氷片

禁転載

やはり、暗い場所で見る方が綺麗だと思った。
手の平にすっぽり収まるほどの小さな液晶は、ネイの視界の中、蛍よりも硬質で慎ましやかな光を放っている。
まるで閉ざされた部屋においてそれは、唯一の光源であった。
ネイは、時間が経ったため消えかける液晶画面を、ボタンを押して再び点灯させる。
部屋に漂う物言わぬ空気をそのまま映し出したかのような携帯の画面には、ほの暗い場所に置かれているのであろう冷えた水が硝子瓶に湛えられていた。

また一つ氷が水の中へと沈んでいく。
飛沫を立てて透明な氷塊は硝子瓶の中へと落下し、そうしてゆっくりと水面に浮かび上がった。
小刻みに水の上を揺れながらそれは徐々に溶けて小さくなっていく。
いつまでも繰り返す音の無い営み。
点滅する生成と消滅は、明るい部屋に垣間見える虚実よりも余程、心地よかった。

「何を見てるの?」
ソウの声はノックよりも早く静寂に割り込んだ。ネイが頭をもたげると彼は開いたドアを今更ながらに軽く叩いている。
廊下から入り込む電球の明かりに、ネイは自分の領域を侵犯されたような苛立ちを覚えた。体の中に敷き込んでいた左腕を上げてソウの背後を指差す。
「ドア、閉めて」
「暗いよ。電気つけていい?」
「嫌よ」
端的に拒否すると彼は肩を竦める。目が悪くなるとでも言いたいのだろう。だが、ネイがそういっても聞かないことを彼はよく知っていた。
ドアを閉めると彼は彼女がうつ伏せに寝そべっているベッドの上に座る。携帯を覗き込んでいるネイの髪に指を滑らせた。
「メール見てるの?」
「違う。待ち受け」
「ああ……flashか。いいね」
耳のすぐ後ろで聞こえる声はくすぐったくはない。もはやその響きに慣れきっているのだ。
まるで温度を感じない。ただの音だ。だから、不快は感じなかった。

氷が落ちていく。
闇と光を少しずつ内側に蓄える欠片は、回転を繰り返しながら輪郭を失っていく。
水になるのだ。
少しだけ温度を上げ、混じり合う。溶け合って満ちていく。
初めからそれは一つであったかのように。
―――― 同じものなのだから当然だ。

「綺麗なものは人の想像にしかないのね」
作られた絵。営み。回り続ける運動。
好ましいと思った。人が作る、現実によく似た非現実。電気信号によって作られるものは感情も同じだ。
ネイがたとえ硝子瓶に水を汲んでも、そこに氷を落としても、こうはならない。
これ程までに惹きつけられるのは、人の想像が描く箱庭だからなのだ。

ソウの指が携帯のディスプレイに伸ばされる。
薄蒼い光に乗せられた彼の人差し指は人形のような人間のものだった。
「決め付けることはないんじゃないかな。美しいものが見たければ自然を見ればいい」
「自然? 何処にあるの? 小さな鉢に隔離された緑なんて言わないでよ」
「そこかしこにあるよ。どこだって自然だ」
芝居がかった言葉には、幾分楽しむような色が滲んで見える。言葉遊びをしたいのだろうか。ネイは煩わしさに首を振った。
「どこにもないわ。自然なんて。皆、人の手が選んだものだもの」
「それが人の自然だ。君が人である以上、それが自然でしかないんだよ。
 未踏の地に踏み込んで自然を見ようとしても、そこにはその時人がいるんだから」
「屁理屈は自分の部屋でやって」
双子の姉のそっけない言葉にソウはしかし声を出さずに笑っただけだった。また少し、部屋に静寂が訪れる。

同じであるのに溶け合えないのは、人であるからだろうか。
生まれた時から個として分かたれたものだからか。

どこへ行っても己の視界越しにしか物を見る事が出来ないのなら、やはり自分はこの小さな液晶で充分だとネイは思う。
とても綺麗だから。
―――― そしてとても、個として閉ざされているのだから。
「閉ざされていないよ」
弟の声。聞きなれすぎて自分のものとも思える声が囁く。ネイは舌打ちしたい気分になった。
「入ってこないでよ」
「もとは同じだから、仕方ない」
「二卵性だわ」
いつもいつもそう言っているのに、ソウは目を閉じて微笑むだけだ。

人形の指が、液晶の中に伸ばされる。冷え切った水にそっと沈み込む。
ネイはその光景をじっと見つめた。

―――― ああ、厭だ。また、曖昧になっている。

指が、氷の雫を掬い取ったように見えたのはほんの一瞬で。
くらりと傾きかけた視界をネイが取り戻して見ると、暗く消えてしまった画面をソウの指がなぞっているだけだった。
「残念。いつもどこだって、繋がっている」
「あなたと?」
「いや」
彼は微笑む。すらりと長い指が、ネイの指の上からボタンを押した。
「―――― ネイと同じものを見ている人が、今もどこかにいるからだよ」

氷が、沈んでいく。溶けていく。
境界を曖昧にして一つになって、ひんやりと意識の中に溜まっていく。
音もなく微かに密やかに。混じりなく奥底へ向って。

そうして今、誰かとこの水が繋がっているのなら。重なりはせずとも双子のように寄り添うなら。
悪くない、とネイは目を閉じて笑う。
長くはない髪を、弟の指が梳いていく。

どこかで氷の落ちる音が、聞こえた気がした。