旅立ち

禁転載

二階への階段を一気に駆け上る。
途中で折り返しになっているそれをぐるりとまわって、到着したのは玄関を見下ろせる吹き抜けだ。
家のここは木で出来た格子になっていて、わたしの体であれば格子の隙間に入って、やって来る客を見張ることが出来る。
客たちは大きかったり小さかったり様々だ。大体一日に六、七人はやってくるだろうか。
「セートサン」と総称される彼らは、玄関で靴を脱いでいる間も、多くが上を見上げることはしない。
わたしが彼らを見ている可能性など、考えもしないのだろう。不注意なことだ。
ただ彼らは総じて玄関の開け閉めには敏感だ。
どうやらヨーコがわたしを外に出さないよう用心しているらしく、セートサンにもそう厳命しているようなのだ。
まったくもって不自由なことだが、外に出る手段はなにも玄関だけではない。
今はただ雌伏の時というだけのことだ。不満を表に出さず鉄の心でいれば、与えられるものはモンプチである。ちなみにわたしはゴールド缶が好きだが、これは特別な時にしかもらえない。とても残念だ。
―――― それはさておきわたしは、今日も何食わぬ顔で訪れる者たちの監視を始めた。
玄関が小さな鐘を鳴らしながら開き、本日最初のセートサン、いつも騒がしい男の子が母親とともに入ってくる。
彼は上がり口に座り、泥に汚れた靴を脱ぎながら、真上を見上げてわたしに気づいた。爪を切った指をこちらへ向けてくる。
「あ、おかあさん! ねこちゃんだよ! ねこちゃん! 茶色いねこちゃん!」
やかましい。顔の上に着地するぞ。

「そろそろこの家を出ようかと思う」
そう、わたしが口にしたのは、夜のモンプチを充分に頂いた後のことだ。
窓から見える空は紫色。ヨーコが先生をしている部屋からは、相変わらずへたくそなピアノの音が漏れ出している。
その音に嫌気がさしたというわけではないが、今が己の転機と感じたのは確かだ。理由はない。根拠もない。
体作りの一貫として思い切り伸びをするわたしに、部屋の隅にある大きな灰色の毛玉が答えた。
「やめておいた方がいいよ」
その忠告は、いつもと同じくわたしの心には響かなかった。この毛玉はいつも面白くないことしか言わない。
毛玉はわたしと違っていつもほとんど動かぬくせに、まるで自分が正しいと言わんばかりにもっともらしいことを言ってくるのだ。
わたしは毛玉からふいと顔を逸らした。
「また『どうせすぐに帰ってくるから』か?」
「それもあるけどね。君がこの間大冒険の末に行き着いたのは、庭の縁台の下だっただろう」
「あそこは庭ではなかった! とてつもないジャングルだった!」
「草むしりをしていないからね。でもそうじゃないよ。今日は斉藤が動いているようだ。外に出てわざわざ巻き込まれることはないだろう」
「斉藤が!?」
斉藤とは近所に住んでいるむっさい男だ。どうやらヨーコが好きらしく週に何度も訪ねてくる。
見つかると抱き上げられそうになるので、やつが来ている時は基本一階には下りない。わたしはあまり男子供に触られるのが好きではないのだ。
その斉藤が近所を徘徊しているとあっては、確かに厄介である。
わたしは計画を中断しようかと迷う。なんか眠くなってきた気もするし。ぬくぬくしようか。
「……いや、いかん! 初志貫徹をするのだ。わたしは広い世界に旅立つ!」
「はい、行ってらっしゃい。夜までには帰ってきなよ」
相変わらず毛玉は覇気がない。毛玉なのだから仕方ないだろう。

この家を脱出するのは、そう難しいことではない。
何しろ毎日セートサンが出入りしているのだ。タイミングを合わせて滑り込めば楽に外へ出て行ける。
勿論ヨーコはそれを阻止したいと思っており、わたしたちを部屋に閉じ込めたり玄関に続く廊下に高い柵を設置したりはしている。
だがそういった対策は後手である以上、破れぬものではないのだ。
わたしは定位置である二階の格子の間から、玄関を見下ろす。
目標は一階の壁にかけられているプランター。わたしはその時を待って華麗に空中へとジャンプした。
普段から鍛えている自慢の体は、無事プランターへと着地する。作り物の花がひしゃげたが大したことではない。
ちょうどその時、計算通り玄関が開かれ、次のセートサンがやって来た。
わたしは素早く体勢を整え二度目のジャンプをする。
―――― 華麗にセートサンと交差するつもりが、その顔に張り付いた。

