を保っていくのがよいでしょう」
「そのようなことを聞いているわけではない! 陛下について尋ねているのだ!」
「もう充分でしょう」
「は?」
唐突に冷えた男の声音。細められた両眼に、騎士は怪訝そうな顔になった。身を屈めてシンを睨む。
「どういうことだ?」
「陛下は充分にご自分の役目を果たされました。本当ならば、もっと早くにこの国を捨てることが出来たにもかかわらずです。
 ですがあの方は最後まで踏み止まっていかれた。実にご立派だったと私は思います」
「貴様! やはり逃がしたのか!」
怒声と共に振るわれた剣。それは迷いもせずシンの体を肩から切り伏せた。
衝撃でその場に倒れた男は、溢れ出す己の血を見て嫌そうな顔になる。
「まったく……恥ずかしいですね……このような狂信者を生んでしまうとは……」
「愚弄するか、背教者が!」
更に腹へと突き立てられる刃。シンはだが何の声も上げなかった。ただ残念そうに息をつくと、床につくかの如く目を閉じる。
遠ざかる世界。思い返す光景は十数年前のものだ。シンは深い感慨を胸に意識を閉じる。
それは幼くして一人になったレアリアの、孤独を飲み込んで毅然と立つ、小さな背中だった。