悠久を誓う剣 217

その名を聞く前に不安が過ぎったのは、クレメンシェトラの話が記憶に残っていたからかもしれない。
神の槍という存在について、彼女は「初めからいた」と言っていたのだ。
だが扉に描かれていたディテルダの傍には、一人の少女がいるだけである。
アージェはそれを神の娘と言われるクレメンシェトラと思っていた。
しかしそれならば最初からいたはずの神槍は―――― 一体何処にいたというのだろう。



「クレメンシェトラ?」
同じ名を持つ女。二人がどういう関係であるのか、アージェは困惑せずにはいられない。
どちらが本当のクレメンシェトラなのか。眠っていた女が本物であるなら、レアリアの中にいる彼女は誰なのか。
―――― 欺かれたのかもしれない、という思いが頭を掠める。
アージェの知る「クレメンシェトラ」は、神槍を見つめたままほろ苦く微笑んだ。
「帰ってきた。そう言うとおかしな感じがするが……正直、お前の存在を忘れていた」
「私は、ずっとあなたを待っていた気がします。あなたが多くを持っていってしまった。感情も、記憶も、あの方のお名前も」
淡々と語る白い女は、ひどく空虚を思わせる。
赤い瞳にも美しい貌にも感情が見えない。人形というよりも、何処か「道具」を連想させた。
アージェは後ろに回した左手に細い短剣を生む。
「説明しろ」
「そうだな」
零れた溜息はクレメンシェトラをまるで人間のように見せた。他に音のない空間。彼女はレアリアの顔で微苦笑する。
「私とあれは、もとは一つだった。ディテルダは背信者となった召使を二つにわけたのだ」
「二つに?」
「ああ。私には感情と限られた記憶を。あれには知識と力を。
 娘などではない。作られたものだ。それくらいのことは容易かった」
元は一人であったという「クレメンシェトラ」。彼女が神を裏切って人の体に繋がれたのなら、元の彼女の体は空になるはずだ。
だがその体には分けられたもう一人が残っていて、今までここで眠っていたのだろう。
「何でそんなことしたんだ」
「私に制限をかける為と、私が死んだ時の予備策だな。
 あちらが本来の楔だ。神の力はほとんどあれに残されている」
本来の楔だという女はじっと二人を見ている。アージェはその視線にどうしようもない隔絶を感じて仕方なかった。
「で、あれを起こしたらどうなるんだよ」
警戒するアージェの問いにクレメンシェトラは答えない。
青年は、自分があの扉を開いて本当によかったのか自問を始めていた。レアリアと話がしたいと思う。

顔が映りこむ程に艶やかな床には、神槍の服の裾が円状に広がっていた。感情がないという彼女は己の片割れを見つめる。
「戻ってきてください。一つに還りましょう。私は、あの方のことが知りたい」
「お前の欲しいもの全てを私が持っているわけではない。剥がれたものは消されてしまったのだ」
 だが、そうだな……名前はカルディアスだ。私はカルドと呼んでいた」
「カルド」
口の中でその名を反芻する女は、何も知らない幼児に似ていた。
アージェは女の様子を見ながらクレメンシェトラの腕を掴む。
「戻るつもりか?」
「お前は、私がレアリアの中にいることを嫌がっていただろう?」
「戻って何をする気だ」
何が真実で、何が虚偽なのか。
ケレスメンティアはまもなく滅亡する。その最後にあってクレメンシェトラは何をするつもりなのか。
アージェは赤紫色の瞳を睨む。彼女は困ったように微笑んだ。
「幕を引くのだろう?」
「ああ。大陸は割らせない」
「なら全てはお前にかかっている」
クレメンシェトラは髪に挿された花を軽く押さえると神槍へ向き直った。
「クレメンシェトラ、まもなく皇国が滅ぶ」
「そうですか。私が動く時が来たのですね。一なる大陸を割った時のように、一つの国に一つの大地をもたらしましょう」
赤い目が天井を仰ぐ。
地上を見ているのだと悟ったアージェは、背に走る戦慄を抑えることが出来なかった。踏み出そうとする彼をクレメンシェトラが留める。
彼女は自分の片割れに向かって首を横に振った。
「不要だ。お前の役目はもう残っていない」
「どうしてでしょう。神はそう命じられました」
「闘争をさせずともよいと仰ったのだ。大陸を割れば人が死ぬ」
「ですが人は、引き離さなければ自らも争います。私はそれを留める他の術を知りません。あなたは知っているのですか?」
「分からない。私も人ではないからな」
ぽつりと漏らされた言葉は寂しそうではあったが、その口元は微笑んでいた。クレメンシェトラは神槍へと手を差し伸べる。
「神は去った。もう私たちも去ろう。人の世はおのずから動いていく。―――― 不変は、必要ない」
七十一人の女皇の体を渡り歩いて、彼女が出した結論。
その答に、神槍はただ……「分かりません」と返した。



