終 221

与えられた小さな部屋からは、あまり外出しないよう言い渡されている。
故郷の家を思わせる素朴な室内。寝台の上で刺繍をしていたクラリベルは、ふと何かを感じて立ち上がった。
小さな窓に歩み寄り、そこを開けてみる。
数日前、突如城都から移動させられた彼女たちが、今過ごしているのはトライン領にある宿屋の一室である。
窓から見下ろした街には様々な服装の人間が慌しく走り回っているが、クラリベルはその喧騒が何に起因するものなのか分からなかった。
彼女は雲のない空を仰ぐ。
「……お兄ちゃん?」
返ってくるものはない。少女は不安に駆られたが、女皇から渡されたものを思い出すとその心配も和らいだ。
兄の私物とかなりの大金、彼女への贈り物も添えられたそれらは、レアリアからの言付けを読むだに「後で絶対アージェが取りに来るもの」らしい。
だから心配に思う必要はないのだろう。クラリベルは自分にそう言い聞かせる。
北の方から吹き付ける冷たい風。少女は身を竦めると窓を閉めた。寝台に戻り刺繍を再開する。
白い布地に丁寧に描かれていく花は、もうまもなく出来上がりそうだった。






絶え間なく響く波音。
冷えた風が吹き付ける海際には、誰の姿もない。
潮の香りが強い丘は緑の草が揺れており、その中央を細い道が伸びて遠くの町へと続いていた。
丘の外れ、崖となっている場所に立つ青年は、眼下の海を見下ろす。
灰色の波は絶えず岩壁に打ち寄せ、白い飛沫を上げていた。
かつて神の槍によって焼き切られたというそこを見下ろしていたアージェは、人の気配に気づいて振り返る。
丘の麓に立つ一本の木、その下に寝かされている女の隣に、いつの間にか一人の少女が立っていた。
彼女はアージェが振り返ったことに気づくと、大きく手を振る。
遠目からでも分かる金色の瞳。青年は踵を返すと、彼女たちがいる場所へと戻っていった。
ルクレツィアは満身創痍の青年を見てにやりと笑う。
「いい男になったじゃない? まさか勝つとは思わなかったわよ」
「負けたら大陸沈んでるだろ」
「他人事だし」
「そうかよ」
アージェは呆れ声になったが、ルクレツィアはまったく堪えていないようである。白い手を彼に差し出した。
「はい。返して」
「ん。助かった」
「嘘つくと引っぱたくわよ」
すかさず言われてアージェは内心首を竦めたが、表情には出さず少女の手に短剣を返した。
彼女は鞘を失った剣を見ると、笑ってそれを腰に差す。
「ま、よく頑張りました」
「はいはい」
「あんたたちはこれからが問題なんだろうけどね」
少女はそう言うと、木の根元で眠るレアリアを振り返った。
櫃の中で空間を作り、楔との戦いを見守っていた女皇。
彼女はその力の反動か、城が落ちてから丸一日経っても目覚めない。
アージェは上着をかけてある細い体をじっと見つめた。
「レアはいつか起きるのか?」
「起きるわよ。ただクレメンシェトラが抜けて死んだ余波があるから……しばらくの間は記憶に障害が出るかも」
「障害? 記憶喪失か?」
「徐々に治ってくと思うけどね。ただ―――― 」
ルクレツィアはそこでアージェを見上げる。
金色に煌く瞳。そこには底知れない力が垣間見えたが、それ以上に人を思う意思があるようだった。
神の娘は唇の片端を上げる。
「ただ、このまま記憶を消しちゃうってことも私になら出来るわ。
 この子の負ったものは重過ぎるから、そうして一度まっさらにして、自由にこの後を生きることも出来る」
長い歴史を持った自国を滅ぼし、多くの犠牲者を生んだ女皇。
彼女の中からその記憶を消そうかと問うルクレツィアに、アージェはだがかぶりを振った。
「いや、いいよ。多分レアは嫌がる」
「そう? 覚えてたら死にたくなるかもよ」
「その時は俺が一緒に死ぬさ」
単純な結論は、随分昔に思える日に彼女と交わした誓いである。
ルクレツィアは青年の答を聞いて金色の目を丸くしたが、すぐに相好を崩した。
「ならいいわね。本当はこっちの大陸に来ないか誘うつもりだったんだけど」
「それもいい。ここで生きる」
「うん。頑張って」
誘いを断られた少女は、だが大した未練もないように彼に背を向け歩き出した。
何処へ行くのか丘の上を遠ざかる彼女に、アージェはふとあることを思い出して声をかける。
「あのさ」
「んー? 何?」
「ディテルダの望みって何だったか分かるか?」
かつてクレメンシェトラが漏らした呟き。「神の望みは叶わなかった」とのそれは、一体何を意味していたのか。
少しだけ気になったアージェは、足を止め振り返った少女を見つめた。
ルクレツィアは目をまたたかせたが、両手を広げて笑う。
「さぁ、何かしらね。人間に嫉妬してたのかな。それとも希望を持ってたか」
「希望って?」
「自分のところまで来て欲しかったんじゃない? 人を越えた人に。寂しかったから」
「は? 何だそりゃ」
己の神具にて一なる大陸を分割したディテルダ。
彼はそうして得た大陸で一人になって、初めて孤独を感じたのかもしれない。
だがそれは、今となってはもう誰にも分からぬことだろう。神は去った。彼らは位階の狭間に溶けている。
「馬鹿よねー。寂しかったら自分から交わればいいのに。私たちはそうしてるわ」
ルクレツィアはからからと声を上げて笑うと、そのまま手を振って丘の向こうに消えた。
後に吹く風は不思議と、潮よりも甘い香りがした。