多少の手違いはあったが、脱出は無事成功した。
問題があるとすれば、その手違いのせいで周囲に凄まじいセートサンの悲鳴が響き渡り、辺りに厳戒態勢が敷かれてしまったということだろう。
わたしは苦難の末追っ手を撒き、なんとか広い砂漠の遺跡にたどり着いていた。
砂塵吹きすさぶ夜の砂漠。月光が照らし出す柱群の上で、わたしは身を丸くする。
「……寒い」
寒い。予想以上に寒い。家のぬくぬくが懐かしい!
どうしてこんなに冷えるんだ。冬ではないのに冬みたいだ。
わたしはそう長くもない毛を逆立ててせめても体温を守ろうとする。
だがそれでもあまり耐えられそうにはなかった。少しだけ「帰ってやってもいいか」とも思ったのだが、どこをどう走ったら砂漠に出てしまったのかよく分からない。
することもないのでわたしは、砂漠の只中に立っている二人の男を先程から眺めていた。
一人は勿論マッチョ斉藤。もう一人の黒尽くめは……知らないやつだな。黒いマントを風になびかせている。多分全身タイツ。
名前を知らないからタイツマントと名づけよう。
タイツマントは、朗々と月下の砂漠に声を響かせた。
「では世界を半分やろう。それでどうだ? 斉藤」
「断る! 世界は誰のものでもない。お前の野望はここで挫く!」
―――― 先程から彼らの応酬は一歩も先に進んでない。
タイツマントはとにかく「私と一緒に来るとこんな素晴らしいことがありますよ」とアピールしており、マッチョ斉藤は「そんなのは要らない。お前の存在がただ許せない」と返している。
客観的に見れば歩み寄りを試みてるタイツマントに対して、斉藤は考えもせず全否定だ。酷い。あと月光の下に光る筋肉が気持ち悪い。タンクトップでどうして寒くないんだ。
しかしタイツマントはそんな反応に怯むことなく訴え続ける。
「私と共に来れば広い邸宅も豪勢な食事もお前のものになる。今のように時給六百五十円で雇われヒーローなどをやっているよりも、ずっといいはずだ」
「黙れ! 正義は金には屈しない! 受けてみよ! マッチョキーック!」
あ、斉藤酷い。先に手を出した。足だけど。
白い光を放つ蹴りに、クロマントは血を吐いて吹き飛ぶ。
なんというか……人間が飛んでいくというのはどん引きの光景だな。ちっとも軽やかではない。ごすっという音がした。
ともあれ、それよりそろそろ本当に寒いんだが。タイツマントはわたしを勧誘してくれないだろうか。
温かい豪邸で眠りたい。温かければ豪邸でなくてもいい。
「寒い……」
「だから外に出ない方がいいと言ったのに」
「わあっ!?」
聞き覚えのある声は、突然すぐ後ろから聞こえた。
振り返るとそこにいるのは間違いなく毛玉だ。毛玉が定位置から動いている。どうかしたのか!
毛玉はもふもふとした体を揺らした。
「猫は世界の切れ目に巻き込まれやすい生き物なんだよ。だから本来入れないはずの隔離領域に入ってしまったりする」
「世界の切れ目?」
「ま、詳しい説明はともかく帰ろうか。葉子が心配している」
「わ、わたしはまだ帰らないぞ!」
「葉子は玄関を開けたままにして、外にしゃがんで君を待っているよ」
「…………」
黙り込んだわたしの首の後ろを、毛玉はひょいと咥える。
まるで子猫のような扱いだ。わたしは抗議しようと口を開いたが「ふなー」と気の抜けた声しか出なかった。
毛玉はそのままタイツマントとマッチョ斉藤に背を向け、柱の上からひょいと飛び降りる。
目の前に迫る砂。その時―――― くらり、と軽い眩暈がした。
気がついた時、わたしと毛玉は家の裏口にいた。






「……へえ、随分賢い猫なんですね」
斉藤は感心の目で毛玉を見る。―――― その後にわたしを見るのはやめろ。相対的に馬鹿と言われている気分になる。
葉子はやつから回覧板を受け取りつつ、微笑んで頷いた。
「そうなんです。昔から他の子の面倒もよく見てくれて」
「はあ、そうなんですか。僕なんて最初は犬か猫か迷いましたよ。すごく大きいですよね」
「リクはメインクーンっていう種類なんですよ」
「小さい方は?」
「アビシニアン。ソラちゃんはお転婆娘で困っちゃいます」
……ヨーコ、そのような言い方はやめてくれ。まるでわたしが何も考えずにはしゃぎまわっているようではないか。
廊下の隅にいる毛玉がくすくすと笑う。
「お転婆よばわりに懲りたなら、君も外に出るのはやめなよ」
「断る。わたしには目標ができたからな」
この間のタイツマントの話で、わたしは閃いたのだ。
しっぽをぴんと立てて胸をそらすわたしに、毛玉はどうでもよさそうな相槌を打った。
「ふーん、どんな目標?」
「ヨーコに世界セイフクをさせる! そうすれば豪邸と美味しい食事が手に入るぞ!」
「…………あー、悪影響」
なんだその返事は。豪邸に移り住んでもお前の居場所は隅っこにするぞ。
モンプチもゴールド缶じゃなくノーマルのままだからな。分かったか。後で謝っても知らないぞ。
しかし、わたしが憤慨しているにもかかわらず、毛玉は丸くなって寝始める。
相変わらず猫の話を聞かないやつだ。もういい。わたしはわたしで頑張るからな。
肉球をわきわきさせて決意を固めていると、斉藤の筋肉な声が聞こえる。
「葉子さん、それであの……実は今度の日曜日にでもお暇でしたら」
「ああ、私その日、他のお教室の発表会のお手伝いに行かなきゃいけないんです。ごめんなさい」
「そ、そうですか」
ざまみろ斉藤。
とりあえず野望の為にも、まずお前から排除してやるからな。