悠久を誓う剣 210

大聖堂までの道のりは遠い。
毎朝の礼拝時にでさえ遠く感じる城の離れは、今は人目を避けて進むがゆえに余計遠く、まるで迷路の向こうにあるかのように感じられた。
神兵たちを避けて小さな倉庫部屋に入ったアージェは、手を引いていた主人を気遣う。
「大丈夫ですか」
「うん……」
レアリアは頷いたがその顔色は悪く見えた。青年は彼女の頬に手を添えると小さな顔を覗きこむ。
伏せられた青紫色の瞳は、まるで何処か遠くを見ているようだ。汗の滲む額。アージェは指を伸ばしてその汗を拭う。
「ちょっと休みましょうか」
部屋は女官たちが備品類を片しておく場所なのか、細々とした小物や服、敷布や掛布が作りつけの棚に積み上げられていた。
アージェはそこに歩み寄り、綺麗に整えられた布を全て床に落してしまうと、それらで鳥の巣のようなものを作る。そうして主人を抱き上げるとふんわりとした中央に座らせた。
レアリアは片目を押さえながら苦笑する。
「子供の頃こういうことしてみたいって思ったわ。女官に怒られると思って言えなかったけど」
「夢が叶いましたか」
「そうね」
背もたれがない為、アージェは彼女の隣に座ってその支えとなった。レアリアは彼の腕に寄りかかって目を閉じる。

先程から城内の騒がしさは、彼らが逃げている為のものだけではなくなっている。
イクレムとセーロンが城に攻撃を仕掛け始めたのだろう。そのようなことを兵士たちが言い合っているのも聞こえ、追っ手にも焦りが見え始めた。
どちらが優勢かまではわからないが、これから増していく混乱は二人にとって追い風となるに違いない。
そのようなことを考えながら、青年は足にかかる白金の髪をじっと見つめた。
本来ならば自国の兵に追われ隠れることなどありえなかった彼女だ。その複雑な心中を思うと、彼の腕には力が入らざるを得ない。
アージェは小さな頭をそっと撫でる。
「ここを出たら他の夢も叶えますよ」
「本当に?」
「ええ。何かありますか?」
聞き返すとレアリアは天井を見上げる。青紫の瞳が子供のようにまたたいた。
「そうね……すぐには思いつかない。本当はいっぱいあったはずなのだけれど。いつの間にか忘れてしまったわ」
「なら思い出したらで」
アージェが軽く結論付けると女はくすりと笑う。その貌に翳りを見出したくないディアドは視線を逸らした。
レアリアは長い息を吐き出す。
「アージェ、ごめんね」
「謝るなよ」
「うん」
頷きはしたが、それで納得したわけではないのだろう。彼女は小さな両膝を抱えて縮こまった。
傷心しているようなその姿に何と声をかけようかと考えたアージェは、ふと棚に積まれている女官の服に気付く。
「あ、ちょうどいいな」
「え?」
青年は主人が倒れないようその背を支えて立ち上がった。棚から服を一式選び出し、目を丸くしている女皇へと手渡す。
「これに着替えてください。正装は動きにくいし目立ちますから」
「え、え?」
「……ひょっとして一人で着替えが出来ないとかですか?」
驚いているレアリアに確認すると、彼女は真っ赤になった。慌てて首を左右に振る。
「そ、そんなことない。多分出来る」
「多分」
「だ、大丈夫だから!」
大声を出しかけた彼女は、すぐに我に返ったのか口を押さえる。小さな部屋を見回すと、恐る恐る問うてきた。
「でも、あの、この部屋で着替えるの?」
「……廊下で着替えてたら問題ですよ」
平時であれば彼が外に出るのが礼儀ではあるが、追われている身でそれは無謀な行いである。
レアリアも状況を思い出したらしく、赤い顔のまま立ち上がった。
「じゃあ、目を閉じてて……絶対見ないでね」
「はい」
言いたいことがあるような気もしたが、アージェは素直に壁に向かうと目を閉じる。
背後では衣擦れの音と「え」「あ、あれ?」という困惑の声が聞こえてきたが、当然放置しておくことにした。
彼が着替えにかかるたっぷり三倍程の時間をかけてようやく「出来た」という声がする。
「振り返っていいですか」
「う、うん」
了承を受けアージェが振り返ると、レアリアは気まずそうな目でディアドを見上げた。
白い上衣の上に深緑の上下。更に白の前掛けをつけた彼女は、服装だけ見れば十代の少女のようだ。
平民にはまず見ない白金の髪と高貴な顔立ちは、さすがにいかんともしがたいものだろう。
アージェは主人の全身を眺め渡した。何も言わない騎士に彼女は耳まで真っ赤になる。
「着方間違ってる?」
「間違ってません。が」
「が?」
青年は彼女の前に歩み寄ると左手で頭を撫でた。レアリアがそちらに気を取られている隙に、左脇の合わせ目が開いて肌が見えているのを直してやる。彼が両手を離すとレアリアは首を傾げた。
「な、何?」
「いえ何でも。髪も結びましょう」
敷布を束ねていた紐を一本取ると、アージェは主人の長い髪を後ろで一つに結わえる。
まるで見習い女官のような様相になったレアリアを確認し、彼は頷いた。
「若干マシになりましたね。遠目ならばれにくいです」
「ほ、本当? おかしくない?」
彼女は足が出ていることが落ち着かないのか、しきりに服の裾を気にしている。
何だかその様子に懐かしさを覚えてアージェは笑った。
「似合ってますよ。昔を思い出します」
「昔?」
「可愛らしいです」
「う」
再び真っ赤になってしまったレアリアを置いて、彼は扉の前に戻り外の様子を窺った。足音や人の声は遠いが、騒がしい気配はまだ濃い。
「外を回った方がいいか……?」
大聖堂までは渡り廊下もあるが、そこを歩いていてはすぐに見つかってしまうだろう。
アージェは振り返ると主人に手を差し伸べた。走れるかどうかを聞こうとする。

