衝突

禁転載

ピアノの音というのは凶器であると、わたしは思う。
まずうるさい。そして調子っぱずれだ。なにがやりたいのか全然わからない。
―――― そんな音が、一日中鳴り響いているのがわたしの家だ。
最初にやってきた時にはどうしようかと思ったが、今ではすっかり慣れた。
慣れなかった子猫の頃のことをヨーコは「ソラちゃんはリクにべったりくっついて離れなかったよね」などと言うが、事実無根である。覚えがない。わたしに限ってそんなはずがないのだ!
そんな風に思い出しじだんだで廊下を引っかいていると、毛玉がやんわりたしなめてくる。
「床に傷がつくよ。やめなよ」
「うるさい! お前が悪い!」
「なんか分からないけど多分八つ当たりだね」
「ピアノの音がうるさいぞ!」
「……確かに斉藤にはピアノの才能がないみたいだな」
お、珍しく意見があったな。まったくその通りだ。
わたしたちはピアノの部屋には入れてもらえないのだが……どういう顔をしてヨーコがこの演奏を聴いているのか見てみたい。
それ以上に、どういう顔でマッチョ斉藤がピアノを弾いているのかも見たいのだが。いややっぱ見たくないな。どうでもいい。
わたしは大きな耳を伏せて両手で頭をかかえる。
「あーもー、どうしてこうなったのだ!」
「人間にも色々あるんだよ」
そんな悟った返事は聞きたくない。

どうしてこうなったのかと言えば、きっとタイツマントが関係しているのではないかと思う。
タイツマントは毛玉いわく「葉子の生徒さんには珍しい若い男」なのだそうだ。
だからなんだ、と思うが、斉藤は「自分も負けてられない」と思ったらしい。
だからと言ってどうしてピアノで争おうとするのか。マッチョならマッチョらしく筋肉で争え。
大体お前たち二人は、普段から殴りあったりしてるんじゃないのか?
と言うと毛玉は「斉藤の方は井上の正体に気づいてないんだよ」と言うのだが。
あんな見るからに同一人物なのに、ちょっと顔を隠してタイツになっただけで分からなくなるのだな。人間って変なの。
というわけで斉藤とタイツマントは、今は毎週うちに来ている。ちなみにピアノの腕はタイツマントの方が上だ。
「―――― これはもう、わたしへの攻撃と言ってもいいだろう」
「うんまぁ言いすぎだと思うけど、気持ちは分からなくないかな」
「本日よりわたしは、斉藤への攻撃を開始する!」
「ええ……?」
だってうるさいもん! 我慢できないもん!
この音を聞いていると、まるでマッチョに添い寝をされているような気分になる!
わたしは肉球をわきわきして爪を出し入れした。
斉藤、お前の命も今日限りだ。見てろよ。二度とピアノの部屋に入れないようにしてやる。
「……葉子に怒られるよ」
ええい、うるさい! 猫には怒られるとわかっていてもやらなければならない時があるのだ! たとえばテーブルの上にお刺身がある時とか!
幸いレッスンは三十分間だ。もうそろそろ終わる。
普通のセートサンであれば、ピアノの部屋を「ありがとうございます」と出てきて普通に帰るのだが、斉藤は玄関で靴を履きながらぼーっとしている時間があるからな。その隙を狙おう。ぼーっとしている斉藤はにへらにへらしていて触りたくないが、背に腹は変えられない。
わたしは二階の廊下の格子に入り込むと、吹き抜けから玄関を見下ろした。
まもなく「ありがとうございました!!」と野太い声が聞こえ、斉藤が現れる。
上がり口に座り込んだやつは、いつものように顔をゆるめてぼーっとし始めた。わたしが見ているとも知らずに無用心だな。
あとお前は、何故ピアノのレッスンに白のタンクトップで来るのか。腋毛をしまえ腋毛を。子供のセートサンから「怪人ボーボー」と言われているのを知らないのか。
わたしは狙いをつけて身を屈める。そして―――― 斉藤の後頭部めがけて、思いきり跳躍した。


わたしの計算では、斉藤はわたしのキックによって昏倒し、口から血を噴いて玄関に倒れ伏すはずだった。
そして「ま、まさかこんな力を持っていようとは……ぐふっ」と敗北の声を洩らして息絶える。
わたしは斉藤の躯を冷えた目で見下ろして、現れたヨーコが感激してわたしを抱き上げるのだ。
「ソラちゃん、ありがとう! 私を助けてくれたのね!」
なーんてね。
だが事実とは、どうしてこう非情なのだろう……。
斉藤の頭に着地すると思った直前、斉藤はさっと一歩後ろに下がった。そしてむき出しの腕でわたしを受け止める。
「あれ? どうしたんだい。落ちてきちゃったのかい?」
つ、捕まった! どうして気づいた! お前は忍者か!
「相変わらず可愛いなあ。あははは」
ああああああああ、やめてええええええええ! すりすりやめてえええ!
て、敵の捕虜になるとまさかこんな辱めが待っているとは! やめろはなせ筋肉固い!
わたしは必死に両手をつっぱって斉藤のほお擦りから逃れようとする。
しかし敵もさるもの、筋肉パワーでわたしの体をがっちりとホールドして離さない。
くそう、離脱したい! とりあえずこのタンクトップの生地薄いぞ! 気持ち悪い!
「可愛いなあ。つやつやしてる」
きいいいい! お前なんて猫パンチだ!
―――― けれどわたしがそうして渾身の猫パンチを放った時、斉藤はさっと顔色を変えたのだ。
「……なんだと? こんな時にか」
何がこんな時になのか。いいから放せ。
わたしの心の声が伝わったのか、斉藤はわたしを掴む手を下ろそうとした。だがそこで、ちょっと困ったことになった。
爪が! わたしの爪が斉藤のタンクトップに引っかかって取れない!
なんだこれは。やだやだ。はーなーしーてー。
「ちょっ、暴れないで。放して」
それはこっちの台詞だ! お前が放せ! むしろここにタンクトップを脱ぎ捨てていけ!
「まずい、急がないと……」
斉藤はわたしから視線を外すときょろきょろと辺りを見回した。そしてあろうことか―――― わたしを抱いたまま玄関のドアを開ける。あ、いーけないんだ、いけないんだ。わたしを出すとヨーコにおこられるぞー。
「仕方がない。終わったらすぐに帰してあげるからな」
……え? 何言っちゃってるんだ? どうした斉藤。意味が分からない。
吹き抜けの上から毛玉が叫ぶ。
「やめろ、斉藤―――― 」
なんだ毛玉。お前が大きな声を出すなんて珍しい。
そう思ってわたしが顔を上げると、そこはもうヨーコの家ではなく謎の真っ赤な空の下だったのだ。
…………ええー。