二人のクレメンシェトラの話は、平行線を描くかのように思える。
大陸の危機を前に、アージェは小声で隣の女に問うた。
「どうするんだ? 一つになると聞き分けがよくなるとかあるのか?」
「無理だ。あちらの方がまだ存在としては強い。私は飲まれる」
「なら当初の予定通りにするしかないか」
アージェは左手に生んでいた短剣を前に出すと、長剣に変じさせる。クレメンシェトラはそれを見て苦笑した。
「本当に思い切りがいいな。ちょうどいい男だ」
「迷ってる暇ないだろ」
「そうだな」
彼女はゆっくりと瞼を閉じる。
人形のように繊細な姿。その輪郭が一瞬揺れた気がして、アージェは己の目を疑った。
だがそれは目の錯覚などではなく、女の姿は確かに二重にぶれている。
クレメンシェトラが息を吐くと、そのぶれははっきりとずれだした。止まったままの体を置いて、透けた体が一歩歩み出る。
驚くアージェに、半透明のクレメンシェトラは楽しそうに笑った。
「アイテアの娘が綺麗に分けていったからな。櫃の中ではこういう真似も出来る。
 ―――― ほら、お前の欲しがっていたレアリアだ。くれてやる」
「へ?」
青年が横を見ると、そこには生身のレアリアが目をまたたかせていた。
金の髪に澄んだ青色の瞳。髪に挿した花と同じ色の双眸が彼を見上げる。
「アージェ」
「レア?」
純粋な人となった女。青年は彼女に手を伸ばしたい衝動に駆られたが、握ったままの剣を思い出し踏みとどまった。
クレメンシェトラは二十年以上を共にした女に指示を出す。
「お前は空間を作れ。このままここで戦っては地上にも影響が出るからな。
 少し力を残してある。それと魔力をあわせれば出来るはずだ」
「魔法で作るの? やり方が分からない」
「今までやっていたようにで構わない。構成は要らぬ。
 そして私たちが負けたなら―――― 空間を閉じて中のものを全て封じろ。自分の命を使ってでもな」
「分かったわ」
即答する女の目には鮮やかな人の矜持があった。清濁を飲み込んで先を見据える目。
彼女はきっと一人でも戦い抜くことが出来るのだろう。そうして今まで歩いてきたのだ。
だがアージェは、彼女を一人のままにしておくつもりはなかった。透き通る瞳をじっと見下ろす。
「じゃ、行ってくる」
「うん」
レアリアは踵を返そうとするアージェに小さく飛び上がると、両手でその腕にしがみついた。
歩き出そうとした瞬間後ろに引っ張られた青年はたたらを踏む。
「何だよ」
「ち、縮んで」
「無理だろ……」
アージェは思わず呆れ顔になったが、屈んで欲しいのだと察すると膝を曲げた。真っ赤になったレアリアの顔が近づく。
目を閉じた一瞬。
彼女は顔を離すと花のように笑った。
「信じてる」



最後の舞台が作られる。
レアリアは何の憂いもない微笑で両手を広げた。その間に何かが生まれ、広間の景色が変じていく。
遠くに見えていた壁が薄らいで消え、天井には薄曇に似た白が広がった。世界のあちこちに皹が入り始める。
遠ざかる現実。レアリアの姿がゆっくりと薄らいで消えていく。
彼女は戦いを見届ける為に「外」へと残るのだろう。その姿が見えなくなると、アージェはクレメンシェトラを振り返った。
「さて、始めるか」
「……本当にお前はあっさりしているな」
「勝つつもりだから。レアの命かかってるし」
「そうだな」
半透明のクレメンシェトラは、空間に佇む神槍を一瞥すると、右手を地へと差し伸べた。小さな掌に吸い寄せられるようにして、床から透き通った刃の剣が現れる。
レアリアの宝剣に似たそれを、アージェはまじまじと眺めた。
「何だそれ」
「私の剣だ。一応神具の端くれではあるが……今、お前に必要なのは鎧の方だろうな」
クレメンシェトラは手に取った剣を胸に抱きしめる。半透明な体の中に溶けていく剣は、やがて跡形もなくなってしまった。
女は両手を下ろすと深く息をつく。
「あとはやれるな?」
「ああ」
「なら勝て。レアリアの命も大陸の存亡も、皆お前にかかっている」
クレメンシェトラの体は、次の瞬間白い光となった。
一つの大きな光はまたたくまに細かい光の粒となり、アージェの体にまとわりつく。
そのまま光は次々溶けて消えてしまったが、青年は自分の体が結界を張られた時に似た感覚を覚えていることに気づいた。
最後の時。
彼は黒い剣を握りなおし、罅割れて灰色の世界を見やる。
その中央に立つ白い女は色硝子に似た目で彼を注視した。
「あなたは、誰ですか」
「ディアドだ。お前を排しに来た」
軽い宣戦布告。だが女は驚く様子もない。空虚な声で返した。
「そうですか。ならば神槍クレメンシェトラがお相手しましょう」
床に広がっていた白い服の、円状の裾がみるみるうちに広がっていく。
裾の下からは細い両足が植物の根のように枝分かれして伸びていき、女の上半身をゆっくりと持ち上げていった。
彼の背丈の三倍程の高さから見下ろしてくる赤い瞳。細い右腕は先のとがった白槍となり、左手は盾の形に変じた。
もともと長かった髪は他の変化にあわせて床につくほどに伸びている。その先端はどうやら全て針状になっているようであり、床の罅割れから立ち上る灰煙と接触して、二色の靄を立ち上らせていた。
最後に美しい貌の上半分が両眼を残して仮面のようなものに覆われると、アージェは思わず嘆息する。
「まじか……思ってたよりずっとでかいんだけど」
ぼやいてはみたが、退くという選択肢は最初からない。
彼は確かめるように黒い柄を握りこむと、眠り続けた神の遺志に向けて、白い床を蹴った。