功罪の足跡

禁転載

いつも彼女の背後にあるものは穴だ。
暗く深い穴。振り返らずともそれは常に彼女の後ろにある。
何処に繋がっているとも分からぬその穴の存在を、レアが忘れたことは一度もない。
彼女はいつか、自分がそれを振り返るのだとよく知っていった。



指先に意識を集中させる。それは慎重に慎重に行っていくもので、失敗すれば痺れに似た痛みが掌に走った。
レアはしかし、何度かの経験を経て何とか難しいところを切り抜ける。そうして組みあがった構成を、向かいに座る老いた魔法士は笑顔で見つめた。
「よく出来ている」
「あ、ありがとうございます!」
「明日は新しい構成をやってみよう。また同じ時間に」
「はい!」
授業の終わりを示す言葉にレアは深く頭を下げた。足音を立てぬよう小さな研究室を出て、古い二階建ての家から外の通りへ顔を出す。戸口のすぐ脇には壁に寄りかかって彼女を待っている青年がいた。
「アージェ」
小声でその名を呼ぶと、彼は微笑して手を差し出す。
まるで貴族の令嬢にするような仕草にレアは気恥ずかしさを覚えつつも、その手を取った。
「どうだった?」
「上手く出来てるって。明日は新しい構成をやるの」
「そっか」
一時的な記憶喪失になっている彼女は、大きな魔力を持っているのだが、いかんせんそれを上手く使うことが出来ない。
その為この小さな町で魔力制御や魔法構成を習っているのだが、彼はいくらレアが「大丈夫」と言っても毎日の送り迎えを欠かすことがなかった。アージェは彼女の手を引いて半歩先を歩いていく。
雑踏をかき分けていく広い背中。傭兵としてかなりの手練であるらしい友人の横顔を、レアはぼんやりと見つめた。
「あのね、私、昨日不思議な夢を見たわ」
「どんな夢?」
「何処かのお城にいる夢。あなたは騎士だったわ」
そのような夢を見たのは、彼がはじめに着ていた服のせいかもしれない。
しかしアージェは他愛も無い夢の話にすぐには返事をしなかった。数秒の沈黙を置いて口を開く。
「その夢でレアはなんだったんだ?」
「え?」
予想していなかった質問に彼女は首を傾げた。覚えているのは景色や行き交う人々のことだけで、自分のことなどまったく意識してみなかったのだ。レアは曖昧な夢の記憶を手繰り寄せる。
「私は……多分、誰でもなかった」
まるで空白のように誰からも顧みられなかった彼女。夢の中で他者を眺めるだけだったレアは、そう答えた後、何だか淋しくなった。



宿の部屋で一人で過ごす夜は、いつでも不安だ。
夕食を前に窓から暮れていく空を眺めていた彼女は、せりあがってくる予感に息を詰めた。細い指で窓の桟を握り締める。
―――― 背後に穴がある。
それはとても暗く深い穴だ。いつでも忘れることの出来ない穴。
レアは、その穴が自分の失われた記憶と関係があるのだろうとうっすら悟っていた。そして自分がいつか、それを振り返らねばならないということも。
「……アージェ」
彼女は縋りつくかのようにその名を呼ぶ。
彼の存在は、彼女を現実へと繋ぎとめるただ一筋の光だ。彼が支えてくれているからこそ、彼女は足元のない不安にも狂乱せずにいられる。
レアは、呼べば来てくれるのだろう青年を思ってきつく目を閉じた。背筋を予感が這い上がってくる。

穴は、多くを貫く何かの跡だ。
彼女の中にあるもの。彼女を繋いでいた牢獄。
そこにあるものは全てであり、そして虚ろだ。
今はない存在の、だが実在を窺わせる痕跡にレアは震える。
「わたし、は」
震える指が桟から落ちた。穴がすぐ足元に開いていく。
振り返らねばならない。その時が来たのだろう。
レアは息を止めた。
彼の名は呼ばない。意を決し、己の背後を、足元を顧みる。
霧が晴れるように忘却が立ち去っていく時間。
位階を貫いていた庭園の記憶。
彼女の意識は、そして暗い穴の中へと落ちた。