薄い雲の合間から降り注ぐ光は、葉々の間を抜けて二人の周りを彩る。
眠っているレアリアの隣に腰掛けたアージェは、膝を抱えて空を仰いだ。
今はまだケレスメンティアも滅びたばかりだ。
転移陣を使って遠くの国へと逃れた彼らだが、ルクレツィアの言う通り、これから先こそが大変なのだろう。
アージェはだが、その苦労を飲み込むつもりで彼女の隣に座っている。
彼は手を伸ばして金色になった髪を撫でた。そうして目を閉じた時、不意に手の下で小さな頭が揺れる。アージェははっと顔を上げた。
「レア?」
恐る恐る呼びかけた声。それは女の耳に届いたのか、繊細な睫毛が動いた。
やがてゆっくりと上げられた瞼の下に、青い瞳が覗く。
彼女は目だけできょろきょろと辺りを見回すと、細い手をついて体を起こそうとした。
弱っている為か倒れそうになる体を、アージェは手を伸ばして支える。
ぼんやりと彼の胸によりかかった女は、不思議そうな顔で青年を見上げた。
「誰……?」
予想はしていた言葉。だがそれは、実際に聞くと少なくない衝撃があった。
アージェは押し黙りかけて、けれど彼女を心配させまいと微笑む。
「体の調子は? どこか痛くないか?」
「平気……あれ、私、あれ? 名前が」
額を押さえかけたレアリアは、途端に驚いた顔になると体のあちこちに触れた。
自分のことも思い出せないことに恐怖を覚えたのだろう。青褪める女の肩をアージェは軽く叩く。
「落ち着いて。一時的に思い出せないだけだから。すぐ治る」
「え、でも……」
何もかもが分からぬ状況に置かれた彼女は、じっと自分の手に視線を落とすと、顔を上げ青年を見やった。
小さな唇が先程と同じことを問う。
「あなた、誰?」



ただの少女が向けるような問い。
その言葉はまるで過去をなぞっていくかのようだ。
去っていった多くのものたちが彼の脳裏をよぎる。胸を焼く熱い感情が喉を満たした。
人の足跡。抱かれた思い。
それらは空に溶け地に沈んで、今も世界の外側を流れている。そのことをアージェは知っている。
不変はない。だが記憶は残っていた。



緩やかに蛇行していく道行き。
彼は笑って、そっと女の手を取った。はじまりにあった約束を思い出す。
今ここにあって、応えるべき言葉は他にないだろう。アージェは青い瞳を見つめた。
「俺は、君の友達。―――― そうなりたいと思ってる」
「友達?」
「そう」
手を取り合って、握り締める。
そうして歩き出す。かつて少年と少女だった彼らがそうしたように。
諦観の染み付いた大地は、すぐには変わらないだろう。
だが荒れた土地を、人の生きる空の下を、彼らは顔を上げて歩んでいく。



大陸最古の皇国が滅びし数年後、ある森に囲まれた小さな国にささやかな神職の家系が生まれた。
魔法が消えていく中にあって魔法士を生み出し続ける彼らの血。
その大元にいた二人の男女が何処から来た何者なのか。それは、誰も知らない。



End