―――― その時、彼女は大きく目を見開いて宙を見ていた。
ここではない遠くを見ているような双眸。美しい瞳に浮かんでいるものは驚愕だった。
愕然とした貌を前に、アージェは思わず息を飲む。
「陛下?」
「……アージェ」
返事があったことにまず彼は安堵した。確かに彼女の精神がここに在り、自分の声が届いていることにほっとする。
だがその目線は相変わらず彼を見ていない。アージェはレアリアの視線の先を追ったが、その先はただの白い壁しか見えなかった。
彼は緊張を覚えながら手を伸ばす。
「レア」
頬に触れる指。
レアリアの目がアージェを見た。そこに意志はあり、感情もまた窺える。
彼女は初めて出会う人間のように彼をまじまじと仰いだ。一拍の後、穏やかに微笑む。
「アージェ、私たち、大聖堂に行かなければならないわ」
「ああ」
城から逃げる為には、そこに行くしかない。
だがこの時、彼女の言葉には何かに相対する響きが滲んでいた。青紫の瞳が赤味を帯びる。
今まで彼が何を言おうとも逃げることに引け目を持っていた彼女が、何故「行かなければならない」などと言うのか。
アージェは無視できぬ予感を抱いた。「彼女」の言葉を待つ。
女は目を閉じると紅い唇を開いた。
「……『櫃』は以下の三つのうち二つの条件が満たされた時、開かれる。
 一つは皇杖の破壊。一つは『クレメンシェトラ』の死。一つは大聖堂の陥落」
同じ顔。同じ声。だが存在は異なる。
アージェはそれが誰であるのかよく知っていた。主人の体を使うもう一つの精神を呼ぶ。
「クレメンシェトラ。何の話だ?」
「真の平定者の話だ」
神代より在る女は目を開ける。赤に近い紫の眼が彼を見た。
そこにアージェは、今までの彼女とは違う意志の光があることに気付く。
クレメンシェトラは淡々と静かな声で告げた。
「条件はいわばケレスメンティアの滅亡だ。それが満たされた時、箱は開かれ平定者が目覚める。
 ―――― このままでは神の槍が動くぞ。大陸は再び分割される」
まるで不吉な予言。アージェはすぐには飲み込めぬ内容に唖然とする。
だが馬鹿馬鹿しいと思いつつ思考を中断しようとした彼は、ふと或る「箱」の話に思い当たり、そのまま静止してしまった。
過去の記憶、思い出の中でカタリナが笑う。
『つまりね! 伝説ではその箱を見つけて開けることが出来たら、この大陸からは全部の戦争がなくなるって話なのだよ』
「まさか、全ての戦争がって……」
大陸が沈めば、もう戦争は起こらない。
アージェは垣間見えた伝説の真実に、強張る手でこめかみを押さえた。