闇の中で、彼女はやはり一人だった。






夕食の時間となったにもかかわらずレアリアが出てこない。
そのことに不審を覚えたアージェは彼女の部屋の戸を叩いた。返ってこない返事を訝しみつつ、掛け金を確かめると鍵はかかっていない。
青年は緊張を抱きながらも、そっと扉を押し開け中の様子を窺った。
「レア?」
不在か、或いは眠っているのかとも思ったのだが、見ると彼女はきちんと寝台に腰掛けている。薄暗い為よく表情は見えないが、確かに彼女のものである横顔に、アージェはほっと安堵すると部屋の中に入った。
「レア、夕飯の時間だぞ。どうしたんだ」
「アージェ」
彼を振り返った瞳は澄んだ青である。しかし彼にはそれが一瞬紫がかって見えた。
懐かしい瞳の色がなにを意味しているのか、アージェは瞬間で理解する。女の本当の名が口をついて出た。
「レアリア」
それは、今は亡き皇国の最後の女皇の名だ。
神に反して国を滅ぼした罪人。大陸の歴史からその名が消える日は、或いは永遠に来ないのかもしれない。
青年は主人であった女を前に息を詰める。
彼を見上げるレアリアは、口元だけで薄く微笑んでいた。
美しく超然とした表情は泣いているようにも見える。青い瞳がゆっくりとまたたいた。
「アージェ、私、生きているのね」
「レア」
「私……クレメンシェトラが死ぬ時は自分も死ぬのだと思っていた」
金の睫毛が伏せられる。
白皙の貌に落ちる影は、女皇としての彼女の闇を如実に浮き上がらせていた。 アージェは主人の言葉の意を悟って沈黙する。
―――― レアリアはおそらく自らの死を、ずっと当然のものとして覚悟してきていたのだ。
櫃の中で彼を見送った時でさえ、自身にその後の未来はないと思っていたのだろう。
それが彼女の考える女皇の責だ。国に幕を引き、自らも死す統治者。
アージェは彼女の抱くその考えを理解してはいたが、それでも今まで主人の命を繋ぎ続けてきた。

青年はただの青となった瞳を真っ直ぐに見下ろす。
彼女の双眸にはその時、深い諦観がたゆたって見えた。
「アージェ、今までありがとう」
「レア」
「本当に嬉しかった」
言葉の通り嬉しそうに彼女は微笑む。けれどそれが別れの言葉であることを、アージェは既によく知っていた。
今まで何度も見た泣き出しそうな笑顔。青年はちりちりとした熱を覚える。半ば癖のように左手を握り締めた。
「レアはあの時死んだことになってる。ちゃんと確認した。ベルラが死んで、その遺体がレアのものだと思われているらしい」
「私だけ生き残っても仕方ないわ」
「違う。誰もそんなこと望んでいない」
アージェは彼女の記憶がない間、多くの情報を集めて確認したのだ。
あの騒ぎで誰がどのように亡くなったのか、何処へ去っていったのか、彼は手を尽くして知己であった人間の分だけでも確かめている。
そしてその中で彼女の側近であった者たちが、彼女個人の幸福を望んでいたこともまた密かに伝え聞いていた。
「ケレスメンティアの女皇は死んだんだ。今のレアが生きてたって死んだって誰にも何にも関係ない」
「私には関係あるわ。自分だけは裏切れない。忘れることなんて出来ない」
「忘れなきゃいい。覚えて生きろよ。そうする道だってあるはずだ」
今はもう彼女の傍にいるのは一人だけだ。アージェはレアリアの肩を掴もうと手を伸ばした。
しかしその時、彼女は女皇そのものの眼光で青年を見据える。
矜持と意志の漂う目。最古の皇国の頂点にいた女は、血濡れているが如き唇を震わせた。
「私の役目は終わったの。皆死んだわ。私のせいで。私は、これ以上自分が生きていることを許したくない」
「レア」
潔癖とも言える言葉は、神代の支配を打ち払った彼女の性質そのものだ。
アージェは頑ななその毅然に息を飲みながらも、だが強く否定する。
「それは、レアだけの問題だ。苦しいのは分かる。けど我慢するんだ。今死んでも何にもならない」
「でも私は!」
途切れた言葉の先にあるものは、見通せない闇であろう。
女皇として生きてきた彼女が生まれた瞬間から背負ったもの。余人には理解出来ぬそれは、今なお彼女の足に絡み付いている。
何と言えばその闇を越え届くものがあるのか。
アージェは感情的に声を荒げかけた自分に気がつくと深呼吸した。彼女の前に回ると床に両膝をつく。彼が手を伸ばして滑らかな頬に触れると、レアリアは目を閉じた。
「……アージェ」
「苦しいですか、陛下」
「分からない」
温かい涙が指を伝う。
彼女は、ただこのまま消えることを望んでいるように見えた。重すぎる責と罪悪感が今なお小さな背にかかっている。
―――― とうに染み付いたそれらを完全に取り除くことは、彼には一生出来ないのかもしれない。
レアリアはきっと自らを許しはしないだろう。それはアージェにも分かっていた。
だからおそらく、自分たちがこのような結末を迎えるのではないかとも覚悟していたのだ。
彼は深く息をつく。涙を拭った手が彼女の腕を支えた。
「もう一度言いますよ。あなたは既に死んでる人間なんです。ここから先の生死はどちらでも変わらない。
 でもそれでも死にたいっていうなら―――― 俺も一緒に死にますよ」
「え……?」
青い瞳が涙に潤んで見開かれる。それは不思議と初めて遺跡に誘った時の彼女を思い出させた。
子供の頃の記憶。アージェは苦笑する。
「そう約束していたでしょう。俺はあなたの騎士だ。一緒に死にますよ」
「な、何でそんな」
「俺はあなた以上の罪人だ。異能で殺した人間は千人をくだらない。因果応報が絶対ってなら俺こそ死ぬべきでしょう」
―――― そうでもいいと思っている。
生も死も、決して特別なものではない。両者は等価で背中合わせだ。
だからアージェは、生きようと思う覚悟と同じくらい、死を受け入れる覚悟を持っている。
そしてその覚悟を彼女の意志に添わせても構わないと思っていた。


どのような終わりでも、それが彼ら自身の意志によるものならば僥倖だろう。アージェは立ち上がると泣いている女の頭を抱き寄せる。
濡れた青い瞳が幼子のように彼を見上げた。
「どっちでもいいよ。レアを一人にはしない」
罪と功を、生と死を、共にして寄り添う。そうして暗い闇の底までも手を取っていく。
生きるも死ぬも、同じ道なら苦ではなかった。






背に回された手。
随分長い間、二人はそうして無言で抱き合っていた。
小さな嗚咽はいつの間にか聞こえなくなっている。代わりに掠れてしまったレアリアの声が囁いた。
「アージェ」
「何?」
「私……もう少し、迷惑かけててもいい? もう少し、頑張るから……」
細い指が彼の服をきつく握った。
そうすることにどれだけの思いが必要であったのか。アージェは彼女の背を軽く叩く。
「いいよ。別に迷惑じゃない」
「ごめんなさい」
「謝るなよ」
今まで何度も繰り返したやりとり。青年は思わず懐かしさに苦笑した。レアリアは声を殺して彼の体にしがみつく。


三ヶ月後、彼女は血の滲むような努力を経て一通りの魔法を身につけると、アージェと共に町を出た。
そうして荒れた大陸を巡っていく彼らがどのように残りの一生を送ったのか。
ただ功罪の足跡が二つ、乾いた大地を寄り添って遥か先へと伸びている。