敵兵が城内に侵入したとの情報が入ってきた時、エヴェンは何をするわけでもなく城内をのんびりと歩き回っていた。
名目上は女皇を探すと言いつつ本気で探すつもりもない彼は、侵入者を知らせる怒声に眉を寄せる。
「俺もそっちに行った方がいいか?」
レアリアやアージェを捕まえる気はないが、イクレムやセーロンに国を明け渡すつもりもない。
敵軍相手であれば遠慮なく剣を振るえるということもあり、エヴェンは踵を返すと走っている神兵を呼び止めた。
「侵入って城門破られたのか?」
「いえ、城門付近はまだ拮抗しています。ただ城壁を破って侵入してきた者たちがおり、どうやら大聖堂の方へ向かっているらしいと」
「大聖堂」
本当に目的地がそこであるのなら侵入者の意図も分かる。おそらく神具の奪取か破壊を目論んでいるのだろう。でなければわざわざ侵入して大聖堂などへは向かわないはずだ。
「……或いは陛下たちの殺害か?」
侵入者がレアリアの背信を知らない可能性は高い。その場合、敵が彼ら二人を神具と同等以上に危険視することもありえる。
コダリス戦にはセーロンも現れたのだ。女皇とその騎士について既に情報が流れていると思った方がいい。
エヴェンはますます面倒になっていく事態に頭を掻いた。
「どうするかな」
とりあえずは侵入者を狙って大聖堂に向かった方がいいだろうか。
そのようなことを考えていた時、彼はふと視界の先の部屋に布を掛けられた死体が運ばれていくのを見た。
ちらりと見えた遺体の足に既視感を覚えた彼は、閉まりかける扉へと駆け出す。
何も言わず中へと入ると、死体を運んでいた文官は驚いて飛び上がった。
「これはエヴェン殿……」
挨拶を無視して、彼は台に乗せられたままの遺体へ歩み寄る。被せられた布を捲り、その下の顔を確認した。
まるで眠っているかのような平然とした死に顔。ただ胸から腹にかけては剣で滅多刺しにされている。エヴェンはそこで「アージェの仕業ではない」と判断した。彼はシンの顔を見下ろしたまま問う。
「何があった?」
「それが、陛下を逃がしたのではないかと疑われたらしく……」
「味方にやられたのか。馬鹿か」
殺した方と殺された方、どちらを咎めているのか分からぬ言葉は、けれど消せない怒りの輪郭が窺えた。
気圧された文官は言葉に詰まったが、一礼してそそくさと部屋を出て行く。
部屋に一人きりになったエヴェンは、融通の利かぬ知己にむけてぽつりと零した。
「何やってんだ、お前」
返事はない。
だが聞かずとも、分かる気がした。

死者を悼む時間はそう長くはなかった。
エヴェンは険しい顔のまま布を戻すと、剣の柄に手を添え部屋を出て行こうとする。
しかしそれより早く扉は向こうから開かれた。入り口を開けたまま入ってきたキシンは、布を被った遺体を見つけて苦い顔になる。
「本当だったか。まったくこのような時に……」
「何しに来たんですか」
冷ややかなエヴェンの声。それで騎士の存在に目を留めたのか、キシンは忌々しげにかぶりを振った。
煩わしいものを払うような仕草には男の死を惜しむ感情はなく、ただ「面倒が増えた」と言わんばかりである。
キシンは遺体を検めることもせず吐き捨てた。
「あのような紙を配ったりするからこのようなことになるのだ。何故事前に陛下をおとめしなかったのか……」
「そんなこと言いに来たんですか」
批難をする為だけに死者のところにまで来たのかとの問いに、キシンは呆れたような目を向ける。
「どうでもよかろう。お前もこのようなところにいないでさっさと陛下を探すのだ。
 シンのようにくだらない死に様を曝したくなければな」
全ては死んだ者が悪いのだと、自らの正義を疑っていない口振り。
そこには労わりの欠片もなく、ただ道端の塵を避けるに似た侮蔑があった。
死者へ唾吐く態度を目の当たりにし、エヴェンは腰の剣に手をかける。
キシンはしかしそれに気付かず、開いたままの扉から出て行こうとした。
男に向けて騎士は一歩踏み出す。
無防備な丸い背中。しかし彼は、手にした長剣を抜かなかった。
代わりにふらりと現れた女がキシンへとぶつかる。
反動で白金の髪が揺れた。正面から男に接触した彼女は、キシンの顔を冷ややかな目で見上げる。男は彼女を見て口元をわななかせた。
「なにを……」
キシンが言えたのはそこまでだった。ベルラが短剣を引き抜きながら一歩下がると、男の体はその場に倒れこむ。
彼女は血に染まった手を一瞥すると厚刃の短剣を男の上に投げた。
あっけなく事切れたキシンとそれを見下ろす女に、エヴェンは溜息を飲み込む。
「お前、まだ城にいたのか」
「ええ」
「何で殺した?」
軽挙の理由を確認する言葉に、ベルラは首を傾ける。
そして彼女は男の肩越しにシンの遺体を見ると、「聞かなくても分かるでしょう」と呟いた。